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ハートランドの遙かなる日々 第22章  ヴィンテルトゥール


 ビュルグレン村を見下ろす共同牧場の高原に朝日が昇ろうとしていた。
 薄暗いうちから起き出して、アフラは書き置きを一筆書いていた。
 昨日の夜、アフラは父と一緒に最終の特急便馬車に乗って、夜半にウーリに着き、二週間ぶりに家に帰って来た。久しぶりに母とマリウスに会えたのは良かったが、勝手に家を出て行った事を母に怒られ、思い詰めたような顔のまま、話したい事を何も話す事が出来なかった。
 話せなかった事をせめて手紙にとしたためたが、かなり長くなり、つい時間も掛かって遅くなってしまった。
 そしてアフラは静かに玄関の扉を開け、朝靄漂う草原へと出て行った。荷物は殆ど無く、父に返した後に残ったコインを握りしめていた。帰る時に教会に置いた荷物を取りに行けなかったので、そのまま宿泊棟に忘れて来ていた。手紙に書いた口実は、その荷物を忘れて来たから取りに行くというものだった。
 人に会わないように道に出ないで草原を選んで歩いていると、後ろからアフラを呼び止める声がした。

「お姉ちゃん、何処行くの?」

 振り向くと少し後にマリウスが歩いている。

「えっ? マリウス……いつからいたの?」
「玄関をそーっと出て行ったから、そーっと付いて来たよ」
「早起きなのね」
「お父さんもお母さんも、もう起きてたよ」
「シッ! 聞こえちゃったかも?」
「多分ね。それで、内緒で何処行くの?」
「内緒だけど、チューリヒへ行くの」
「またあ? 昨日帰って来たばっかりなのに?」
「うん。教会に用事を残して来たの。しばらくはお父さんとお母さんには内緒よ?」
「歩いて行くの?」
「アルトドルフまでね。そこからは馬車」
「僕もそこまで送って行くよ」
「結構あるわよ?」
「誰か馬車が通ったら乗せて貰おうよ」
「行って帰ってしたら、朝ご飯食べれなくなっちゃうわ?」
「まあ、お腹空いたらお婆ちゃん家に駆け込むよ」
「まあ、お腹空いたら途中で引き返したらいいわ」

 そう言って歩いて行くと、ビュルグレン村の広場へと着いた。

「お婆ちゃん家通り過ぎるよ?」
「うん……起きてるかな」

 二人が家の窓を覗き込むと、サビーネの姿が見え、思わず目が合った。
 サビーネは玄関から出て来た。

「どうしたんだい? こんな早くから。アフラはようやく帰ってきたのね。怪我は治ったのかい?」
「うん。すっかり。でも、これからまた行くの」
「またって、何処に?」
「うん……同じ所」
「同じ所って、チューリヒかい?」
「そう。忘れ物をしたのと、大事な講義があって……」
「それは大変だねえ。マリウスも行くのか?」
「僕は送るだけ」
「そうかい。往復の馬車代よりも大事なものなのかい?」
「うん、先生の講義の方が私には大事なの。エックハルト先生って言うすごい方なの」
「エックハルト先生? どっかで聞いた事あるね」
「ホント?」
「ああ、これだこれだ」

 サビーネは一紙の会報を取り出した。

「この辺りだわ。エーテンバッハ修道院の開園に先立って、初めの講演が行われた。シュトラースブルクから来たエックハルト牧師の講演は、満員の聴講者を魅了した」
「エックハルト先生が出てるの!」

 アフラはその会報にかじり付き、続きを読んだ。

「その教説は、キリスト教の初期よりの歩みからヨハネの黙示録までを語り、スコラ哲学を取り入れた見解で、神の在処を言葉の上で証明し得た! その通りだわ! すごいすごい!」

 アフラは会誌を持って飛び跳ねた。

「すごい先生なのは本当のようだ」
「この方の講演をもう一度聞きに行くの!」
「でも、馬車代が馬鹿にならないだろう?」
「うん。お小遣い集めてもギリギリしかないの」
「それは心許ないね。じゃあ、これで何かお土産買って来ておくれ」

 サビーネはそう言って、少しのお小遣いをアフラに渡した。

「いいの? ありがとう!」
「せっかく行くんだ。お土産くらい無いとね」
「買ってくる! お婆ちゃん大好き!」

 そう言っていると、そこへ村長が通り掛かった。

「やあやあ、お揃いだ。お早う」
「おはよう、村長さん」
「村長さん! いいところに通ったよ。この子をアルトドルフまで送ってくれないかい?」
「ああ。儂もアルトドルフへ荷物を出しに行く所じゃ。構わんよ」

 アフラは手を上げて喜んだ。

「私も一緒の場所行くの! ラッキー!」
「ああ、ラッキーじゃ。乗るがいい」

 アフラは村長の馬車に乗り込み、続いてマリウスも乗った。
 そして馬車は下りの坂道を行き、アルトドルフの宿駅へと入って行った。

「着いたぞ」
「ありがとう村長さん」

 アフラとマリウスは馬車を降り、宿駅のベンチに座った。まだ朝も早く、周辺には誰も人はいなかった。
 村長も届ける荷物を馬車から降ろし、所定の置き場に置くと、まだ少し時間があるのでベンチの方にやって来た。

「二人して何処へ行くんじゃ?」
「私だけチューリヒに行くの。マリウスは一人帰ってお留守番」
「お留守番? ヤダァ」

 マリウスが愚図るのを余所に村長が続けた。

「またチューリヒか。余程気に入ったようだな」
「うん! チューリヒは楽しかったぁ。綺麗だし、食べ物は美味しいし」

 アフラが頬を押さえてそう言うと、マリウスも言った。

「いいなー。美味しいタルトが山ほどあったもんね」
「そうねー。タルト食べたくなってきたわ。何処かで食べようっと」
「ずるーい!」

 村長がアフラの軽装を見て言った。

「しかし、一人でチューリヒか。よくブルクハルトが許したのう」
「え? それは……」
「まさか、親御さんの許し無く、勝手に行こうとしているのか? だったら村長として見逃せんぞ?」
「ま、まさか。ちゃんと知らせて来たわ。お婆ちゃんに……」

 村長は膝を叩いて笑った。

「ハッハッハ。サビーネだったらしょうが無い。ここは見逃してやろう」

 アフラは苦笑いしつつ胸を撫で下ろした。
 そうしていると始発の特急馬車が到着し、御者は村長の荷物を馬車に積み込み、アフラは乗車料金を払い、ステップを上がって後席に乗り込んだ。
 御者はアフラに聞いた。

