「今夜のこの世」は「今夜」です


▶この世を席巻している珍説

 さて、言わずと知れた道長自讃歌。

  この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

 そしてウィキペディアを参照する際、リテラシーが必要であるのは言うまでもない。事実がそのまま書かれているとは限らないからである。道長自讃歌に付されたこの注記(注釈)は、ことさらひどい。

〈山本淳子は、従来のものとは異なる歌意解釈を提示している。この句は口頭で詠んだだけで道長本人は文字にしていないため、漢字は他人の解釈であり、実際は「この世」は「この夜」とも解釈できるため、単に「今夜の宴は満足です」という意味にもとれる。〉
 ※〈 〉内は、ウィキペディア「藤原道長」の項の「注釈」による。太字の処理は、いま筆者。

 まずもって、「今夜」の「この世」は「今夜」でしかなく、道長詠の「この世」は「今夜」の意味にはならない。要するに、掛詞かけことばではない。掛かっていないので、「この世」は「この夜」とは解釈し得ない。本件注記で「漢字は他人の解釈であり」云々などと言い換えてみても、同じことです。

 つまり、〝「今夜」という意味で「この世」と言うことはない〟という事実に、この「歌意解釈」を提示した当の本人が気づいていない。「『今夜の宴は満足です』という意味にはとれ」(上記、ウィキペディアの解説)ないのである。
 しかも、山本氏にあっては、これもそもそも「他人の説」だ。

 上記の「注釈」が付されたウィキペディアの本文も、ひどい。もっと言えば危険ですらある。

〈道長は実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」[5](「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」というふうに解されている[注釈 5]。)を詠んだ(『小右記』、原文漢文)。〉
 ※〈 〉内は、ウィキペディア「藤原道長」の項「晩年」の本文による。

 いま太字で示すように、あえて「~というふうに解されている」という「解釈」がほどこされているが、道長の歌はまさに「~と詠んだ」だけのものに過ぎず、その点、文字どおりの歌でしかない。
 「この世は自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように何も足りないものはない」という歌の趣旨は明確であり、他に解釈の余地はない。
 
 そしてここで必要なのは、従来、指摘がない事実として、〝欠けざる満月〟を歌に詠み込む道理と、文学的な背景・・・・・・について解き明かす、新たな知見だ。

▶和歌的類型としての、「杯中の月かげ」

 道長の一首は、希代の独裁者として「この世をわが世」となし得た政治的な背景のみで成立するものではなく、こうした自讃歌にも、和歌としての「類型」がある。 

 それが、道長以後も詠み継がれることになる、「杯中の月かげ」なのだ。祝杯の酒に映った月リフレクションは欠けることがない。祝宴の夜の満月を写し取って(自ら)寿ことほぐ、「杯中の月かげ」を詠む歌には「先例」があったのである。それこそが、実資をして「御歌、優美なり」(『小右記』)と言わしめたゆえん。
 ウィキペディアには書かれていない事実です。

 「夜」と「世」が、実際に掛詞になる・・・例を含めて、詳しくはこちら。

拙論「杯中の月かげ」(2020年)

【論文タイトル】
圷美奈子
杯中の月かげ~教科書の中の「藤原道長」・序章~
(『古代中世文学論考』新典社 第41集・第42集、上下続きで収載)

 道長自讃歌が詠まれたその夜のまごうかたなき「満月」について、初めて、NASAの月食データを用いた検証を行なっています。

古代中世文学論考 第41集 | 株式会社 新典社 (shintensha.co.jp)

古代中世文学論考 第42集 | 株式会社 新典社 (shintensha.co.jp)

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