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“綿来かごめ”は生きていた

「大豆田とわ子と三人の元夫」

第六話の放送が終わった。
もうタイトルの時点でお察しではあるけど、ネタバレを多分に含む感想文。

第一話鑑賞後の記事はこちら。



第六話、お別れの回。第一章の終幕。

だけどそれにしたって、綿来かごめともお別れしなくたってよかったじゃないか。

作中では医者が「直接死因は心筋梗塞」と看護師と話す場面を八作が通り過ぎていくだけ。どんな状況だったのか明確には語られない。とわ子の会社の取引が結局どうなったのかも、何も分からない。

たくさんの山に囲まれながらも、自分のやりたいように生きるかごめが好きだった。まるで私自身がかごめの友人であるかのような錯覚に陥るほど。

どこかでかごめと自分と重ねていたのかもしれない。
恋愛を「私の人生に要らないの」と言い切ったかごめを、自分の希望のように眺めていた気がする。
恋愛がなくたって、心を許せる友人がいれば幸せでいられると。こんなに仲良しで、葬式も頼めるくらいで、父であり母であり兄弟で、祖父であり祖母であり。叔父であり叔母であり。そんな存在がいるのなら。

でもそれじゃあ、かごめはとわ子を見送る側には絶対になりたくなかったんじゃないかな。ある意味かごめにとって、とわ子は全てだったんじゃないかな。とわ子を見送るよりマシだったってことも、あるかも。ないかも。


「一人でも大丈夫だけど誰かに大事にされたい」、3回結婚して3回離婚したとわ子と、1度も結婚したことがなく、好意を寄せてきた異性を避け「恋愛は要らない」かごめ。
建築会社の社長を務めるとわ子と、会社勤めが苦手なかごめ。

対極にいる親友がバラバラになってしまった。
ここから物語はどう変わっていくんだろう。この世界じゃ、あまり変わらない気もする。

作品として、かごめの死が「意味のある死」だと良いと思いながら、かごめは何かのために死んだんじゃないし、現実の「死」に意味なんてない!とも思う。


月並みだけど失ってから初めて気付いた。綿来かごめがこんなにも、ただの「ドラマの中のキャラクター」ではなく、わたし自身の中で生きていたんだということに。

またねと別れた人に、二度と会えなくなってしまうこと。誰かが居なくなった後も、淡々と世界は進んでいくこと。目まぐるしい日々が変わらず続くこと。悲しくたって、お腹が減ること。

そういう別れのリアリティが、このドラマにはあった。創作物の登場人物の死で、こんなに喪失感を味わったのは生まれて初めてかもしれない。

かごめは幸せだったかな。そういう風に思う自分も嫌なんだけど。
まだ自分の中で生きていて欲しいけど、これから何度この作品を見返しても、私はもう「これから別れがやってくる綿来かごめ」という目で見てしまうんだろうな。


おばあちゃんの遺産を全額寄付したこと。幼い頃とわ子と一緒に夢見ていた漫画家を、急に復活させたこと。そういえば背中痛がってたなあとか。
穴が空いた靴下だって、意味深に感じちゃうし。
でもパーカーの紐が抜けちゃったのを直すのも、靴下を渡すのも、約束したのにな。

死ぬっていうこと、死んだっていうこと。そのフィルターを通してでしか、
もうかごめを見られなくなった。私のかごめを見る目が変わってしまった。
それが一番悲しかった。

第四話、かごめの家庭事情を思いがけず知ってしまったとわ子に「忘れて」と

「そのことで私のこと見て欲しくないんだよね、
そこを持って私を語られるのがやなんだよね。
私は、それを超えるアイデンティティを作ってきたはずだし、あるから。」

と言っていたから、余計に。



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