「そこの子も乗るのかい?」

 ステップに手をついてマリウスが恨めしそうに馬車を見上げている。

「一人で留守番ヤダァ」
「マリウスは行かないでしょ。下がって」

 そう言うと、マリウスは駄々っ子が愚図るように言った。

「僕も行きたい……タルト食べたい……」
「そんな事言っても、遠くまで行くんだから、しばらく帰って来れないのよ?」
「またずっと一人……ヤダァ……」
「そんな事言っても、馬車代無いと乗れないのよ?」
「うう……」

 マリウスは泣き出しそうな顔で地べたに座ってしまった。
 またかという顔をしつつ御者が言った。

「子連れなら二人で同じ料金だ。君らなら二人乗っても構わないが?」
「二人で同じ料金? そうなの?」
「ああそうだ」
「乗るー!」

 マリウスは馬車に飛び乗り、それを見た御者は鐘を鳴らし、そしてすぐに馬車を発した。

「ほ。行ったか……」

 村長はそんな馬車を見送りつつ、一つ溜息を漏らした

 エーテンバッハ教会の広場にはラッペルスヴィル夫妻と、修道士達、そしてクヌフウタ達修道女が集まっていた。クヌフウタ達は昨夜は訪れた修道院に泊めて貰ったようだ。
 そこへユッテの白亜の馬車がやって来た。ユッテは宿を引き払って来たので荷物も多く、馬車が二台あり、女中や護衛騎士も引き連れているので少し大所帯だ。護衛騎士に支えられ、白亜の馬車から降りて来たのは、ユッテとイサベラだった。

「おはようございます、姫! 今日も朝のスミレのようにお麗しい」

 ルーディックはイサベラに恭しい挨拶をした。
 イサベラはそんな大袈裟な修辞にも慣れたように微笑んで「おはようございます」と返した。今日のイサベラは濃い青紫の余所行きのシュールコー姿だ。ユッテはお気に入りのピンクの服だった。

「ユッテ王女もおはよう御座います」
「おはよう。お揃いのようね」

 ユッテもそんなルーディックのイサベラ贔屓にも慣れたように挨拶を返し、周囲を見回した。
 しかし、まだアルノルトとエルハルトが来ていなかった。
 ルーディックはキョロキョロ辺りを見回して言った。

「アルノルトがまだなんです。遅いな。すぐ近くに泊まってると言ってたんですが」
「まあ! 私を待たせるなんて、いい度胸だわね」

 ユッテは少し怒ったようなフリをして笑っている。
 ルーディックは周辺の建物を見回して言った。

「呼べばすぐ現れるくらいすぐ近くなんて言ってたから、ここから見える所かもしれませんよ」
「じゃあ、大きな声で呼べば聞こえるかしら?」
「あの向かいのあたりに呼んでみましょう。アルノルトー?」
「それじゃ声が小さいわ」

 ルーディックは大声が修道院に聞こえるのを避けて、かなり前へと歩いてから言った。

「アルノルトー!」

 返事は無かったが、ユッテがさらに言った。

「じゃあ、もっと大きく皆で一斉に呼びましょう。イサベラも一緒に呼ぶわよ。私も言うから」
「え? 私も?」
「いっせーの。アルノルトー」
「アルノルトー!」
「アルノルトさーん」

 多少ばらつきながら、向かいの建物に向かってそう言ってると、すぐ横の方から声が聞こえた。

「ふぁい!」

 広場の奥に停まっていた幌馬車の後の幌が開き、そこからアルノルトが顔を出した。
 後にはエルハルトも居て、二人で朝食のパンを頬張っている。

「こらーっ!」

 ユッテはスカートをたくし上げ、その馬車へ駆けて行き、アルノルトへ躙り寄った。

「みんな待ってるのに、そんなところで何してるの?」
「何っへ、朝ご飯さ?」
「まさか、私の宿を出ておいて、こんなところに泊まってるの?」
「ああ。意外と快適なんだ」
「信じられない! 朝食はこっちに来てくれても良かったのに……」

 ルーディックも歩いてやって来て言った。

「やあ、そこにいたんだ。これで揃ったね」
「やあ、おはよう。もうお集まりのようだ。兄貴、貴族風にしっかり挨拶しないとダメだよ。光栄ですと言っておけば大体いいらしいよ」
「ああ。まずはパンを呑み込もう」

 アルノルトとエルハルトは慌ててパンを呑み込みつつ、馬車を降りた。
 そして皆が集まっている場所へと歩いて行った。

「皆さん、おはようございます。こちらは兄です」
「お待たせして大変失礼致しました。兄のエルハルトです」

 エルハルトは何時になく姿勢も良く、口調が丁寧だ。ホテルで鍛えられたのかもしれない。むろん領主一族や王族に挨拶をするのならこれくらいは普通で、アルノルトのフランクさの方が特殊と言えたが。

「あなたがエルハルトさんね。お噂は聞いておりましてよ」

 エリーザベトは手を差し出して握手を求めつつ言った。

「光栄です。本日はご一緒させていただきます」

 エルハルトは緊張した面持ちでその手を握り、続いてルーディックとも握手をした。

「裁判にお呼びいただき、ありがとうございました。ご一緒出来て嬉しいです」
「光栄です……」
「お祭りでは、お世話に……」

 イサベラとユッテがエルハルトの目の前に来ると、急に思い出したように言った。

「ああ、君達は! 牛祭りにいた……」

 二人は顔を見合わせて笑ってから、エルハルトに頷いた。

「ユッテです。またご一緒出来て光栄ですわ」
「光栄です。確か、王女様でしたね」

 と、言いながら、エルハルトは王女がアルノルトとかなり親密そうだった事が気になった。
 イサベラは少し迷ってから言った。

「アニエスです。牛小屋の件では大変お世話になりました。例の裁判も終わった所ですのよ」
「光え……いえ、牛の事はとても残念でした……裁判で決着が付いて何よりでした。ここにアフラも居れば良かったんですが。あいにく昨日父に連れられて帰ってしまったようで」

 ユッテが言った。

「見ていたので、存じてますわ。どちらかというとアフラがお父様を連れて行ったように見えましたけども……」
「はて? そうでしたか?」
「決して帰りたかった訳ではないので、アフラは今日来るつもりだと思うんです」
「ウーリへ帰って、またここに?」
「ここというより、ヴィンテルトゥールにです。それくらい聞きたがっていた講義でしたから」
「まさか、そこまでは……」

