こまちゃん

国文学研究者です。和歌を含む王朝の文学作品を対象に、新しい解釈研究を展開しています。ア…

こまちゃん

国文学研究者です。和歌を含む王朝の文学作品を対象に、新しい解釈研究を展開しています。アイコンは山吹の花びら。中宮定子のメッセージを再現しました。墨で七文字、「いはておもふそ」と書いてあります。

最近の記事

海月には骨があるのか?〜奇跡の象徴〜

▶だからこそ、人が「見たい」と願うもの (今回の記事は、タイトルからしてすでにネタバレ。あらかじめ「謎解き」の、その「答え」を明かして進めます。)  さて「海月の骨」は、「あるはずのないもの」ではなく、だからこそ人が「見たい」と思う、《奇跡》の象徴。  ところが、従来、これを用いた清少納言の機転はまったく理解されていません。「あるはずのない海月の骨だ」と言って、自らが仕える中宮定子の大切な弟君・隆家少年をからかったのだと思われています。『枕草子』の「海月の骨」の話は、高

    • どうして春は、「あけぼの」なのか?

      ▶「春はあけぼの」がいいと訳してはダメなわけ  清少納言は、決して春はあけぼの「がいい」とは言っていないのに、私たちは、ついつい「いい」と補ってしまいます(学校では、文末に「をかし」が略されていると教わるはずです)。  でもそれは、私たちが「あけぼの」よりも、「春」が大事と思っているからではないでしょうか。  つまりはこれも、先入観です。  「春は、あけぼの」という構文をそのまま解せば、    「春 = あけぼの」 ……ということになるはずです。  それは決して「春>

      • 陀羅尼は、暁。

        ▶なぜ、「暁」と「夕暮」なのか?  『枕草子』には、こんな短い章段があります。   陀羅尼は、暁。読経は、夕暮。  なんとなく、「そんなものか」と、つい読み過ごしてしまいそうなほど、さりげない文章ですが、よく見ると、清少納言らしい機知(ウイット)が含まれていることに気づきます。  もちろん、「陀羅尼は暁に唱えるべし」とか、「読経をするなら夕暮に限る」などと決まったものではありません。ですから、私たちは、そこで少し立ち止まって考えてみる必要があるのです。  その上でい

        • 誰も知らない死出の旅路~定子の辞世歌~

          ▶誤解された定子の辞世歌  定子が残した複数の辞世歌のうち、これは今を生きるすべての人々、つまり「私たち」に宛てられた一首です。千年前、若き定子は、この世の生者が誰も知らない「死出の旅路」に自らが向かう気持ちを詠みました。そうやって彼女は、人々の「生」とその「最期」の瞬間にまで、寄り添おうとしたのです。   知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎたつかな(藤原定子) 新全訳 (それがどのようなものなのか、)知る人とてない死出の道に、(それゆえ、)心細く思いながらも

        海月には骨があるのか?〜奇跡の象徴〜

          「今夜のこの世」は「今夜」です

          ▶この世を席巻している珍説  さて、言わずと知れた道長自讃歌。   この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば  そしてウィキペディアを参照する際、リテラシーが必要であるのは言うまでもない。事実がそのまま書かれているとは限らないからである。道長自讃歌に付されたこの注記(注釈)は、ことさらひどい。 〈山本淳子は、従来のものとは異なる歌意解釈を提示している。この句は口頭で詠んだだけで道長本人は文字にしていないため、漢字は他人の解釈であり、実際は「この世」

          「今夜のこの世」は「今夜」です

          新刊情報『古代中世文学論考 第50集』(新典社 10月発売予定!)

          古代中世文学論考 第50集 株式会社 新典社 (shintensha.co.jp) こちらからでも。 Amazon.co.jp: 古代中世文学論考 第50集 : 古代中世文学論考刊行会: 本 ・この秋に刊行される、私の新しい論文思ふ人」話法》についてご紹介します。 ♢拙論のタイトルと、内容の目次 [タイトル] 圷美奈子 「類型」としての「例の思ふ人」話法 ~『枕草子』「関白殿の、黒戸より出でさせたまふとて」の段の事件年時と、藤原道長~ [内容目次] 第1節 はじめ

          新刊情報『古代中世文学論考 第50集』(新典社 10月発売予定!)

          パロディとしての歌物語~『伊勢物語』の作り方~

          ▶23段「筒井筒」の場合  高校古典の定番教材『伊勢物語』23段「筒井筒」に出てくる最初の歌です。   筒井つの井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに  「作中歌」として用いられたこの古歌、実は、「井筒」のある、すなわち「井戸端」で遊んだことがあるから詠んだ歌ではありません。  歌の中の「井筒(ゐつつ)」は、ずっとそのまま「居つつ」ある、《変わらぬ心》の象徴として、はじめてここに詠み込まれました。だからこそ、一首が「求婚の歌」ともなり得るのですが、従来、

          パロディとしての歌物語~『伊勢物語』の作り方~

          川をめぐる随想~『枕草子』の手法~

          ▶明日をも知らぬ、飛鳥川  「河」といって、清少納言が真っ先に挙げるのは「飛鳥川」の名。大和の国(奈良)の歌枕です。  河は 飛鳥川。淵瀬定めなく、はかなからむと、いとあはれなり。(『枕草子』「能因本」222段)  飛鳥川の「淵」と「瀬」の定めがなく「変わりやすい」というのは、『古今和歌集』に入る次の歌に拠っています。  世の中は何か常なるあすか川 昨日の淵ぞ今日は瀬になる(『古今和歌集』雑下・よみ人知らず)  歌の内容は〝昨日は深い淀み(淵)であったところが、今

          川をめぐる随想~『枕草子』の手法~

          その歌はなぜ「都鳥」を詠むのか?

          ▶都鳥に「言問ふ」理由  この秋の新しい論文で私が最初に取り上げるのは、あの有名な、在原業平の「都鳥」の歌。『伊勢物語』9段「東下り」のお話では、昔男が「隅田川」のほとりで詠んだことになっていますね。  だがしかし、これはまだ見ぬ「理想の恋人」すなわち「思ふ人」を、「人が多く集まる都」に探し求める詠歌であり、〈誰かを都に置いて来た〉という話ではない。皆さんが信じ込んでいるそれはただ、歌を用いた歌物語、『伊勢物語』の筋書きなのです。   名にしおはばいざ言問はむ都鳥 わが

          その歌はなぜ「都鳥」を詠むのか?

          定子の「傘」

          ▶新しい解釈  その名も〝定子の「傘」〟と題した私の論文では、従来、「お前の傘に隠れて、暁方、部屋から出て行った男は誰だ?」と問いただすものと考えられている「定子の文」の真意について、通説とは異なる、まったく新しい解釈を提示している。  それは、定子が清少納言に差し出した、「私の傘を貸してあげましょうか?」という「助け舟」だったのである。当該の拙論は、ネット上でも公開されている。初出は、2011年3月、イラスト入り。定子と清少納言がやり取りした「絵手紙」を再現している。

          定子の「傘」

          ご挨拶に代えて

           王朝文学研究者、こまちゃん(仮)です。この note では、私個人の研究情報を中心に、記事の投稿をしてまいります。 【著作権についての注意】  コンテンツまたは研究発表等の題目ならびに要旨の表現および研究上の手続きを含むその内容は、「著作物」また「学問的見解」として法的保護を受けるものであり、これを複製したり出典を明記せずに使用したりすれば、その侵害行為とみなされ「盗用」として法的制裁を受ける場合があります。

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