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5月の木曜日「薄いコーヒー」

 午前中の仕事ともいえない仕事を終えて、少し早めの昼食を摂ったあと、営業先の最寄駅に着いたところで、言い知れぬ疲れというか眠気に襲われて、どうしようかと数分の逡巡の末に、駅前のドトールに入って休むことにした。食事の時間とそのあとのウダウダとしていた時間、それに電車での移動時間を合わせると、本来の休憩時間はとっくに過ぎているのだけれど、なんというか、どうしてもすぐに働く気にはなれなかった。幸い予定の時間までは一時間以上あり、早く着いたら着いたでやることもあったのだけれど、さして切迫した状況ではないので、有り体にいえば、少しサボることにした。まぁ、たまにだったら良いだろう、と心の中で呟いて、自分に言い聞かせるようにレジに並ぶ。

 ここ最近、この二、三ヶ月だろうか。ほんの僅かではあるけれど、胃に痛みを感じることがある。薄っすらと、でも広く、刺すような、胃酸過多のようなイメージの痛みだ。ある程度の量の水を飲むと和らぐので、大して問題視もしていないのだけれど、原因として思い至るのは、コーヒーかアルコール。でもお酒はたまに家でビールを一杯程度飲むくらいなので、多分コーヒーだろう、という感じ。コーヒーの方はほぼ毎日、朝昼晩とそれなりに飲んでいて、しかもブラックだから、正確な根拠は何も持ち合わせてはいないけれど、きっとそうなんだろう。

 そんなことを漠然と考えていたので、レジで自分の番が来たときに自然と、アメリカンで、と言っていた。眠気と疲れもあっただろう。僕がそう言うと、店員さんは「かしこまりました。三百円です」と告げ、僕はSuicaで、と力なく言い、ピピッという電子音を鳴らした。それからソーサーの上に注文したアメリカンコーヒーが出てくるまでの数秒で、そういえばサイズを聞かれなかったなと思い至り、レジ上のメニューを見ると、アメリカンはワンサイズのみで、サイズ確認の分、やりとりが減ったことに少しだけ得をしたような気持ちになった。それくらい、今日のあの瞬間だけは疲れてしまっていたのだろう。

 席について鞄を下ろし、仕事用の携帯電話になんの通知もないことを確認してから、ミルクと砂糖を入れて、アメリカンを一口飲む。普段はブラックで飲むのだが、前述の通り最近は胃の調子に懸念があったので、不本意ながら混ぜ込む。一口飲んでから、なんだか違和感のある味がして、でもそれはミルクと砂糖のせいではなく、単純に思っていたよりも薄い味だったので、そういえばブレンドコーヒーをお湯で割ったものが、アメリカンだったんだよな、と思い直す。別に文句があるわけではない。胃の調子を気にして、自分の意思でアメリカンを頼んだのだ。それに、コーヒーのお湯割りをさして、薄いなどと文句を言うのはどう考えたって筋違いだ。カレーが辛い、シャワーが熱い、とクレームを入れたことが半ば伝説的な逸話になっている某ロックスターを一瞬だけ思い浮かべて、鞄から文庫本を取り出して読む。文字を目で追っていくうちに、次第に瞼が緩み出して、自然と目を閉じる。心地よい微睡の気配を持て余しながら、ウトウトとしていると、少し声が大きいというか、トーンの高い会話が耳に入る。

 若い女性、二十代前半くらいか。それと中年の一歩手前くらい、でも青年というには歳を食っているくらいの男性の声。別に珍しい組み合わせというわけではないけれど、どこかそのやりとりが不自然というか、他人行儀というか。少しだけ耳を凝らすと、どうやらバイトの面接のようだった。ここはドトールで、まぁそういう使われ方をしても特に変だということはないのかもしれない。ただ、少しひっかかるのは、その内容で、どうやらなんらかの水商売的なお店の面接のようだった。シフトの時間は十二時から翌朝三時まで、一回の時間が一時間半だから、たとえば十八時までシフトを出していても十六時半までにお客さんが入らなかったら、その日は十六時半であがりだよ、あぁあの娘いいよね、けっこうお客さん付いてるよ、いつから働けそう? などといった会話が聞こえてくる。少しだけ目を開けて声の方を見ると、ひとつ席を挟んだ向こうの席に、その二人がいた。

 そういう業態の人もこういうところで面接をするのだな、と呑気に思いながらも、果たしてそれは良いことなのだろうか、と烏滸がましくも思ってしまった。別に会話の内容は特に問題があるわけではないけれど、近くにいれば自然と聞こえてきてしまうし、聞こえてしまえば、それとなく察しはつくだろう。僕と彼らの間の席にマダムが座っていたけれど、彼女は何を思って隣席の会話を聞いていたのだろうと、ふと考えてしまった。まぁ、余計なお世話だろう。

 午前中、年上の同僚と軽く打ち合わせをした。僕自身はあまり関わりのない事柄だったのだけれど、意見を求められたので応えていた。本題の方はすぐに終わり、ちょっと出ないか、と言われたので、オフィスの外を軽く一周しながら、その同僚との雑談に付き合う。僕は僕で午前中に済ましておきたい雑件があるんだけどな、と思いつつも、昔それなりにお世話になった人でもあるので付き合った。その同僚は上司からいま作っている資料の直しを言われて、それがほぼ一から作り直しになったという旨の愚痴を僕にこぼす。それに加えて、人手が足りないから倉庫の整理も手伝うように言われたけれど、ちょうど最近、腰が痛いんだよね、それから……、と言った感じに話題は仕事のことを離れて、彼のプライベートの内容に変わっていった。僕は、そうですか、大変ですね、と適当に相槌を打ちながら、この一周の散歩が早く終わらないかと、気づかれないように歩くペースを上げようと思うけれど、それは叶わない。彼の話し方が、そうは言ってはいないのだけれど、だから僕に手伝って欲しいというようなニュアンスにも聞こえ、どこか「じゃあ、僕が少し手伝いますよ」と言わせようとしている風にも聞こえた気がして、でも僕は僕でこの先色々な案件が控えているので、そんなことは絶対に言わないぞ、と薄情にも思っていた。

 カフェでの見知らぬ男女の会話と、今朝の僕と同僚のやりとりのどっちが他人行儀だっただろうか、とつまらないことを一瞬だけ思い浮かべたあと、カップに残っていた薄いコーヒーを飲み干した。時間にして十五分くらいだったけれど、そのころには眠気も少し和らいでいて、カフェで一息つけて良かったな、と思った。

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