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[日録]嫌いなものの話

June 9, 2021

 私は一応対外的には無宗教者であり聖人君子でもないしがなく尊い社会を構成する一員であるが日本に生まれつき西洋化されながらもその独自の文化に触れることで簡単に仏教とは割り切れない何かしらの宗教性が身についたことは理解しているもののこの世の全てのものを愛さなければならないなどとは思わない一方で全てのものを憎しみで覆い隠そうという気持ちが芽生えるほど世界を恨んでもいない私はただ私の目の前を縦横無尽に通り過ぎていくその全てに対して逐一誠意を持って愛さなければいけないのであればたとえ部屋の中が散らかっていようともコーヒーをこぼして絨毯にしみができようともそのいずれの状況であれども慈しまなければ無償の愛が成り立たないのでありながら汚れた絨毯のことを思うのであれば愛を込めた眼差しをもってコーヒーのしみを拭き取らなければならなくなるがそれではしみができた世界への愛を否定することにも繋がると理解できる簡単な事実から分かるように全てのものをいちいち愛していてはキリがないと考えているからに過ぎない私の人生において愛を持って接することができる対象は歳を重ねるごとに増えているような気もするがそれはただの錯覚であり正しくはその時々で愛を注ぐ対象が変わっているだけで自らの愛の許容範囲自体は何も変わっていないと気づいた時にはもう遅く私は昔嫌いであったものに対して今では情熱を込めることもあるしまたその逆も往々にして起こり得るわけであるがたとえば禁煙したり喫煙したりを繰り返すのもそうであるし子どもの頃は食べられなかったものを食べられるようになったという経験も事実としてあるがこれまたその逆もしかりで私は人生の九割以上もの期間肉を食べて生活してきたのであるがある時ふと思いついたかのように牛豚鳥といった肉類を食べることを止めたことは特に理由もなく強いて述べるのであれば肉料理をしたあとの洗い物が面倒くさいと常々感じていたことが挙げられるが何かそれ以上の対外的な使命と呼べる強い思いから動いた結果による決断では決してなく卵は今なお食すようにしているし魚も一応食べては良いということにしているが不思議となぜか肉を食わないでいると魚も食べないようになっていき今では豆と野菜と玄米を毎日食べて暮らしている穏やかな食生活ながら時たまカニカマを買ってしまうのでいわゆるヴィーガンといった方たちからすれば相当に生やさしい姿勢であることも理解はしている私もたしかに家畜の屁やげっぷによる環境汚染などが年々上昇しているだけでは飽き足らず果てはアマゾンの森林を焼き尽くしてキャピタリズムの工場を設けようと嗜虐の限りを尽くす世の中に対して私は嫌悪を抱かざるを得ない一方で自分が何の気無しに暮らしている中でもなにかが損なわれていくことに私が加担している行動を取っているのだろうとも理解している今この目の前にある卵は養鶏場で生まれて死ぬまで動くことができない牢獄の中で我々があえて目を逸らして想像しないようにしている永遠の苦しみから生まれ出でた一つのものであるというこの事実を私は頭では理解しているので定期的に屠殺の映像なども見るように一応はしておりオスとメスを峻別されたヒヨコの内メスは先述した苦しみを与えられる運命が生まれる前から結論付けられオスはそのままベルトコンベアーで高速回転するカッターまで運ばれていくかまとめて動物園の猛獣たちの餌へとされていく膨大な運命の一部始終が映し出されその全ての子が永遠の苦しみの中で死んでいくのだと理解できる映像やまるで思い入れの少ない文化祭の片付けをしながら入学前はもっと楽しい行事を想像してたのになあと不貞腐れた顔つきと粗雑な手つきに似たような態度で吊り下げられた豚をザクザクと斬り刻んでいくなどする映像であるがこれらを見てかわいそうと思ったから肉を食べないように決めたわけではなくただ単純に帰宅する電車の中で今日はスーパーに寄ってから家に帰ろうと誰に言うでもなく決意する時と何も変わらない小さな思いつきから始めただけである私はその事実を頭では理解できているのだ。
どうして?
 私が肉を食べなくなってから、周りの方々からそう聞かれることが増えた。私が肉を食べない理由は上記のような小さき決意から来る瑣末な行動であり、大義名分などあるはずもないからさして気にも止めないでくれと手を振ると、すぐさま話題を変えてにこにこと話をしているが、心の内では彼らの質問に鮮やかに答えられないでいる不甲斐なさの気持ちでいっぱいになり、その笑顔とは裏腹に、私の意識は荒涼たる霞の中に根付いているのだということは誰にも分からない。意識を歩かせるたびに、足元が砂のようにさらりとしていたはずの感触がいつしかピンク色の臓物の上を歩かされているような気分になってしまう。この酔いは気分が悪い。ぶよぶよとこびり付いて離れない意識を足元で受けた触感が脳内から溢れ出て、そのシナプスの電流が駆け巡ると私は呟くのである。
どうして?
