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『陽炎の衢』- かげろうのく-



 炎天の空に、誰かの呼ぶ声が聞こえた。
 突然の出来事に、なに事かと辺りを見回すも、それらしき人影は見当たらない。
 生い茂る青葉も静かに、風ひとつなく、動くものは無かった。
 声は何処から届いたものか。
 言葉は判じ得ないが、高音域の人のもののように思えた。
 単調に繰り返されたフレーズの、その余韻だけが届いたのだろうか。

 真夏の炎天下である。
 日中、この暑さに好き好んで出歩く者など居ないと頭では判っている。
 熱中症の危険を冒すのは自分くらいのものだろうな…、などと呑気に思いながらも一住に周囲を窺う。
 しかし、確かに聞こえたはずの声音はもはや静寂に消え、誰かの気配も無い。

 ここは川沿いの土手の下。
 川と併行して走る舗装路とそれに並び続く倉庫街がある。
 普段は運搬車両の出入りで賑わうこの場所も、お盆休みの直中では忙しなく動く人影も無く、その門戸は閉ざされ閑散としていた。

 舗装路といえば聞こえは良いが、整備は行き届いてはおらず、凸凹の路面からは著しい経年劣化が見て取れた。
 剥がれたアスファルトの穿たれた部分からは下の地面が覗き、砕けた欠片は黒い小石となり辺りに転がっている。
 箇所箇所に劣化の歪みからできた隙間があり、その穴を埋めるかのように草花が生い立っていた。

 立ち止まった侭、暫く逡巡していると…、直射日光に焼けた肌がひりひりとひららく。
 Tシャツから覗く左の二の腕へと視線を落とし、むず痒さに軽く爪を立ててポリポリと掻くと、褐色の薄皮が剥がれ、真皮にこもった熱さが痛痒さを伝えた。

 額に浮かんだ玉の汗が、頬から顎先へとつたい、水滴の膨らみとなって滴る。
 落ちた汗は、焼けたアスファルトに触れると、微かな音と共に蒸発した。
 強い日の光が、遮るものの無い地面を熱く焼き付けていた。

 振り返り、来た道のその先へと視線を延ばす。すると、遠く下生えの草木を映す光と影とが揺蕩うように揺れ動いていた。
 地に凝った熱が空気を暖め、地面近くの大気の密度をむらにし、照り返す光を不規則に屈折させる。
 熱気が怪しげに揺らぎ乍ら立ち昇っていた。

 …陽炎だ。

 陽炎越しの歪んだ景色を見つめながら、気の所為だったのか…という懸念が心中に浮かぶ。
 軽い眩暈を覚え、右の掌を首の後ろへと当てる。こもる熱を掌に感じ…

 あゝ嫌な熱さだ。

 と呟くと、熱は気怠さとなって、頸部から両肩までの範囲を重く緩慢にした。
 矢張りこの暑さの中、悠長な散策など控えるべきだったか…と、軽はずみな行いの顛末に溜息を吐きかけたその時だった。
 目線の先…、揺らめくもやの中に…。
“ 何か  “ がいた。
 気のせいか…と、思わず眼を凝らしてみるも、合わせた焦点も未だ暈けたまま、不確かな輪郭だけが揺れ動いている。

 何だ…アレは…。

 その “ 何か ” は、初めはただ白くぼやけていた。
 更に眼を凝らし窺い見ようとするも焦点は絞れないまま。
 遠くて判じ得ないが、陽炎の先に “ 何か ” が揺れている様に見て取れる。
 足りない情報を補おうと景色の外枠にある境界が稀薄になっていく。視界が狭窄し、視野が対象へと収束する。

 陽炎越しに映るモノ…それは、ヒトのカタチを為した生白い塊…だった。

 幻を見ているような感覚に、それを追い払おうと目蓋を閉じる。
 軽く頭を振り、再び見開いた。
 すると先ず違和感があった。
 その “ 何か ” がいた筈の位置が、微妙にズレているのだ。
 それが此方側に近づいたような、存在の幅が先程よりも膨らんで見えたからだ。

 怖いもの見たさとはこの事なのだろう…確認をせずには要られない未知のモノへの衝動が再び目蓋を閉じさせた。
 恐る恐る眼瞼 がんけんを開いていく。
 その生白い塊は、ゆっくりと此方へ…確実に近づいていた。
 近づく毎に、徐々に細部を露わにしカタチを為していく。

 それは、生白い巨大な肢体だった。
 長い髪が簾のように垂れている。
 その下に異様に膨れた白い顔が覗いている。細部は肉に埋没し表情は窺い知れない。
 胸部から垂れた膨らみは、老女のそれに見える。弛んだ腹の肉が二重三重に垂れ下がり、下腹部を覆い隠している。
 首から撫で下ろしたような肩と、こんもりと突起した腰肉、そこから膨らんだ四肢が生えているように見える。

 恐らく、此の世のものであるはずの無い奇怪な肉の塊から垂れ下がった手足しゅそくのその伸びた爪先が、力無くぶらぶらと揺れている。

 宙に浮いているのか…。

 不気味な “ 何か ” に捉われ、眼を逸らせぬまま、ただ凝っと窺い見いる。
 揺らぐ陽炎の先、白くぬめらかな表皮を露わにする “ それ ” の、隆起した肉の張りに埋没した目鼻の下…、大きく左右に裂けた口が歪な歯牙を見せて嗤っていた。