 エルハルトの声に、アルノルトが重ねて言った。

「そのまさかがありそうなんだ。アフラは来ると思って考える方がいい」

 考えながら、アルノルトが言った。

「ウーリから早朝出て、ここに着いてお昼前くらい。ヴィンテルトゥールにはさらに二時間程かかる。とすると……」

 ユッテが言葉を接いだ。

「一時からの講義には間に合わないわね」
「まあそれは途中から聞いても大丈夫だろう。それより、ここからヴィンテルトゥールに行く馬車が無くて立ち往生しそうだ。辻馬車に乗れる程お金は無いだろうし」
「それもそうね。じゃあ、レオナルド、ここに残ってアフラを連れて来て」

 ユッテは事も無げに護衛騎士にそう言った。

「……承知致しました」

 レオナルドはそれに即答だった。アフラがここへ来るかは定かでないというのに、女中と荷物を載せたもう一台の馬車がここに残る事になった。
 イサベラとクヌフウタ達はユッテの馬車に乗った。一同が馬車に乗り込み、さあ出発しようという所で、クヌフウタともう一人の修道女がユッテの馬車から降りて来た。そして、御者台に座るエルハルトの方へやって来て言った。

「エルハルトさん。私達はこちらの馬車へ乗せていただく事は出来ますか?」
「ええ、構いませんよ。このような粗末な馬車ですから、乗り心地は向こうの方には敵いませんが」
「あちらは高貴な馬車ですから、少し合わないようで……」
「そうですか。どうぞどうぞ」

 アルノルトはクヌフウタと修道女のために、布団を畳んで毛布でくるんだベンチを作り、二人にはそこに座ってもらった。エルハルトとアルノルトは御者台の方に並んで座った。

「兄さん最近風呂に入ってる?」
「ああ、追放されて、しばらく入ってないな」
「少し臭うよ? 風呂をホテルで借りれば良かったね」
「そうだな。アルノルトも臭うんじゃないか?」
「僕は最近風呂に入れて貰ったから、大丈夫だよ」
「どこで?」
「ユッテのホテルでさ」
「へー」
「あれ? こっちから匂いが?」

 言いながら、アルノルトとエルハルトが振り返ると、匂いは後から漂って来ていた。
 後の幌の奥では向かい合って座るクヌフウタと修道女が気まずそうにしていた。クヌフウタはまだしも、お供の修道女の修道服はひどくすり切れ、汚れている。
 フランチェスコ派の修道士は替えの服を持たないので、数ヶ月も同じ服を着ている事が多かった。遠出でなければ、歩くのも裸足だった。私有財産を持たず、遠出でも殆ど何も持たないのだ。托鉢修道院と言われ、寄付を貰ったものだけで生き、その壮絶な清貧こそを勲章として支持を集めていた。とてもお姫様がやっていける会派ではないのだ。
 そうした事を知っているエルハルトは、鼻に手を当てたアルノルトに、「気にするな」と言い、先導の修道院の馬車に習って馬車を発した。
 馬車は少し戻って市庁舎前の橋で川を渡り、町を抜け、城壁を抜け、麦畑の続く田園の道を行き、やがて馬車は森へと入った。そこからの道は木の根のせいで凹凸も多く、まだ道が悪かった。座っていると何度もお尻が跳ね上がり、ひどく痛くなったが、厚い布団のクッションがある修道女二人は意外に快適そうだった。
 緩やかな丘陵地帯に森は行けども続いていて、坂道を一時間も行くと、馬が疲れて足が落ち、エルハルトの御する一頭立ての馬車は次第に遅れた。
 しかし、程なくして清流沿いの下り道になった。遥か向こうには平坦な盆地が見えた。その広い平原には、森と麦畑が広がっている。
 川の流れるその先には低い壁に囲まれた小さな集落が見えた。先頭の馬車はそこへ入って行く。

「おっ、着いたかな?」

 エルハルトの声に、アルノルトが答えた。

「広い農園だ。いい村だね」

 馬車の一団は壁に囲まれた集落へと入って行き、修道院の前で馬車を停めた。

「着いたようだ」

 トエス修道院はこの小さな集落の中央広場にあり、家々は生活する家というよりも、紡績の仕事場として使われているものが多いようだ。
 一同が馬車を降りると、修道院のシスターが迎えてくれ、礼拝堂へ案内してくれた。
 礼拝堂の中は満杯に近く、始まるまでまだ一時間以上あるというのに一般の婦人達が多く詰めかけていて、あまり騒ぐこともなく静かに座っていた。この辺りの婦人会では女性のお喋りは悪徳と教えられていた。

「纏まった席がもうあまり有りませんわね」

 エリーザベトが席を探してそう言うと、案内の修道女が言った。

「申し訳ありません。会誌にも報じられて、エックハルト様は大人気でして。予定の方の席は確保していたのですが……」
「私と、アフラの分ね。多く来過ぎてしまったわ」

 そうしながらも修道女は席を詰めて場所を空けてくれ、一同の座る席は確保出来た。
 ユッテだけは予約されていた貴賓席へ行き、隣はアフラの為に一つ空けておいた。
 一応の席を取ると、まだ時間はかなりあるので、ユッテは皆を連れ出して、周囲の見学をして歩いた。修道院の周縁を一周し、食事が出来る場所を探したが、食べられるような場所は見当たらなかった。

「そろそろお腹が減ったわね」
「お昼を持って来るんでした」

 そう言っていると、一台の馬車が停まり、エックハルトが降りて来た。その後にはもう一人下りてきた年長の修道士がいた。そして迎えに出て来たシスター達とそこで話をし始めた。

「エックハルト様だわ」

 周囲にいた人々がそれを見て駆け寄って行き、周囲は人集りになった。前回の教説の評判が広まっていた事もあるが、甘い理知的な風貌で婦人達に大人気のようだ。

「やあ。エリーザベト達も来てくれたのか」

 エックハルトはエリーザベトの姿を見つけ、声を掛けて近付いて来た。
 エリーザベトも軽く礼を取り、嬉しそうに言った。

「こんにちは。ユッテ王女のお誘いにより、飛び入りで参加させていただきました」

 ユッテも小さく礼を取って頷いた。

「こちらがユッテ王女で?」
「ええ」

 エックハルトは腰を低く折ってユッテに恭しく礼をした。

「先日は王女とはつゆ知らず……遠い所をご来臨戴き、身に余る光栄です」
「いいんです。本当はもう一人、あなたの講義を聴きたいって言う娘がいたの。もしかしたら遅れて来るかもしれません」
「さては例の元気なあの子ですね?」

