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「君たちはどう生きるか」: 初見時点での疑問点の整理(ネタバレあり)

はじめに

 
 宮崎駿監督の最新作にして最後の劇場映画作品とみなされている「君たちはどう生きるか」が2023年7月14日(金)に公開された。予想していた通り、公開から数日後にしてSNS上ではどんどん設定や解釈などの情報が、これまでずっと秘匿されてきた反動のようにあふれかえっている。筆者は今回のような宣伝(なし)戦略は今の日本社会ではかなり珍しい現象だと思ったので、前情報をできる限りゼロに近づけた状態で映画を体験したく、どうにかして連休前の公開初日に観賞した。
 この記事は、そのときの自分が抱いた新鮮な記憶をできるだけ損なわないように、当初は自分用のメモとして書き残しておこうと思って書いたものだ。映画の内容はまだ理解できていない部分が多いため、思い返しながらひとまず浮かんだ疑問を5つほど整理してみた。これから出るパンフレットやインタビューや様々な論考など無数の情報を目にする中で、すぐに答えがわかるものもあるかもしれないし、色んな意見が出ながらずっと結論の出ないものもあるかもしれない。あるいは後からみるとまったくの見当違いな内容になっているかもしれない。
 そういうわけで、この記事は内容に関して何かしら自分なりの解釈や結論を示そうという「批評」や「考察」といった性格の文章ではない(ある程度の解釈は入るかもしれないが)。あくまでも、初見時の個人的な感触として疑問点を残しておくことを目的としている。パンフレットが発売されてからもう1回は観ようと思っているので、そのときはまた違った感想を抱くだろう。


【注意! 読者は視聴済の方を想定しています。以下の文章において、設定やキャラクターへの言及などネタバレ要素を含んでいますので、映画本編を未見の方はご注意ください】
 
※前提として、筆者はジブリ映画をすべて観ているわけではなく、視聴履歴としては「千と千尋の神隠し」が最後、それ以降の作品は未見です。そのため作品理解や挙げている具体例などに偏りがあります。加えてジブリ以外のアニメはほとんど観たことがないため(新海誠映画とスラムダンクくらい)、それらとの関連性等についても言及していません。
 ※上映後の勢いで売店に平積みされていた「スタジオジブリ物語(鈴木敏夫責任編集,集英社新書)」をまんまと買ってしまい、せっかくなのでそこから適宜引用しています。あと、すでにWikiの当該ページには完全ネタバレで詳細なストーリーが記載されているので(やばい人がいるものだ)、その辺もチラ見しながら書いています。
 ※下記の内容については記憶ちがいや認識ちがい、理解不足の点も色々あるかもしれないので、もし何かあればコメント等でご指摘いただけましたら幸いです。   



疑問①

①対象年齢層はどこに置いたのか?
 これまでのジブリ作品では、対象となる視聴者層を明確に規定しているものが多かった。映画を作るにあたっての企画書文面がよくパンフレット等に記載されているが、有名なところでは例えば「千と千尋の神隠し」は10歳前後の子どもに向けて作った(鈴木,p. 228)とか、「紅の豚」は(機内上映作品として企画されたため)ビジネスマン男性でも楽しめるものにした(前掲書,p.111)とか、そういった対象が定まっていることが標準的なようだ。
 本作の企画段階では、そのような対象年齢層をどの辺に定めたのだろうか?ご覧になった方はわかる通り、本作は内容的には解釈の難しい部分も多く、大人向けのようでも児童向けのようでもある。ある記事によると宮崎監督の自伝的要素が含まれるという解釈が濃厚だが、それでも商業映画である以上、観客(特に子供たち)を完全に置いてけぼりにすることはないんじゃないかな、、、と個人的には考えている。

 ちなみに、かつて同じように内容が難解だと言われた「もののけ姫」の完成披露会見において、「子どもには理解できないのではないか」という周囲の心配の声に対し、宮崎監督は以下のように答えている。

「実は子供達が一番良く分かってくれるんじゃないか(中略)むしろ私が分からないと思って描いたものが、子供達も同じように疑問を持っている問題として、受け止めてくれるんではないか。」

(鈴木敏夫『スタジオジブリ物語』, p.197)

 本作においても、子供たちは(大人同様)完全には理解できないながらもありのまま受け止めてくれる、と期待しているのかもしれない。問題は想定視聴者層のど真ん中にいるのが子供なのか orもっと上の層なのかということだが、この点についてはパンフレットや今後のインタビュー等でわりと容易に明らかになるのでは、と期待している(注1)。