 私が続きを言うことはない。その言葉が現実に出たものかどうかも分からない。とにかく私はその時、どうして肉を食べることが当たり前なのかを問いたかったのであるが、対話をしたかったわけではない。話し合わなければ出ないような答えを日常的に探しているのであれば、そもそもの我々の生活は改めないといけないだろうが、そこまでの話にしたいわけでもない。私はただ、あの砂漠を歩く感触のようにさらりと答えてくれるのであれば、ぜひとも聞いてみたいところではあったが、どっちに転んでも面倒くさい話になりそうな気がしただけであり、特に私は何も考えていなかった。私は面倒くさいことが嫌いなのである。何も考えないことのためにこうだらだらと考えなければならないようなことが人生で何度も起こり得るのであれば、私は "肉を食わない" 人間として生きることで、人類が狂乱のもとに業の石を積み上げているその最中でも一人だけ少しはサボろうと考えたからにほかならず、動物を慮っての行動などではない。業と分かりながらも業の石を次々に渡されては、私はこんなことをしていて良いのであろうかなんてあれやこれやとああでもないこうでもないと考えさせられ、夜もうなされ眠れやしない人生などなるべく御免被りたく、私はできるだけ何も考えないで良い道を選んだのである。そのため、肉はだめで野菜は良い理由はなぜかと問われても、私は肉を食べなくても野菜があれば生きていける気がしただけで、何も食べなくても日々思うままに活動することが許されるのであれば私は別に構わない程度の意識しかない。人によっては、動物は痛みを感じる一方で、野菜には痛覚が無いからだという理由を持っているそうであるが、私はそういう考え方にはあまり賛同できない。科学的には正しいのだろうが、痛覚の有無で、そのものしか感じ得ない "痛み" を勝手に定義づけるなど、我々のような肉体と精神について日々思い悩む人間がして良いものなのであろうかと、疑問に感じてしまうからである。反対に、食われる痛みに喜びを感じながら死んでいく生き物だって現実にいるかもしれない。何千年と生きる吸血鬼の少女に寄り添い続けた未だ恋に燃える老人が、最期の時に彼女に全ての血を与えているその一瞬一瞬が、痛みを超越する感情を呼び覚ますことなど、物語が好きな私たちには容易に享受可能な感覚であろう。我々は皆、感覚それ自体を共有することはできない。どこまでいっても両者のあいだで完璧な理解などは起こり得ない。私はそれを感覚で "理解" している。だからこそ、一つの物事を全体における価値の基準があるだとか価値の判断をしなければならないだとか難しいことは決めずに、ぶらぶらと思考の波に揺られて常日頃生きているだけに過ぎない。なぜなら私は予定を立てることが嫌いなのである。私が思うに、予定は法律と同じであり、両者は何かを為す上で制限を設けるというあたりが似ている。そんなことをぶつぶつと人生の前哨で一人で考えている内に、ふと "Rules are made to be broken" という言葉がポカンと頭に浮かび、私はふらふらとその場を離れることになりながらも今を生きられているのである。法律は破られることを前提に作られているといった旨の言葉を放ったのが誰であったかは忘れてしまったが、要するに私にとって予定とはそういう認識のものなのである。予定とは守れないと分かっているから立てるのであって、守ることができるのであればそもそも予定を立てる必要がない。いや、忘れないようにするために予定を立てているのだと言うのであれば、忘れる可能性のある予定など人生において大したものに成り得ないであろうから、仕事でもない限り無視して損することもないと言ってしまいたい。しかし、私はこのような長台詞を覚えられない。そのため、言うぞと決めた前日には、必ずやこの台詞を暗記しなくてはならないが、予定を立てることが嫌いな私は、その暗記するべき前日が一生来ないことを理解している。台詞も未だ、ここから出られていない。これを書いたら何をしようかも決めていない。シャワーを浴びて寝るだけかもしれない。それを今この場で予定として立てるくらいは別に構わない。では、シャワーを浴びることにします。夏場のシャワーは悪くない。
 このようにして何か嫌いなものを考えようとするとなぜそれが嫌いなのかまでを追求したくなる私はただ心の底から頭のてっぺんまで探ろうとも不愉快という感情しか見つからないような物事が嫌いなだけだ。流行りだといって大して興味の持てない音楽を聴覚の範囲内でばかばかと流されることや全く掃除されていないことが見て取れる便座へと座ることなどだ。何も琴線に触れずにおもしろくないと思ってしまうような映画を見ているときや読んでいて自分のテンポに合わず苛々してくる本を読んでいるときなどもそうだ。誰かのことが嫌いなわけではない。その誰かと出会う状況なども包括したその瞬間こそが嫌いなだけで嫌いなもののものとは瞬間つまり時間にほかならないのかもしれない。であれば私たちは時間を嫌っているだけなのである。その時間を過ごすことになる未来を恐れているのである。しかし未来は自分一人で考えるものではなく皆で一丸となり考えていくべきものと幼き私は皆に教えこまされた。ならば皆が嫌いな時間を持ち寄り誰かに押し付けるわけではなく隣のきみの好きな時間として託すことができるのであれば私はにこやかに受け渡し見返りを求めることなく満足げな足取りで家路に着いて橋を渡る頃には空の奥に満月がぽっかり浮かんでいるはずである。鈍く白く光るその月を見ていると次第に空洞のように思えてきて負の感情なども祓われるこの状態を無我の境地と呼ぶのかもしれない。そこまで到達できるのであれば後にも先にも好き嫌いなど考えなくて済むわけであるが果たして私と私たちはそのような未来を望んでいるのかどうかもこの世が諸行無常であると言うならば永遠の無我の境地というものは有り得ないのだろうかという疑問も無宗教者としての私にはいまいちよく分からない。

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