 エックハルトがニヤリと笑うと、ユッテも笑い返した。

「その子です」

 後に続くイサベラやアルノルト、エルハルトが頷き合って笑っている姿を見て、エックハルトはユッテに言った。

「あいにく今日は満員だそうで、立ち見が出る程なのです。大勢でいらっしゃっていることですし、皆さんには一般講義の後、時間を設けてもう一度別室で特別講義をさせていただくと言うことで如何でしょう?」
「私? 私でしたらそれで結構です。エリーザベト様は?」
「それはかえって助かります。高貴な方が多いですので」
「では、少々お待たせ致しますが、別室でお食事でも摂りながらお待ち下さい」

 そう言ってエックハルトは恭しい礼をしてその場を辞し、修道女は一同を別室へと案内した。
 隣の建物の細長い会議室のような場所へ通された一同は、そこでささやかな昼食にありついて、旅の疲れと空腹を落ち着けるのだった。

 その頃、アフラとマリウスは、エーテンバッハ教会に着いた所だった。アフラはまず宿泊棟へと顔を出した。

「こんにちはー」

 待ち合い室にいたフィオナは、アフラを見て跳び上がった。

「アフラ! どーしたのー? またいつの間にか居なくなっちゃってー」
「ごめんなさーい。父に無理矢理連れ帰られちゃって。荷物がまだ置いてあったので、取りに来ました」
「どうしようかと思っていた所よー? まだ部屋に残してあるわー」
「ありがとう。取ってくる」

 アフラが部屋のある二階へ駈け上がって行くと、後のマリウスも付いていこうとする。

「上は女の子だけなの。男の子はダメよー」
「ええ? そうなの? 前は入っちゃった」

 フィオナに止められたマリウスは、仕方なく待ち合い室の椅子で待った。

「アフラの弟さん?」
「うん」
「どこから来たの?」
「ウーリの山の方さ」
「そんな所から来たのー? まさか往復して?」
「うん。片道でも大変だったのに、お姉ちゃんは往復だよ」
「それは大変だったのねー」

 アフラが荷物を持って階段を降りてくると、フィオナが言った。

「副院長が一度探しに来ていたから、顔を出してあげてね」
「はい! すぐ行って来ます。ではフィオナさん。大変お世話になりました」
「どう致しまして。またいつでも立ち寄ってねー」
「ありがとう」

 アフラはフィオナと両手で握手をして、慣れ親しんだ宿泊棟をあとにした。
 そして礼拝堂へ入って副院長を探すが、そこには見つからず、そこにいた修道女に聞くと、写本工房にいるらしい。
 アフラはマリウスを礼拝堂に残し、そこから写本工房へと走った。既に時間が間に合っていないので、修道院をみっともなく走り回っていた。
 写本工房へ着くと、そこにいた副院長を見つけ、駆け寄っていった。

「副院長先生!」
「あらあら、アフラさん。修道院は走らないでね」
「あ、はい! 今日でここを離れます。いろいろお世話になり、ありがとうございました」

 アフラは副院長に深々とお礼をした。

「二週間は短いですが、貴女は良く学ばれましたね。良い生徒が去ることはとても残念です」
「私ももっとここで勉強したかったです」
「そういえば、貴女はエックハルト先生の講義に行く筈だったのではなくて?」
「ええ。これから行くのですが、馬車が無くて困ってます」
「あらあら大変。ここから行った人達はもう朝方に出てしまったし……」

 そう言っていると、写字生がやって来て言った。

「渡した聖書は読めたかい?」
「あ、これ!」

 アフラは荷物から本を取り出して言った。

「最後までは読めませんでした。でも、もうここを離れてしまうので、お返しします」
「いや、君が全部読めるまでは持っていてくれていい。ウーリに行けばもっと読む人もいるだろう。ここでは同じ本が続々と出来るんだ。返すのはいつでもいいよ」
「ありがとう! では、お借りします」

 副院長は窓を覗いて言った。

「まだ馬車があるわね。来ている馬車に聞いてみましょう」
「そんな事が?」
「あの馬車の方が貴女を探していたんです。怪しい人で無ければいいのですが」

 副院長は広場へと歩いて行った。アフラは礼拝堂の前で待っているように言われ、そこでマリウスと様子を見守っていた。
 副院長は停まっている馬車のドアをノックした。
 すると馬車のドアからは、御者が出て来た。
 幾つかのやり取りをすると、御者は馬車を動かし始めた。そして、馬車を回して礼拝堂の前に停めた。
 副院長が歩いて来て、アフラに言った。

「あの馬車の方は、貴女を待っていてくれたそうよ」
「あっ!」

 そこでアフラは御者がレオナルドである事に気が付いた。
 御者台を降りたレオナルドは、馬車のドアを開けた。馬車の中にはセシリアとロザーナもいる。

「あなたはユッテさんの!」

 レオナルドはアフラの姿を見て、両手を広げた。

「はい。お待ちしておりました」
「私を?」

 レオナルドは片方の手を胸に当て、もう片方は馬車のドアへと送った。

「もちろん! 貴女をヴィンテルトゥールにお連れするよう、申し遣っております」
「まあまあ。なんていう計らいでしょう。良かったわね」

 副院長がそう言うと、アフラも感激して頷いた。

「なんて……なんて嬉しいことでしょう。心から感謝します」
「馬車が無い事を心配されたユッテ様のご厚意です。その感謝はユッテ様に捧げて下さい」
「この感謝を、ユッテさんに捧げます!」
「もっともアルノルトが貴女がここに来る事や、馬車が無い事を見越していたという事もありますが……」
「兄さんもアリガトォー」
「では、急ぎましょう。お乗り下さい」
「はい!」

 アフラとマリウスは馬車に乗り込んで、馬車は一路ヴィンテルトゥールへ向かった。

○  ◇  ○

 トエス修道院の礼拝堂ではエックハルトの講義が始まっていた。席はやはり満員で、中央通路にも人が座って埋まっている。立ち見の人も多く、礼拝堂の入り口から覗き込んで聞いている人も居るくらいだった。
 居並ぶ殆どは妙齢の女性ばかりだった。その多くはエックハルトのファンというよりは、ベギン会と呼ばれた婦人団体の人達で、周辺都市からも詰めかけているようだ。
 礼拝堂の周辺には多くの子供達が縄跳びや鬼ごっこをして遊び回っていた。母親が中にいるのを待っているのであろう。
 そんな中、アフラとマリウスを乗せた馬車がトエス修道院へ到着した。

