農民から腕一本で絵師になった、円山応挙

明治を代表する文豪:夏目漱石。
彼の著作である「草枕」の中で、このような一節があります。

「応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎる(人生を過ごす)のである。」

応挙とは、江戸時代を代表する絵師である「円山応挙」です。よく幽霊のイメージで「脚が無い」というのがありますが、その足の無い幽霊を始めて描いたのが円山応挙と言われています。

今回は、そんな我々の幽霊のイメージを決定的にした、円山応挙のお話です。


【始まりは、おもちゃから】

円山応挙は1733年、京都の片田舎の貧しい農民の子として生まれました。

10歳の時に、都に奉公に出され、尾張屋という玩具屋で働くことになります。

当時の玩具は、子供の玩具だけではなく、輸入品など珍しい物も扱っており、その中に「眼鏡絵」というものがありました。

これは西洋風の遠近法を使って描かれた風景画を、凸レンズ(虫眼鏡のこと)を通して見るという玩具です。(視力検査の時の風車の風景をイメージしていただければOK )

当時日本の画壇には遠近法という技法は無く、若き日の応挙はこの西洋の玩具にとても感動したといわれています。

10代後半、応挙は働く傍らで、本格的に絵画を学ぶようになります。
狩野派の画家・石田幽汀(いしだ ゆうてい)に弟子入りします。

狩野派は徳川家などの御用絵師として活躍した当時の日本画壇の最大勢力でした。応挙はここで絵の基礎を学んだと言われ、実際の物や風景を写生したり、古い名画を摸写したりといった自己修行を重ねました。

34歳の頃には応挙の名は有名になっており、円満院の僧侶である祐常に写生画を依頼されてから表舞台に立ちます。


【日本絵画に革命をもたらす】

それまでの日本絵画はどちらかというと平面的で二次元的な絵が多いですが、応挙は「写生画」という、実物に見える描写…三次元的な絵を追求しました。

例えば54歳の時の作品である「雪松図屏風(国宝)」ですが、応挙は、雪の描写を「白い紙の地を塗り残す」ことで表現します。白いところは描かない手法です。白い顔料すらのせてないのです。現代でいうところの白ヌキの表現です。

また、仔犬の絵も応挙の代表絵の一つです。
今までの動物画と違い動き回るシーンや寝ているシーンなどリアル(三次元)にこだわって描いており、今にも動き出しそうな表現です。

そして一番有名な「脚のない幽霊の絵」です。
この作品よりも前の時代の浄瑠璃本(花山院后諍)の挿絵に脚のない幽霊が描かれているので、「肉筆画として初めて」といった方が良いかもしれません。

ただし応挙は、目に見える世界の物や動物だけではなく、架空の生物(龍)やこの世のものではない幽霊、当時見ることが出来なかった虎などもリアルに描いています。これは今までの日本画壇にはありませんでした。


【受け継がれる応挙の意思】

応挙はどうしたら絵画が本物らしく見えるかという「リアルさ」を意識して様々な作品を残しました。

「見てリアル」なモノは理解しやすい

これは今も変わりません。「キュビズムは分からないが写実画なら分かる」というのと同じです。

そのため、応挙の絵は江戸時代であっても大いに受けました。

その影響は計り知れなく、同時代の小説家である上田秋成「雨月物語」の中で「京都に円山応挙があらわれたために、京都中が絵といえば「写生」ということになってしまった」と書いたくらいです。

応挙の写生画法は、息子や弟子達に受け継がれ、時代を超えて明治、大正、昭和を生きた近代の日本画家へと繋がっていきます。彼ら一派は後に「円山派」と呼ばれ、応挙を敬愛していた呉春が率いた「四条派」と共に、近代日本絵画の礎を築きます。

応挙は子供の時から暇さえあれば写生をしていたと言います。
何かを継続していれば、いずれ芽が出るということを、応挙は教えてくれています。

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