疑問②

②なぜ鳥がたくさんでてきたのか?
 ジブリ作品には架空の生き物だけでなく実在の動物が登場することが多く、「紅の豚」「平成狸合戦ぽんぽこ」「猫の恩返し」など、作品の主要なモチーフとして扱われることも珍しくない。ただ、本作で意識するまで気づかなかったのだが、これまで大きく扱われてきた動物はほとんどが哺乳類だった。例外はナウシカの王蟲くらい?しかしこれも架空の生物だ。
(追記:ラピュタのハトを挙げている人がいた。でも物語上のキャラクターにまではなっていないよね。)

 本作ではアオサギ、ペリカン、セキセイインコと、鳥類が主要モチーフとして大量に登場する(注2)。その一方で、これまで頻繁に登場していた哺乳類が人間以外はほぼ全く出てこない(※どこかに出てきましたっけ?もし見逃していたらご指摘ください)。なお、その他の動物はカエル(両生類)やコイ(魚類)が出てきたと記憶している。
 今回のこうした鳥類の大々的な登場・登用は、どういった製作意図によるものだろうか?また作劇上のどのような効果を狙ったのだろうか?

疑問③

③キャラクターのデフォルメ度合いの違いは何を意味するか?
 疑問②とも関連するが、本作で登場するキャラクターは、それぞれデフォルメの程度が違っている。たとえばペリカンは一貫してリアルな姿で描かれるのに対して、セキセイインコはかなりマンガ的だ(一部、現実世界に入る場面では実際のインコに近い見た目にヌルッと変身する)。また人間の登場人物でも、主人公の真人や義母の夏子のリアルな見た目と異なり、お屋敷のばあやたちは目鼻立ちなどが相当デフォルメされて描かれている。まるで別々のマンガ家が描いた人物たちを混ぜたかのようだ。

 人間のキャラクターにおいて、特定の顔のパーツを強調するようなデフォルメされた表現自体は、これまでのジブリ作品でもよく見られるものだと思われる(例: 「千と千尋~」の湯婆婆とハクの違い)。ただ、今回の真人や夏子とばあやたちは「千と千尋~」のような異世界ではなく現実世界において表現が異なっていたので、その点が意外に見えた。
 人間以外のキャラクターにおいて、作中でデフォルメ度合いが変わる描写のあるジブリ作品例として、「平成狸合戦ぽんぽこ」が挙げられる(※他にありますかね、ハウルとか猫の恩返しとかどうなんだろう?)ここでは、リアルな動物としての姿や人間的な姿を含め、全4パターンのタヌキの姿が意図的に描き分けられている(前掲書, p.135)。
 ただ、「ぽんぽこ」では同じタヌキの見た目が状況によって変わっているのと違って、今回は鳥の種類ごとに表現が明確に分担されている。つまり、ペリカンはデフォルメされず常にリアルに描かれ、反対にインコたちは(現実世界の場面を除いて)常にデフォルメされた擬人的な姿のままだった。唯一の例外が1羽だけ登場するアオサギで、リアルな姿と鼻の大きなおじさんの姿を自由に行き来していた。
 このようなアオサギ、ペリカン、インコそれぞれのデフォルメ表現の「住み分け」にはどのような意味・意図が込められているのだろうか?

疑問④

④今回の内容は物語の類型にはまっているのか?はみ出した部分はあるか?
 
物語の類型というのは、様々な作品に共通するストーリーのパターンをまとめたものだ。バーフバリやドラゴンクエストのような主人公が放浪する物語は「貴種流離譚」と呼ばれ、ジブリ作品でも「もののけ姫」のアシタカはこの類型に入ると言われているらしい。
 一方で他のジブリ作品の中には、典型的な物語パターンから外れたような展開をみせるものもある。たとえば「千と千尋~」では、当初想定していた典型的な冒険活劇もののストーリーを変更し、カオナシを中盤以降の主要キャラとした。このことについて鈴木Pは次のように述べている。

「不思議なお話ですよね。物語の類型からはかけ離れています。でも、僕はこれこそが現代の映画だと思った。」

(鈴木敏夫『スタジオジブリ物語』 p.243)

 さて、今回の内容はこうした物語の類型にあてはまるだろうか。ストーリーを雑にまとめてしまうと、冒頭からかなりの部分で実際の戦時中の日本を舞台としつつ、中盤から一気にファンタジックな異世界に入り込んでいく。いろいろあって(端折りすぎ?)、異世界の均衡を保っている大叔父様から世界の統治を任されそうになるがそれを断り、崩壊していく世界から脱出を図る…。という展開だ(詳細を覚えていない部分もあるけど、そこまで外してはいないはず…)。
 「異世界へ迷い込む冒険ファンタジー」という点では、それこそ千と千尋~」や「となりのトトロ」と類似しており、他にも似たようなパターンの作品がかなりありそうだ。(追記:有名な児童小説の「ナルニア国物語」も、少なくとも導入部分は似たパターンらしい。すなわち、戦争で田舎に疎開し、疎開先の古いお屋敷が異世界につながっている。)また、作中で主人公たちがあるタブー(禁忌)を犯すが、この点も何かしらの過去のパターンをなぞっているかもしれない。