「レオナルドさん。ありがとうございました。ロザーナさん、セシリアさんも、行って来ます」
「ああ。私達はこの辺りで待ってるから」

 アフラとマリウスは馬車を降りて、修道院の方へ歩いて行った。
 しかし、入り口は覗き込んで聞いている人で溢れていて、とても入る事は出来なかった。
 アフラの背丈では、中の様子すら見る事が出来ない。

「あの、入りたいんです! 見せて……」

 アフラは声を掛けて押し入ってみたが、お尻で弾き返され、階段を踏み外し、地べたに倒れてしまった。

「大丈夫お姉ちゃん?」

 マリウスが手を貸して助け起こしてくれた。

「いたた。ダメね、入れないわ」

 そこへやって来た女の子が、もう一方の手を引き上げてくれた。

「ありがとう」

 立ち上がって見ると、女の子はアフラより小さく、三つ下くらいに見える。
 その女の子が言った。

「あなた、見た事ある。エーテンバッハにいた人」
「知ってるの? 講義の時にいたのね?」
「うん。私、見えるとこ知ってるわ」
「ホント?」
「こっちよ」

 女の子に連れられて行ってみると、礼拝堂の隣の建物へ入って行く。
 そして、女の子は窓を指差した。

「ここの窓から隣が見えるの」

 アフラがその窓から顔を出すと、礼拝堂の様子を見る事が出来た。
 白と黒、上下でツートンの修道服姿のエックハルトが壇上で講義をしている。

「見えるわ! エックハルト先生ー」

 アフラはその姿が見えただけでも感激で一杯になった。
 しかし、その声は微かにしか聞こえず、何を言っているかはよく判らなかった。

「ありがとう。でも、聞こえなくて残念……」
「窓が閉まってるからね。ちょっとトビー!」

 女の子は修道院の壁によじ登って遊んでいた少年達に声を掛けた。

「なんだい?」
「教会の窓、そこから開けられない?」
「うん? やってみるよ」

 トビーと呼ばれた少年は、一度飛び降りて、壁の飾りの付いた出っ張りに足を掛けてよじ登り、窓に手を伸ばした。窓には内側にしか取っ手が無いので、なかなか開けることが出来なかった。すると、窓を擦る音に中にいた修道女が気付き、俄に窓が開いた。が、その勢いでトビーはバランスを崩し、壁から落ちてしまった。

「うわーっと」

 開いた窓からは、何があったのかと修道女とエックハルトがこちらを見ていた。エックハルトは修道女に開けておくように言っていた。

「いてーっ」
「大丈夫?」

 トビーは手を着いて地面に着地し、何とか無事だったようで、「おう」と女の子に手を振った。しかし本当はその手が痛くて仕方が無かった。
 窓が開くと、中の声が聞こえて来た。

「ありがとう。聞こえるわ」

 アフラは礼拝堂から漏れ聞こえるエックハルトの僅かな声に耳を傾けた。

「——あなたのお子さん? お子さんが五人もいる? そういうお母さん方が沢山いらしてますが、今日は少々無茶を言わねばなりません。子供を産んだ方でも、処女たり得るのです。嘘? いいえ本当です。聖母マリアだってそうだったのですから。先程言いました、真の処女性というのは、生まれる以前の魂のようにいかなる形象にも触れておらず、いかなる観念にも捕らわれないという精神にあるのです。聖母マリア、そしてイエスが、捕らわれ無く自由であり、自らの内に処女を宿すように、真の処女性にある人は最高の真理を妨げるものが無く、その人を自由たらしめるのです。しかし疑問がある事でしょう。もし人がいつまでも処女のままであったなら……。どうでしょう。何ものにも触れ得ず、人として成熟する事が出来るでしょうか?」

 エックハルトは目の前の中年女性に問いかけ、女性は首を振った。

「そうです。ずっと処女のままではどんな実りも生まれて来ない。子供も生まれませんし。人生が実り豊かになるためにはさらに進んだ『女』である事がどうしても必要なことです。『女』とは魂に付けることの出来る最も高貴な名です。それは『処女』という事よりも高位なものです。お母さん方、よかったですね」

 場内に多くいた母親達には笑いが起こった。

「いや、安心するのはまだ早い。真にそうあることは同時に難しい事でもあります。人が心に処女性を持って神を自らの内に迎える、それは素晴らしく良いことです。この受容性のために人には処女性が備わっています。しかし、神がその人の人生を通して豊かに実を結ぶ事は、さらに一層良いことです。賜物が実を結ぶ事が賜物への唯一の感謝となるからです。その時、精神は父なる神がイエスを生んだように、心の内に神を生み返す。魂は感謝と賛美を以てこの今に豊かに実りをもたらすという行為において、さらなる高位の『女』と言う名を冠すると言えるのです。それがここに書いた聖句です」

 エックハルトは黒板の文字を示した。しかし、アフラからそれは見えなかった。

「『イエスが城に入ると、女である一人の処女に迎え入れられた』という聖句はそれを示しています。女であり、かつ同時に処女でなくてはならないのです。そしてイエスは城へ迎え入れられる。多くの善き賜物が処女性によって受け取られます。そして実り豊かに女として実を結ぼうとする。しかし、殆どの人はそこへ至らずに終わってしまいます。そうするとこれらの賜物も、処女性も、まるで役に立たなかった事になり、朽ち果てて無に帰してしまう。そのため人はそれ以上の幸せにも、高貴な存在にもなることが出来ないのです。これは、いくら惜しんでも余りあることだ。そうは思いませんか?」

 エックハルトに差された夫人が、「何て惜しい……」と言った。
 婦人達の小さなざわめきが聞こえた。

「多くの夫婦は、自らの生業を成し遂げる事無くしては実りをもたらす事が出来ないと思い、それを全て完成させる事なくしては、神も自分も信じることがありません。その全てを成し遂げるまでは、一年中神様はお預けです。信心深い方で祈りや断食や形だけの苦行をしたとしても、それもますます自我的な業に捕らわれていると言えます。子を産むという大事なこともありますが、一年では一人がやっとです。私が今言おうとしているのはもう少し別次元の事です。神意の光に従おうという自由を奪うあらゆる自我的な事柄、常に新たである自由を奪って日常に縛り付ける自我的な生業、それらに一年の殆どを費やしてしまっているのです。これが世の夫婦と呼ぶべきもので、何故というならばそれは自我性で結び付いているからです。そうして自我に終始する限り、殆ど実りをもたらさない、或いはもたらしたとしてもその実りはごく小さなものになるのです」

