陀羅尼は、暁。
▶なぜ、「暁」と「夕暮」なのか?
『枕草子』には、こんな短い章段があります。
陀羅尼は、暁。読経は、夕暮。
なんとなく、「そんなものか」と、つい読み過ごしてしまいそうなほど、さりげない文章ですが、よく見ると、清少納言らしい機知(ウイット)が含まれていることに気づきます。
もちろん、「陀羅尼は暁に唱えるべし」とか、「読経をするなら夕暮に限る」などと決まったものではありません。ですから、私たちは、そこで少し立ち止まって考えてみる必要があるのです。
その上でいま、清少納言は「陀羅尼」と「読経」を一日の中の特定の刻限である「暁」と「夕暮」に、それぞれ結びつけて言い切っています。千年前の世界にあってもかなり自由、かつ大胆な試みであるというべきでしょう。
そもそも「陀羅尼」とは、梵語のまま翻訳せずに読みあげる、呪文のように聞こえるお経で、エキゾチックな感じがします。清少納言がここで「陀羅尼は、暁」と述べている理由についても、従来は、「暁(後夜)と神秘的な雰囲気が共通するから」だと考えられています。
片や「読経は、夕暮」のほうには、「日没と悲哀的情調が調和するから」という説明が付されてもいます。いずれも、小学館の『新編日本古典文学全集 枕草子』(および、旧『日本古典文学全集 枕草子』)の頭注ですが、文章の読解やその説明としてはやや不十分な憾みがあります。
▶「人の声」としての経典
仏教思想が支配する平安時代の日本に生きた清少納言が発信するのは、例えば、こうした問いかけであったのかもしれません。
《一つの宗教の経典は、人間の存在を越えて、絶対的なものであろうか?》
つまり彼女は、仏教の聖典を取り上げて「陀羅尼」や「読経」を、鳥の声や風の音、また虫の音のごとく、「暁」と「夕暮」の二つの時間帯に、大胆に振り分けてみせているのです。
確かに仏の教えも「人の声」としてあらわされてはじめて、自然の中に調和する、その意味でこそ〈超越的〉な響きとなって、人の心に染み入るのでしょう。
大切なのは「人の声」に象徴される「人間」そのものであって、ほかではない……と言っているように感じられます。
「陀羅尼は、暁。読経は、夕暮がよい」というふうに、「よい」等の言葉を補っていては理解できない事柄です。それは、文章の主軸をあえて、「陀羅尼」や「読経」に据える読み方なのです。『枕草子』における人間主体のテーマを読み解くためには、固定観念を打ち破る発想の転換が求められます。
そしてこの件は、「春はあけぼのがいい」と教え続ける、古典教育の問題ともかかわっています。少し砕けて現代風に、「春って曙よ!」(橋本治、1987年)と訳してみても変わりはしません。
『枕草子』のこうした文章については、「をかし」を略したものと考えるのが常道ですが、それ自体、不要なことだと思います。『枕草子』の初段「春はあけぼの」のお話は、いずれまた。
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