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先生が先生になれない世の中で(13)教育現場における 「構想」と「実行」の分離③

鈴木大裕(教育研究者・土佐町議会議員)

「教師という仕事が私を去っていった。」(*1)

2018年4月に始まった本連載だが、初回の題名は、アメリカで話題になったあるベテラン教師の辞意表明から取った言葉だった。27年のキャリアのなかで、彼は教育現場から想像力や学問の自由、教師の自律性、試行錯誤するゆとりなどが次々と奪われていくのを間近で見てきた。そして、最後に綴ったのが冒頭の言葉だ。

その連載初回、締めくくりに私はこう書いている。「今、世間では、世界一忙しいと言われる日本の教員の働き方改革が叫ばれている。ふと思う。真に守るべきは、教師という仕事そのものなのではないだろうか。」

あれから4年。国が進める「働き方改革」は誤った方向に進む、という予感は確信に変わった。この数年で、教員の業務量や勤務時間は確かに減ったのかもしれない。しかし、それだけでは教員が抱える息苦しさの部分的な解消にしかならない。教員の過重労働は緩和されても、「教師という仕事が私を去っていく」という、かつてマルクスが指摘した労働からの「疎外」の解消にはつながらないのだ。

「労働におけるコントロールの喪失以上に、疎外感とバーンアウトを生み出す有効な方法は他にない」というアップルらの指摘(前号)には、実は続きがある。論文が出版された1990年、アメリカでは教員の「バーンアウト」が社会問題化していた。しかし、アップルらは、激務によって教員が「燃え尽きる」という、当事者の精神的な問題としての「バーンアウト」だけがクローズアップされ、教育現場における自由裁量の剝奪が教員に疎外感を与えているという、構造的な問題が覆い隠されてしまっていることを「とても残念(*2)」と嘆いているのだ。

多忙化による過労は確かに存在する。しかし、勤務時間の削減だけでは、週末でも「早く子どもたちに会いたい」と教員が感じるようにはならない。

しかし、そもそも業務の効率化による多忙化の解消と、教員の労働からの疎外感の解消は、同時に追求できるのだろうか。不可能ではない。ただ、それには教育の目的の問い直しが不可欠だ。

昨年、ある退職教員が書いたコラムが高知新聞に掲載されていた。

コロナ禍の影響で不登校が増えた。生徒の不満やストレスがたまり、授業が困難な学校もあるという。昔、中学校の生徒指導で苦労した頃を思う。荒れる生徒に指導するすべを失い、「ここは教師の墓場か」と嘆いたり、「この学校では、人殺し以外は何でもあるぞ」と放言したりする同僚もいた。
そんな中、「愛してやればいいのよ。ただ、それだけ」。M先生の言葉が心に残る。生徒が「くそババア」と悪態をつけば、M先生は「あんたも、やがてくそジジイになるぞ」とやり返す。明るい応答は生徒の心をほぐし、人への肯定感を生みだした。
生徒の言動に傷つくこともあっただろうが、M先生がたじろぐことはなかった。時には厳しく、時には優しく。生徒は「生身」のぬくもりを感じ、反発しながらも教師という存在を受け止めていった。
自分の言葉を持たず、通り一遍の価値観を押し付けてくる軽薄な教師を、荒れた子どもは一瞬にして見抜く。薄っぺらな見せかけの愛は攻撃対象だった。生徒指導は、己の人間修行だと思い知らされた。
困難な時こそ、人間を深く理解する必要がある。豊かな愛を育む学校であれ。M先生のような教師と多く出会うことで、救われる生徒がいる(*3)。

今年49歳になる私が、生徒としても、そして中学校教員としても経験したのは、こんな人間臭い学校だった。そこには人としての成長に伴う痛みや葛藤、そして喜びがあり、M先生のような職人的な先生が確かにいた。

しかし、そんな職人たちが今では絶滅危惧種となりつつある。生徒の心をつかむことに長けていてもテクノロジーに弱いベテランが、管理職に評価されずに現場を去っているからだ(*4)。前回書いたように、教育の目的が政治によって歪められることで、「良い教え」の定義が変わってきたのだ(*5)。

今日の学校教育は、教育基本法に定められた目的である、「人格の完成」の追求に恥じないものだろうか。豊かな愛を育み、人を育てる学校であれ。それと関係ない業務は極力削減し、M先生のような教師たちが、自由に、そして生き生きと活躍できる場所であれ。

【*1】「ある先生の辞意表明――『私の選んだ職業は……もう存在しない』」ワシントンポスト、2013年4月6日。http://wapo.st/2FlijsK(英語)
【*2】Apple, W.M. & Jungck, S. (1990)"You don't have to be a teacher to teach this unit: teaching, technology, and gender in the classroom." American Educational Research Journal, vol. 276, no.2, p. 233
【*3】『M先生』高知新聞、2021年11月6日。
【*4】鈴木大裕「教育現場における『構想』と『実行』の分離①」『クレスコ』2022年4月号。
【*5】鈴木大裕「教育現場における『構想』と『実行』の分離②」『クレスコ』2022年5月号。

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鈴木大裕(すずき・だいゆう)教育研究者/町会議員として、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。16歳で米国に留学。修士号取得後に帰国、公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ。著書に『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』(岩波書店)。Twitter:@daiyusuzuki

*この記事は、月刊『クレスコ』2022年6月号からの転載記事です。


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