 そう言われて、夫人達が大きく肩を落とし、落胆するのが見て取れた。

「どうすればいいのでしょう……」

 誰かがそう言った声に答えるように、エックハルトは言った。

「そんな中でも、正しき女でありまた同時に処女である人にはなれます。身近にもいるはずです。その人はいつでも自由であり、自我性に捕らわれる事なく、神と自身が等しく近しい。この人がもたらす実りは実に大きい。日々を通して彼女達は最も高貴な魂の根底より無数の賜物を見、女として今に生み返し、その精神の光を以て豊かな祝福の実をもたらします。それは言うに等しく、父が永遠なる言葉を生んだその同じ根底より、その人は実り豊かに父と共に生み沿う者となるのです。彼女は父の心の栄光であるイエスと心と魂を同じくし、一なる純粋で透明な光として、その人の見るもの触れるものに輝きを放つのです。あなた方もそう感じたことはありませんか? きっとあるでしょう?」

 女達はこの言葉に思わず感激しつつ頷いた。
 アフラはここまで聞いて、無理をしてでもここへ来て良かったと感じ入り、涙が零れ出て来た。涙が止まらず、窓に顔を伏せてしまったアフラを隣で見つつ、横で聞いていたマリウスと小さな女の子は首を傾げるばかりだった。

「もちろん男性でもこれは同じです。それは誰しも起こり得る事で、真理に根ざした事なのです。さらに進みましょう。私は処女性という説明を通して、魂の内には時間にも肉体にも観念にも触れる事が無い、一つの力があると言って来ました。その一つの力とは、精神から流れ、精神の内に留まり、何処までも精神の領域、つまり神の領域にあるものです。この力によって神は、自らの内にある喜びを映すように、その光を以て青々と葉を繁らせ、美しく花開く。永遠なる父がその永遠なる子を絶え間なく産み続けるのはこの力のためであり、この力が父の唯一なる力の淵源なのです。この力の中には誰も言葉にして顕し得ない程大きな喜びと、計り知れない程の歓喜が存在します。もし世の人の負える全ての苦しみを一身に負った人がいたとしても、その人に神がほんの一瞬でもその力の内にある歓喜と喜びを彼に垣間見せたなら、彼はその喜びの大きさに、その苦しみもまるで無かったものかのように思うことでしょう。何故なら、唯一の神は永遠に、またこの今にも、その力の内にいると判るからです。そして神に負わされた苦しみは、喜びでさえあると思う事でしょう」

 堂内には幾人か泣く人があった。エックハルトはある泣く女の前に来て言った。

「苦しみはここでは喜びに変わります。苦しみがあなた自身によるものであるのか、それとも神によるものであるのか、それを知る方法があります。あなたがあなた自身の為に苦しむのであるならば、どんなに逃れようとも、その苦しみは辛く耐えがたいものでしょう。しかし、もし神の為に苦しむのであれば、この今だけでもいい、神の為のものと思うものであるならば、苦しみは決して辛いものではなく、耐えがたいものでもなくなります。神がその重荷を引き受けてくれるからです。いかがです?」

 泣いていた女は顔を上げて笑顔になって頷き、周囲の女達も小さくざわめいた。そして、その沈鬱だった表情が次々と明るくなっていった。アフラもまた心が晴れて行くような気持ちになった。涙も引き、心配顔のマリウスに笑顔を向けた。

「これは決して嘘ではありません。人がこの唯一の今を神の為と思う、その事だけでも神の保護下に入り、苦しみをその人の為に軽く甘美なものに変えてくれる、この一なる今の力の内には神秘的崇高さが宿っているのです。これは一つの証であり、さらなるもう一つの力です。精神からこの一なる今に出でて、神の富、甘美さ、歓喜が絶えず輝き出でるのはこの力によるのです。イエスが迎え入れられた『城』とはその先にあるものです。しかし、さらにそこへ進むには、このような力でも言葉でも全く届きません。それは遙かに超えた存在としてそこにある、故に今まで言ったものよりも高貴なものとして『魂の城』と今仮に名を付すのです」
「魂のお城?」

 アフラがマリウスを振り返りつつ聞き返したが、マリウスにも判るわけが無かった。そしてマリウスは女の子と何処かへ行ってしまった。

「それは全ての形を纏わずして露わであり、神と処女の庭のように自由でとらわれがなく、鏡に映すように一にして単純で、そして完全です。神はそこでその全神性を込めて美しく花を咲かせ、青々と葉を繁らせ、また同時に精神も等しく神の内で美しく花咲かせ、葉を繁らせます。父もまたこの働きによって生きているのです。なぜならこの力によって父はその独り子を生み、また同時に精神は父と共に同じ独り子を生み、生み返すその光の内で同じ子となり、今を生きる真理となるからです。あなた方がもしいつか私と同じ見地に立てるならば、必ずこの言葉を理解出来ることでしょう。真理自らがそれを語っているからです。その真理は一にして単純です。しかし、神の高貴な力でさえこの中をうかがえない無い程に、この唯一の一なるものはいかなる固有の名も寄せ付けず、全ての力を遙かに超えています。神自身ですらそこを覗こうとするなら、あらゆる神格と固有性を捨て去り、父でも子でも聖霊でもなく、これら全てを外に置き去りにしなければならないのです。その時精神は固有性もない単一なる全一であり、これとは言えないある何物かなのです。見えるでしょうか。こうして全一にして単純なものとして、私が魂の城と呼ぶこの一なるものの内へ神は入り来るのです。このことは魂においても似ています。個々は違っていても、ここで全一なるものとして一同となることで神と全く等しくなるのです。今言った事は真実です。その証として私は真理を証人として立て、私の魂をその担保に差し出そう。どうぞ私達がそのような一つの城となり、神なるイエスが迎え入れられ、そして私達と共にその内に永遠に留まる事が出来ますよう、神が私達を助け導いて下さいますように。アーメン」

 結びの祈りの言葉で、エックハルトは講義を終えた。

「アーメン」

 聴衆達も一緒に祈りを結び、そして満場の拍手が沸き、それはずっとずっと鳴り止まなかった。
 アフラも窓越しに拍手をし、しばしその言葉を反芻して感激に浸った。そして周囲にマリウスを探したが、もう何処にもいなかった。

「ここでは最後にアーメンって言うのね。マリウスー?」

 アフラはマリウスを探し歩き、建物の外へ出た。広場には講義を終えて出て来る人で溢れ返っていた。しかしマリウスの姿は何処にも見当たらない。すると、すぐ後ろで声がした。

