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[日録]全力を出せる可能性は算出が不可能なだけで確かに存在している。

May 29, 2021

 自分に出来る範囲のものを全て全力でやれたなら、どんなに気持ちの良いことだろう。我が人生に手を抜いているわけでは勿論ない。私は精一杯生きている。だが、今までに全力を出したと胸を張って言える日を、此の短くも長い人生の中で数え上げたとしても、両の手に収まるほどにも無いのではないかという不可思議な猜疑心が、ずうっと私に連れられて歩いているような気がしてならない。人生における後悔などすでに腐るほど在るが、それでも明日を生きることを止められない。然ういった泥臭い人生を歩むのだということを、ひっそりと知らない裡に決めてしまっていたのだろうか。此のように文章を書くようになるなどとも思っていなかったが、人生何が起こるか誰にも予想出来ないということは知っていた。個人的体験の全てを全てではないものが理解出来るなどと言い張ろうとも、その理解は事実を細かく解体して並べた余白の無い一枚の絵画に過ぎず、一つは繋がることで全体足り得ることが出来ているだけなのであり、然う仰る事実が紛うことなき事実であるとは軽々しく頷けない。仮に可能性を固形物として捉えるのであれば、同じことが言えるのかもしれない。 "新しいことに挑戦する" という格言めいた言葉が美徳であると思うのは勝手であり私も賛同しないこともないが、額面通りに受け取って仕舞えば却って交わる苦労を費やすだけで終わることになるかもしれないと私のように感じられるのであれば、これは警告とも成り得るだろう。
 私は映像を作ることが趣味であると謳ってはいるものの、ここ最近は全くと言ってよいほど作っていない。仕事が忙しいのも然うであるし、その中には映像の仕事も今はなく、暇をしているわけでは決してない。日々を生きることが、どれほど大変なことかは皆さんご存知のとおりであって、私もそれに倣っているだけなのである。時間が出来たら、気が向いたら、良いアイデアがあったら、また手を付けようと考えてはいるものの、ここ最近はつらつらと文章を綴っていた方が心地が良い。一日が始まる間に布団と優しく戯れながら、微睡の中で伸びをして、一杯の水を飲むと、どっぷりと本の世界に浸る。ふと思いついたことがあればすぐさま書き留めて、また浸るに戻る。書き留める。浸る。書く。そのような繰り返しで、此の日録は生まれているが、最終的にまとめ上げるときは費やす時間を決めずに好きに書いている。もし何も書くことがなく筆が進まないのであれば、何かに浸れているという悦びを胸に感じているのであろうから、さして気にも留めない。それでも今日のように、ごく稀に自分が出来ないような作品まで思いついてしまうこともある。その時の私は、人形についての話が出てくる漫画を読んでいる内に、いつしか頭の中では勝手に自分の作品を生み出そうとシナプスが働きを見せ始め、それが型取る媒体は映像ではなく漫画であったのだが、残念ながら私は絵を描くことを得意としていない。それでも考えることを止めなかった。私が絵を描けないからといって、私は漫画を描いてはならないということではなく、それを制止出来るものは私だけで在るので、私は何も心配していなかったのだ……とでも言えて仕舞えば、少しは格好も着くのだが、実際には小学生からの幼馴染が絵描きであるからわざわざ私が描く必要などないと甘んじていたのである。
 頭の中でイメージが固まると、私は徐にPower Pointを開いた。真っ白なページにいそいそとPhotoshopで加工した画像を当て嵌めると、空いたスペースに説明の文字を添えて行く。先ほど思いついた漫画の企画資料を作成しているのであるが、幸い漫画にしても十頁も満たないような作品であったことも手伝い、一時間も経たずに仕上げられたことに対して私は無愛想なまま、読み返すこともせずPDF形式に変換すると、彼にLINEで送りつけてはすぐさま電話を掛けたが、やはり出ない。私の友人は斯う云う人許りだ。電話に漸く出たと喜び、 "何してた?" と聞くと "何もしてないで" と答えてくるような貴方方は精一杯生きているのかと訝しんでしまう失礼な連中であるが、その中の一人である彼も三度目の電話に出ると予想を裏切ることなく然う答えた。私は挨拶も漫ろに "LINEの資料を読んでくれ" と促すと、iPhoneに目を向けて電話を切った画面から彼とのLINEの画面へと親指で切り替えて、 "NINGYOU_proposal.pdf" ファイルに既読が付いたのを確認して一息付き、それ以上の空気を肺に入れ込もうと煙草に火を付け、換気扇の下で紫煙を燻らせながら彼も読んでいるであろう自分で送った資料に自身で目を通している最中に、彼からの着信が鳴る。
「もしもし」
「読んだで」
「どうやった?」
「おーなるほど、ってなった。こういうの描きたいとちょっと思ってたわ」
「ええやん。さっき自分でも読んでて思ってんけどさー……」