 全身を走る戦慄に筋肉は弛緩し、手足に痺れるような感覚が襲う。
 玉のような冷や汗が止め処なく滴る。
 震えながら開いた口は軈て、声無き絶叫を上げていた。

 ガクガクと震え笑う脚に力込めると、膝がガクッと崩れた。
 ここで倒れてしまえば、きっと腰が抜け動けなくなる…それだけは避けねばならなかった。
 その思いだけで、不自由に蹌踉めく不甲斐の無い脚の現状を必死に堪えしのぶ。
 両の拳に力を込め、太腿を二度三度と叩く…と、その痛みと共に漸く脚の感覚が蘇る。

 額からの汗が目に沁みる。素早く首を振ると玉の汗が飛び散った。
 今ある気力の全てを振り絞り、左手に立ちはだかる土手の斜面へと、身体の向きを変えつつ駆け上がって行く。
 ズルズルと下生えに足を取られながらも、ただ上へ上へと脚を上げ続けた。
 時間の流れが遅い。
 太腿に溜まった乳酸が、重りのような倦怠感を伝えている。
 この苦痛が和らぐ時は訪れるのだろうか…刻々と終わりのない刹那が続いていく。
 呼吸が荒く、上手く息ができない。
 心臓が早鐘の如く脈打つ。
 しかし血中の酸素濃度が低下し、脳に酸素が回らず、暗暗くらぐらとした眩暈に眼が霞む。

 酸素ガ… 足リナ…イ… 苦ルシ…イッッ

 朦朧とした意識のなか、重く塞る目蓋が境を隔てた時、ふと脚が軽くなる感覚をおぼえた。
 眠りから目を覚ますように眼瞼 を瞬かせ開くと、そこには…
 一面に彼岸花が咲き乱れていた。

 赤く咲き開いた血の如き花弁が、さざなみのように風に揺れている。
 立ち竦んだまま、その景色に目を奪われていると、花園にひっそりと佇む1人の少女に気付いた。
 彼岸花の花弁の如き色合いの赤いワンピースの裾が揺らいでいる。 
 ひとつ編みの髪を肩から前へと垂らし、幼さの残るあどけない顔立ちの少女は、瞬きのない大きな瞳で此方を見つめたまま、小さな紅唇を開いた。

「光の亡い淵から這い出すんだ…
  人をね…連れ去るんだよ…
   底深い淵にね、引き摺り込むの」

 少女は口角を上げ さも可笑しげに クスッ と笑う。

「判る? 判るでしょ、
  …匂いを感じてる?
   あぁっもう…近くに来てるよ…
    …ほらっ!」

 突然、立ちこめた腐敗臭に吐き気が込み上げる。思わず目を閉じ顔を背ける。
 片手で急ぎ口と鼻を塞ぐ。
 事態を察するべく閉ざした両眼を薄く開く。
 気配も無くいつ顕れたものか。
 撓垂しなだれた黒髪に、膨れた生白い顔。
 弓形に裂けた口に冷たい吐息を湛えながら、目の前で “ それ ” は嗤っていた。


 暗転した世界が再び結象を果たしたのは、どの位の時を経てからだったのだろう。気がつくと消毒液の匂いが漂う病室のベッドの上だった。
 漸く意識を取り戻したと、慌ただしくやって来た担当医師の話しによると、如何やら土手の草むらに前後不覚の状態で倒れていたのを通行人が発見、救急車で搬送されたらしい。
 ひと通りの説明と軽い検診を終えた医師は、病室からの去り際に、脱水症状を伴う重度の熱中症で、暫く安静が必要との診断を告げた。

 再び1人になった病室の白く清潔なシーツに包まれながら、安堵感と共にあの出来事を思い起こす。

 あの時…、
 確かに自分とは異なる “ 何か ” に出会でくわし、怯え恐れ慄いた。
 だから耐え切れずに逃げ出した。
 ゾクっと背筋が震える。

 あの道の陽炎の先で揺れていた “ あれ ” はいったい何だったのか。
 不確かな意識のなかで見た一面の彼岸花と、その妖しい花園でまみえたあの少女が意味するものは、隠り世だったのだろうか。
 それは泡沫の夢かぼろしのように、今はもう消え失せた。しかしその残滓は残っている。

 判ることは “ ただひとつ ” だけ。
 辿り着いたあの場所が、此の世の何処かでは無いこと…、それだけは知れている。
 何故なら、彼岸花の開花には、未だふた月ほど日が早いのだから…。

 了

かげろう/かげろふ【陽炎】
 光と影とが、微妙なたゆたいを見せる現象。強い直射日光で地面が熱せられ、地面に近い空気が暖められて密度分布にむらができるために、そこを通過する光が不規則に屈折させられて、揺れ動いて見えるもの。
 平安時代以降の和歌では、あるかなきかに見えるもの、とりとめのないもの、見えていても実体のないもののたとえとされることが多い。かぎろい。かげろい。

く【衢】
 意味:みち。ちまた。広いよつつじ。
    えだ。わかれみち。

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