「いたわねアフラ?」

 振り返るとそこにはユッテがいた。

「ユッテさん! 講義に来てたんですね!」
「ええ。会えて良かったわ!」

 そう言って二人は手に手を取って握り合った。

「はい! よかったですー! 講義聞かれました?」
「ええ。貴賓席の予約があったから、私だけ聞いていたの。隣はアフラの為に空いていたのよ」
「入り口まで一杯で、私は隣の窓から聞いてました」
「聞けたのね? 今日の講義は素晴らしかったわ」
「今日も素晴らし過ぎて泣けましたーっ」
「本当にそうね。控の間にいる皆さんは聞けなくて申し訳なかったくらい」
「控の間に他の皆が?」
「ええ。皆いるわ。こっちよ」
「あっ」

 行こうとして、急にアフラが足を止めた。

「どうしたの?」
「マリウス、弟も一緒に来ていて、居なくなってしまって……」
「取り敢えず部屋へいらっしゃい。この後エックハルト先生が特別講義をして頂けるそうだから」
「本当ですか! すごい!」

 アフラは跳び上がるようにユッテに付いて、控の間へ行った。

「まあ!」

 そこには沢山の修道女に混じり、イサベラとクヌフウタ、そしてラッペルスヴィル夫妻がいて、さらにアルノルトとエルハルトが驚いた顔でアフラを迎えた。

「来たよアフラが!」
「まさかとは思ったが、本当に来たな」

 近くにいたイサベラが立ち上がって言った。

「無事に着いてよかったわ、アフラ」

 クヌフウタやエリーザベトもそれに頷きつつ、アフラが次に何を言うかと注目している。
 アフラは少しスカートを少し広げて礼をして、「皆さん遠路遙々ご足労さまです」と言った。
 しばしの間をおいて、一同は笑い声に沸いた。笑いながらユッテが言った。

「遠さで言ったら誰もあなたには負けるわ」

 アルノルトも頷いた。

「行って戻っての距離だしな」

 しかし、エルハルトは笑わずに言った。

「父さんにはどうせ黙って来たんだろう? 後が怖いぞ」

 アフラは狼狽えつつ言った。

「うう……それは言わないで。そうだ兄さん、それにユッテさん、馬車を用意していてくれてありがとう」

 ユッテが首を振って言った。

「いいえ。もうアフラの事くらいは解るんだから」
「間に合わない所だったけど、お陰様で、途中から先生の講義が聴けました」

 アフラはユッテに深く礼をして、それからさらに言った。

「実はもう一人、弟が来ています。居なくなってしまったので、探して来ます」

 エルハルトもアルノルトも、これには驚いた。

「マリウスも来たのか!」

 ユッテが聞いた。

「この後の講義は?」
「すぐ戻ります」
「オレ達も行こう」
「うん」

 アフラが出て行くのを追って、エルハルトとアルノルトも出て行った。

「どの辺でいなくなったんだ?」

 追って来たアルノルトがアフラに聞いた。

「さっきまでこの建物の窓際にいたの。近くにいた女の子と一緒に何処かへ居なくなっちゃった」
「こんな所で居なくなったら大変じゃないか。どの辺りだ?」
「あそこの窓辺りよ」

 その窓へ行ってみると、その窓の下で遊んでいる男の子がいた。しかし周辺にマリウスはいなかった。

「とにかくこの周辺を探そう。十分後ここに再集合だ」

 エルハルトとアルノルトはそれぞれ別れて探し始めた。
 アフラは窓の下へ行き、そこで遊んでいる子供達に聞いてみた。

「ねえ。あなたくらいの男の子知らない? 田舎から来た子」
「うん? あの子かな?」
「トビーとエルズと一緒だった子?」
「あ、その子かも! どこに行ったか知ってる?」
「怪我してたし、お母さんが来て、家に帰ったよ?」
「それは何処? 私達探してるの」

 子供達は教会を囲む壁の外を指差し、そこへ案内してくれた。
 壁の外には小さな集落があり、子供達はその路地へと入って行った。
 路地裏には小さな家があった。

「ここね」

 ドアをノックすると、さっきの女の子が出て来た。案内してくれた男の子達は「エルズだ」と教えてくれた。

「こんにちはー。さっきはありがとう。弟が来てないかしら?」
「いるわ」

 エルズの案内でアフラが家に入って行くと、すぐ玄関前にマリウスがいた。
 さっきのトビーという男の子、そしてその母親もそこにいた。奥には小さな子供も数人いてはしゃいでいた。マリウスが目を丸くして言った。

「よくわかったね!」
「わかったねじゃないわ。こんな所まで来て迷子になったら帰れないじゃない!」
「どなたかしら?」

 そこにいた母親が聞いた。

「あ、すいません。そこのマリウスの姉です。アフラと言います」
「こんにちは。その子は怪我したこの子を連れて来てくれたのよ」

 よく見ると、トビーは蹲るように座って手首を押さえていた。その手首は赤く腫れている。

「あなた、怪我してたの?」
「痛いんだ。打った手と足がだんだん痛くなって来た」
「大変!」

 元はと言えば怪我の原因はアフラにあったので、責任を感じざるを得ない。足を見ると、擦りむいた膝に青痣も見える。

「さっきはありがとうね。痛いのはここ?」
「イッ! 触るな」

 アフラがあちこち擦ってトビーが嫌がるので、マリウスが言った。

「足を引き摺るくらい痛いみたいなんだ。僕、肩を貸してあげてここまで来たんだよ」

 母親がトビーを怒って言った。

「教会の窓によじ登ってあんな悪戯するから罰が当たったのよ! こんな怪我して……ここでは医者代が高過ぎて、とても呼べないわ……」

 母親は最後には苦悩した。

「多分、ちょっとしたら治るさ」

 トビーは抱えた手を開いて、握ろうとしたが、痛みに呻いた。

「私のせい……」

 と、エルズは涙ながらに言った。

「私が窓を開けてって頼んだの。だからトビーを怒らないで」

 その元はと言えば、アフラの為にだったのだが、それをこの場では言い難かった。
 その代わりに、アフラは言った。

「私、いい人知ってるわ。お医者様も出来る人。呼んで来る」

 出て行こうとするアフラを母親は呼び止めた。

「お医者様って、ダメよ。呼んでも払うお金が無いの」
「修道女のお医者様だから、お金はきっと大丈夫です」

 そう言ってアフラは元来た道を駆け足で戻った。そして、建物に駆け込み、集合場所を素通りした。

「おーい!」
「アフラ! 見つかったのか?」

 そこにいたアルノルトとエルハルトが追って来た。

「見つかったわ。ちょっと急ぐの!」

 アフラはそう言ってからさらに控の間まで走った。
 見れば部屋にはエックハルトがもう到着していて、軽食を摂りながら雑談中だった。
 初老の修道士が隣に座っていたが、エックハルトの先生だろうか。
 アフラはそこへ割って入って行き、クヌフウタの隣まで来た。