 では、本作のストーリーの中で「千と千尋~」のように物語の類型から外れた部分はあるか?あるとしたらどの部分だろうか?個人的には異世界に入り込むまでの長めの現実場面(宮崎監督の自叙伝的な部分?)にはまた別の物語構造がありそうに思えるが、はっきりしない。この辺については2回目以降を観賞する時に意識していきたい。

疑問⑤

⑤現実や時代性との接点、「メッセージ」はあるか?
 たぶんこの点の解釈によって、観客の受け取り方や賛否が分かれてくるんじゃないかと思う。

 物語の中盤以降で主人公たちが異世界に入ってからは、非現実的なイメージや展開がどんどん続いていく。ボートを漕ぐ異世界の住人、キリコ、わらわら、ペリカン、ヒミ、インコの軍隊やインコ大王…次に誰が出てくるか、何が起こるかわからない状況に、ワクワクした人もいれば意味がわからず苛立ちを覚えた人もいるだろう(注3)。
 このような難解な物語から、観客はどのようなメッセージや現実との接点を読み取れるだろうか?なにか監督本人の発言のようなセリフもあった気もするし、物語の色んなシーンから多様な解釈が(やろうと思えばいくらでも?)できそうだ。その反面、最終作とされているせいか、「監督が様々な制約から解かれて自由に製作した、言い換えればメッセージなど気にせず好き勝手に作ったのだ」といった評価もみられる。
 宮崎監督は、ネット上でよく言及されるアニメーターや戦争オタクの顔だけでなく、児童文学に造詣の深い人物という側面も持ち合わせている。かつては、児童文学の持つ意味について「『生まれてきてよかったんだ』ということを子供たちにエールとして送る」ものだという旨の発言もしている(宮崎,p.163)。また鈴木Pは「千と千尋~」の宣伝方針を考えるにあたって、「現代との格闘」があるかどうかを重視したという(鈴木,p.243)。
 こうした製作陣のスタンスを考えると、本作においても現実で起きている諸問題を無視しているわけはなく、観客に向けた(肯定的な?)メッセージや、現代との時代的な接点を(直接的にせよ婉曲的にせよ)何かしら織り込んでいる、と考えるのが自然だろう。ただその具体的な中身については、現時点で筆者にはまだはっきり見えていないので、2回目以降の観賞や、これから読むであろう様々な論考・レビューを通して考えてみたい。

おわりに

 金曜に観てから数日おいて、とりあえず浮かんだことを疑問点のかたちで整理してみた。「はじめに」でも述べたとおり、あくまで初見の(パンフレットすら読んでない時点での)ナイーブな感想をベースにしたものなので、もっと重要な論点や謎などはいくらでもあるだろう。目の肥えた方々やこうした物語論(?)に見識のある方にとっては、わかりきった些末な点ばかりを挙げただけかもしれない。
 他にも西洋絵画からの引用や過去作のオマージュ等もたくさんあったような気がするが、そうした点についてもこれから様々な論考やレビューが出回って色々な解釈が盛り上がるだろうから、折に触れてそれらを読み、理解を深めたいと思っている。

おわり

脚注

注1)ただ、今みたいに広告なしのままだと、その辺の親子層・ファミリー層までリーチしにくそうで、なかなか足を運ばないのでは?という心配もちょっとある。

注2)英語タイトルも” The Boy and The Heron”となり、アオサギが題名に直接登場することになった。

注3)個人的な感想をいうと、筆者にはこの先の読めなさ自体がとても楽しくワクワクした。今までに読んだダークファンタジー系の児童小説として「光車よ、まわれ!(天沢退二郎)」や「銀河鉄道の夜(宮沢賢治)」の雰囲気を連想した(内容ではなくあくまで雰囲気。ここで何を思い浮かべるかは個々人の読書遍歴等によって違うと思います)。
また、こうした物語展開の背景には実はきちんとした意図があるのかもしれないが、現時点で感じる取りとめのなさ(デタラメさ?)は睡眠中の夢に近いかもしれないという点で、夢に着想を得たといわれる「ねじ式(つげ義春)」も連想した。

参考文献・Webページ


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