 私は彼に長々と自分が考えた作品にどういった意図を込めているのかや、どういった時に思いついたのかなどを捲し立てると、まあ気が向いたら描いてくれよと伝えて電話を切った。私には、描いてくれないかもしれないという不安も無く、描いてくれるだろうという確信も無かった。正直どちらでも良いと考えていたし、もし私に絵が描けたとしても、今すぐ漫画にしようと取り掛かるようなことはしなかったと思う。決して作品に落とし込むことを億劫に感じているのではない。漫画が出来上がれば跳んで喜ぶだろうが、そのような感情を私の人生で一番付き合いの長い彼に押し付けてはいけない。彼には伸び伸びと生きていて欲しいという私の願いが成就した時には、自ずと作品も出来上がるだろうと、私は以上のような手短でいて繊細な種蒔きを終えると、まるで仕事のあとの一服かのように煙草をふかしながら、午前零時にコーヒーを淹れると窓際のMacBookの隣に置いては気晴らしにぱちぱちとキーボードを打ち鳴らし始めて、今に至っている。繰り返すようだが、私は漫画のようなタッチだけではなく全般的に絵が描けない。しかし、漫画の話を考えること自体は嫌いではない。一方で、文章は皆と同じように書けるものの、小説は原稿用紙十枚にも満たない程度の短編しか完成させたことがなく、また、仕事として申し分ない映像を作る程度には映像制作を得意としてはいるが、撮影現場に赴いたり、カメラを回すことはあまり好きではない。此のようにして、一つの趣味や仕事と簡単に割り切らずに手に取ってじっくり瞶めていると、それはいくつかの不完全なもので成り立っていることが次第に分かってくる。私は、自分自身も敢えなくそのような存在にほかならないと直感的に理解したのだからこそ、自分が出来る範囲の中で最大限の努力をすることで押し拡げられていく範囲こそが可能性なのだと解釈したのであって、無闇にその範囲外のものにまで手を出すようなことは今やしない。それがいばらの道を進むことになるかもしれないと二十八年目を歩み続けて居る内に、いい加減覚え込んでしまったのだ。
 ディープラーニングが出来ない私たちが今尚生きることが出来ている此の世界では、異常な迄プログラミングが持て囃され、それに預からねばと血眼になっている人許りのように思えるが、純粋にプログラミングを自らの範囲内であるとして粛々と手を動かしてきた方々は、此のような風潮を如何感じているのだろう。然う疑問に思った何時かの私は、同僚のプログラミングを専門的に学んでいた方に尋ねてみた。どうも思わないけど、大変ですよとは言いたいですねと、大して温度を上げることなく、そんなふうに彼は答えた。私も映像制作を志すと誓う人に対しては、然ういった感覚を抱いてしまうので、彼の言葉は言葉尻が定かではないものの妙に印象に残って響いている。斯く云う私も、就職活動の時期となる数ヶ月前までは映画乃至映像を "観る" ことのみに努めてきて、自らの職業にしようなどとは全く考えていなかったのであるが、なかなかどうして、気が付いたら大学を卒業すると同時に映像業界といういくさばに飛び込み、否応無しに斬り刻まれ血みどろになった無様な姿で休戦協定を結んだにも関わらず、知らぬ間に何故だか戦地へと連れ戻されては "作る" 方での大立ち回りをお見せしているのだろうか。観る私が作る私に成る為の道へと足を踏み入れた結果、映像制作の楽しみを覚えたことは事実であると認めるが、未だに机の前に坐るととらうまが頭を擡げ始め、憂鬱な感情を抱く始末である。作り込んでいる内に没頭出来れば感情など棄て去って仕舞えるが、到達出来るか如何かは私次第なのであるからこそ私には如何なるか分からない。私は私を未だに理解出来ていない。しかし、理解出来たと錯覚するほどの全能感に満ち足りた時こそが、私の意味する全力なのかもしれない。自惚れに近い感情でもあるが、それを差し引いたとしても確かに過去何度か然う感じられた日があった。只、今回の漫画の閃きが弾けた瞬間は、私には "その日である" と捉え切れておらず、自分の口から言い出す気にもなれない上に、事実として然うなので在るかもしれないが、資料に迄落とし込めた作品が何か美徳を損なう代物だと斬り捨てることも出来ない。私と彼の脳内では、かの作品は享受されてしまったのである。あとは壁になろうと花になろうと、我々は文句を言うことすら出来ないまま時間の旅を続けることを余儀なくされ、延々と続いているかに見える今その歩みは、柔らかな布が揺蕩うように緩やかな風が吹くほど穏やかなこともあれば、急な雨で干していた筈の洗濯物がずぶ濡れになってしまうこともあるだろう。それでも私は可能性の一糸を掴むことを望むような自分でりたい。可能性は紐という形をした固形物なのかもしれない。その紐を掴めるのか如何かも、掴んだとしても何処へ行くのかも、誰も分からない。だからこそ、私は私の可能性としての範囲内である此の部屋を隅々迄見ることのみに努め計らい、壁の向こうの可能性を仄めかされようとも無闇に飛びつくことはせず、自身の裡を見る人生を歩んでいくのである。それが終わった時に、何が残っているかは知ったことではいが、何かは残っている筈だという可能性には賭けてみい。いつしか可能性の算出方法が判明し、の是非を問われるある種の丁半博打の為の賭け金と成るものを準備しているだけなのかもしれない気持ちが過る人生を、私は私たちと進んでいくことしか出来ない。私自身も抱く "我(々)は何者なのか" という問いに対する答えは依然として暫定的でしか成り得ず、そのてを述べられる時が来ることは、可能性の算出結果が開示される可能性と等しく、詰まりは限りなくに近い。

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