「クヌフウタさん、お願いがあります」

 肩で息をしながらアフラが言うと、真剣な目で見詰められたクヌフウタは「何なりと」と答えた。

「怪我をした近くの子がいて、診て欲しいんです。大事な時間をすいません……」

 クヌフウタが楽しみにしていた講義だ。アフラもそうだったので、とても悪い気がして来た。

「どのような怪我ですか?」
「礼拝堂の窓から落ちて、その後手と足が腫れてきたようで」
「行きましょう!」

 クヌフウタは連れの修道女と共に席を立った。

「ありがとう」
「中座、失礼致します」

 クヌフウタはエックハルトにそう言って、一礼をした。

「その子が心配ですね」

 エックハルトはそう言ってそれを見送った。
 アフラはクヌフウタとその連れ、部屋の外で待ってたエルハルトとアルノルトも引き連れて、トビーの家へ向かった。
 家に着くと、母親が出て来て、余りに沢山の人が押し掛けたので驚いて言った。

「こんなに来ても払うお金は無いよ。もういいから!」

 と、母親はエルハルトを押して追い返そうとした。

「お母さん、落ち着いて! それ私の兄さんよ。お金はいいの」

 アフラはそんな母親を宥め、クヌフウタを紹介した。

「こちらがシスターのお医者様、クヌフウタさんです」
「ああ、こちらの方でしたか。お代は本当にいいんです?」
「はい。クヌフウタと申します。怪我した子を放ってはおけません。診察させて下さい」
「取り乱してしまってすいません。是非とも、お願いします。こちらです」

 トビーは子供部屋へ移って寝そべっていた。顔色がさっきより辛そうに見える。
 マリウスとエルズ、そして他の小さな子もそこにいた。

「誰ぇ?」
「お医者さんだ。場所を空けて」

 母親が子供たちを追いやると、クヌフウタはトビーの前に来て言った。

「こんにちは。この子ですね」
「ええ。右の手と膝を打ったとかで。この子ったら礼拝堂によじ登って、落っこちたんです」
「よろしくね。では、まず足を見せてね」

 クヌフウタはトビーの診察を始めた。
 マリウスは部屋の外から覗くアフラ達の所へ来て言った。

「おかえりお姉ちゃん。あ、お兄ちゃん達もいる!」
「こら、マリウス。探したぞ」
「そもそもどうしてここにいるんだ?」

 アルノルトとエルハルトはマリウスに厳しい目を向けたので、説明に困ったマリウスは、後退りしてトビーの方へ戻って行った。

「痛っ」

 トビーが叫んだので、マリウスは近寄って言った。

「痛くしないであげてね。びっこだけど、ここまで歩いて来れたんだ。それより手が握れないみたいなんだ」
「そう。足の骨は大丈夫そうね。次は手を見せて」

 トビーの手は明らかに腫れていた。

「これは……腫れがひどいですね」

 クヌフウタは手の指を小さな木槌で一つ一つ叩いて行く。

「痛!」
「ここ?」
「痛い」
「これ?」

 クヌフウタは何度も同じ所を叩いた。

「だから痛いって!」
「手の小指の骨ね。そこを骨折してます」

 それを聞いて母親は慌てた。

「骨折? 治りますか?」
「ここでは応急措置しか出来ません。しっかり固定出来る道具が無いんです。しっかりしたお医者様に診て貰う事をお勧めします」
「貴女では治せないんですか?」
「応急措置は出来ますが、二ヶ月もそのままではどうしても固定が弱くなります。手は常に動く場所なので、途中でずれて、骨が歪んでくっついては将来に関わりますので」

 母親は悲壮な目で言った。

「今は夫が戦争から帰って来なくて、当面の生活費しか無いんです。医者なんてとても……応急処置だけで治しては貰えませんか?」
「応急処置はあくまで応急です。後で医者にしっかり治療して貰う事が前提です。それだけはお約束頂けないと、治療が出来ません。お約束頂けますか?」

 クヌフウタがそう言うと、母親が言った。

「このあたりの医者は皆ホスピタル騎士団に所属して、貴族と結託して、庶民には届かないような高額を取るんです……」
「他の地域から医者を呼ぶ事も出来るはずです。お約束して下さい」

 母親は声を濁すように「はい」と頷いた。

「……あなた、お名前は何と?」
「リリアです」
「リリアさん。では、添え木になる物がいります。出来るだけ手に合うものを探しましょう。ペルシタさんも」

 そう言われたリリアとペルシタと呼ばれた修道女、そしてアフラとマリウスもあちこちを探し回った。勝手に台所を漁りだしたマリウスが、大きな木のスプーンとフォークを修道女に見せて「これは?」と言った。ペルシタはそれを見て判断に迷い、クヌフウタの所へ持って行った。

「これなんてどうでしょう」
「これが良さそうだわ」

 クヌフウタは木のフォークを貰って、厚く布に巻き、それをトビーの手の形に上手に当てがい、きつく包帯で巻いて固定をした。

「これで良し。二ヶ月の間、絶対に動かしちゃダメよ。骨がずれちゃうと大変なの。しっかり出来るかしら?」
「うん。判ったよ」

 トビーはそう言って頷いた。

「良い子ね」

 クヌフウタがトビーを撫でてから立ち上がると、母親は言った。

「ありがとうございました。お礼を」

 そう言って母親はなけなしのコインを取り出した。クヌフウタは首を振って言った。

「私達はお金のやりとりを禁じられているのです。お礼というなら、一つ、その木のボウルを貸して下さいますか?」
「ボウルですか? そんな事でいいんですか?」
「ええ。今日中にお返しします」

 クヌフウタは母親からボウルを受け取り、その家を後にした。
 一同もそれに従った。マリウスが振り返って手を振った。

「じゃあね。トビー。元気でね」
「うん! ありがとう。また来てくれよ」

 そう言ってトビーは手を振ろうと怪我した手を上げ、さっき動かさないでと言われたのを思い出し、違う方の手を振った。

 

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