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第2話 初出勤

37年間勤め上げてくれたトミオさんがとらじ亭を去った。
飲食店は調理人が居なくなったら終わり。
今から8年前の2012年にとらじ亭は一度終わってるのである。
残された家族がやれることは、ほとんどなかった。
誰も助けてくれないし、誰も話を聞いてくれない。
そう、みんな金がないし、飲食店の営業になんて関わりたくなかったんだ。
僕もその1人だったけど、とらじ亭は家業であり、僕の思い出であり、大好きな料理がある店だ。
初出勤の日。
朝9時に店に着くと、全てがくたびれ切っていた。
看板は錆びて朽ちていたし、シャッターを上げると、飛行場の飛行機の着陸音のような音が出る。
入り口の木造の扉は鍵をかけている意味があるのか?と心配になるほどガタガタしているし、店内はカビ臭い。

なるほど。
そりゃ売上が無いわけだ。
僕は古い店は好きだが、汚い店は大嫌いだ。
新品も気を使うから苦手だが、使い込まれた味と、放置した結果は違う。
とらじ亭は完全に諦めムードというのが店内に出ていた。
カウンターや壁、床は油っぽく、換気扇はボロボロ。
シンクの上をアブラムシが我が物顔で歩き、排水溝は朽ちて腐っていた。
電気のブレーカーも油だらけでコードは擦り切れてよく電気が消えた。
トイレはカビだらけ、エアコンからは水が漏れて、2階、3階のカーペットは油っぽく、タバコの焦げ跡まである。
テーブルの上は油がこびりついていて、壁掛け時計の針は止まっている。

絶望感に包まれた僕は気を取り直して窓を開けようとしたが、窓が開かない。
立て付けが悪く開かない上に油でギットギトだった。
冷蔵庫の中は辛うじてちゃんとしてた。
一応、ここは料理屋さんだったらしい。
僕はまず、掃除を始めた。
人間が食事を摂るところが不潔であるなんて理解ができなかった。
すぐに自腹で掃除用具を揃えて昼12時の開店までひたすら掃除を開始。
程なくして祖母が来た。
祖母は掃除をする僕を見て感心した様子で、自分がもう少し若かったら、こんな状態にして置かないんだけど、力がもう入らなくて。
そんな風に恥ずかしそうに話す祖母を見て、愛しくなった僕は雑巾を絞る手に力が入る。

家族以外の全てを変える必要がある。

僕はそう決心して、それからは毎日掃除をしまくって店中の油を落としてカーペットを張り替えた。
入り口の木の扉のペンキを塗り直したり、窓の立て付けを直したり、トイレやキッチンの配管を直したり、ガスコンロやガスホースを新品に変えたり、とにかく思いつくことを出来る限り自分の手で直したり交換したりした。
店の外観も、ブラシで連日擦りまくり、油と煤を落として、人生でこんなに掃除したことあるのか?ってくらい掃除をした。
店の前だけでなく正面やお隣さん、それを続けているうちに店の目の前の通りを掃除して歩くようにした。
そうやってまず、基本的なことを毎日積み重ねて行った時、自然と街の人から声をかけてもらえるようになった。

息子か?そんな風に色んな人から声をかけられて、その度に挨拶を繰り返していると『あの店まだやってたのか?』と言われたほど、とらじ亭は街の記憶から消えていたらしい。
僕は凡人だ。
だから当たり前のこと、挨拶と掃除を継続することしか他に思いつかなかった。
虫もネズミも寄り付かないくらい店をキレイにして、店内設備を補修して磨き上げた頃、ポツ、またポツッと、雨の降り始めの様に昔通ってくれてたお客様がご来店頂けるようになった。
そして、一通りのメニューの調理を祖母から教わると、味付けに波があることを知った。

これじゃあ、昔と違うと言われても仕方ない。

僕は祖母の味付けを全部秤に乗せて測って記録したりして、タレの作り置きをすることに決めた。
材料と仕入れ先だけは間違いなく本物だったので、お店自体を軌道に乗せていくのは簡単な様に思えた。

しかし、毎月の収支がどうなってるのか確かめる必要があると思い、全ての会計伝票と仕入れ伝票をエクセルにぶっこんでPL(損益計算書)を作ってみると驚愕の事実が数字でわかった。

全く、利益が出ていないのである。

お客様が焼肉屋で好んで飲み食いするものはビール、シロ(自家製マッコリ)、牛タン、カルビ、ハラミなど、王道のパターンが多い。
カテゴリー別に商品の出数と粗利益を計算してみると、それら王道のメニューは利益が半分も出ていなかったのだ。
僕はすぐにオヤジになんで値上げをしないのか?
なんで仕入れ先と交渉しないのか?
この2点を問い詰めると、値上げなんかしたら客が来なくなるし、仕入れを抑えたら材料が入らなくなるぞと言われた。
サラリーマン時代に営業マンを経験して、事業開発に携わった経験があった僕からすると、そんなことは言い訳にしか聞こえなかった。
値上げの前に仕入れ先に値下げの交渉をしてみた。
あらゆる業者から見積もりを取り直して、既存の仕入れ先に交渉してみると割と簡単に仕入れ値が下がった。
しかし、ここで一つ間違いに気付いた。
シロ(自家製マッコリ)の仕入れ先は1つしかなく、和牛ホルモンの仕入れ値を下げたら途端に質が悪くなったり、ひどい時には注文しても持ってこなくなった。
さらには、正肉の取引先が高齢により店を畳んだりして、お店に関わる全ての物事から警報音が頭の中にグルグル鳴り響くようになった。
和牛はその希少性から最高の材料を仕入れるためには値下げ交渉がほとんどできない。
さらにホルモンは取り合いだった。
牛タンやハラミなどの人気部位は1日に東京の芝浦で300頭ほどしか取れないらしい。
それを都内だけで二千軒の焼肉屋が発注をかける。
もちろん屠殺場は大宮、千葉、神奈川とあるらしいのだが、とてもじゃないが和牛のホルモンは投げ売りできるようなものではないとのこと。
豚を使えばもっと安くできるが、それはとらじ亭の1番のファンである僕自身が許せなかった。
メニューの値段を上げるしかなかった。

だれか助けてくれ。

目の前にいたのはアル中のオヤジ、ネットワークビジネスが好きなオフクロ、腰と指が曲がった婆ちゃんしかいなかった。

そっか。
オレがやるしかないんだ。
全部、何から何までオレがやるしかないんだ。
初出勤から、ある程度お店を軌道に乗せても、1日も休みが取れなかった。
結婚してた妻ともケンカをするようになり、自分の人生が普通の人の人生と溝が開いていくのを実感していた。
僕が店の何かを変えるたびに、常連さんやオヤジからは怒られた。
この頃は自分が何か悪いことをしているのかと思い込むようになっていた。
それくらい追い詰められていた。
真っ暗な海の中から、地上の光を見上げて、早く息がしたいのに、重りがついていて海面に顔を出せない感覚だ。

僕はそんな風に度々、先代達や常連さん達とぶつかり合いながら、コツコツと粛々と再生計画を実行し続けた。

紙の伝票をエクセルに打ち込み続けて、メニューをパソコンで自作して、朝から掃除して仕込みしてランチ営業して、夜の仕込みして、暇があれば店の外に出て喉が枯れるまで呼び込みをし、夜の営業して、片付けをすると家に帰れるのは深夜。
そんな毎日が永遠に続くような感覚に陥り、一刻も早く目の前にある理不尽で不変に見える現実を変えたかった。

数ヶ月後、メニューの販売価格の見直しもあり、PLが安定してきたのに金がないことに気づく。

第3話へ続く…

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