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第7話 とらじ亭神田店オープン

足元が定まらないまま、みんなの士気を上げるために追加で借入して神田店のオープンに取り組む。
しかし、この時はまだ、その後大問題が起こることに、僕はまだ気づけずにいた。
上野本店は順調に売上の回復を見せていき、日暮里店は売上こそまだまだだったが、大人の飲み放題ドリンクバーのおかげで人件費が大幅に下がりトントンという数字。
ドリンクバーやスマホのハンディを導入することで、工数が減り、アルバイト達が定着し始め、管理職には日本人が揃ってきた。
ワクワクしかしなかった。
日暮里店の思いもよらない回復により、上野店の売り上げも回復。
ここで弾みをつけて、マネージャーのポストを用意して、いよいよ小さいながらも企業体としてチームとして、大きな喜びを分け合える!そんな風に青臭い精神状態だった自分がいた。

しかし、そのワクワクは長くは続かなかった。
日暮里店のセントラルキッチンを任せられる料理経験者がいないため、僕1人で朝は全店分のタレを作り、全店に車で配達をして、帰ってきたら営業の仕込み、掃除、接客と目が回るような日々だった。

神田店はスケルトンから初めて立ち上げる店舗だっただけに、一から10まで見届けたかったが、手足を人質に取られてる現在ではそれも叶わず、たまに見に行って進捗を確認するだけしかできなかった。
工事の施工は焼肉専門の換気ダクトのメーカーで、ある程度任せても大丈夫だろうという油断があったと思う。
でも、その時の僕の時間は一日たった24時間しかなくて、夜は店の真ん中で倒れて朝方に起きて仕事をする生活が続いた。
こんな日々でも体が壊れなかったのは、両親に感謝しかない。

誰にも後ろも前も横すら任せることができない。
その中で資金繰りなどの社長業も同時並行で行うのだ。
たぶんもう一回同じことをやれと言われたら無理だ。
使命感しかなかった。
俺がやらなきゃ誰がやるんだと。
自分のことだけでこんなにモチベーションは続かない。
離婚した元妻や、一人娘、両親、祖母、そして今ついてきてくれるスタッフ、応援してくれる取引先。
そして、こんな綺麗事だけでも、こんな状態は乗り切ることができない。

2017年10月
焼肉・ホルモン料理とらじ亭神田店がオープン。
初月の売上は目標の800万円とは程遠い80万円。
有名チェーン店の管理職とやらは全く使い物にならなかった。
この頃から経験者というものは、作業員でしかないことを知った。
初月の爆死もなんのその、メガネ店長は自分のせいじゃないと意に返さない。
そして、上野本店の店長が辞表を突きつけてくる。
一体なんでこのタイミングでこんなことをしてくるんだろう?
少しは一緒になんとかしようとか思わないのか?
そう問い詰めてみたが、神田店のメガネ店長を新店舗の店長にしたことを根に持っていたらしい。
自分に新しいポジションをくれなかったことに腹を立てていた彼は、行きつけの伸び盛りのラーメン屋に転職が決まったと言ってきた。

せっかくここまできたのに。
しかももう年末だ。
焼肉屋の売上は年末に1.5倍に膨れ上がる。
どんな手を使ってでも残って欲しかったが、彼は聞く耳を持たない。

入社時、彼から聞いた夢の話。
彼と語り合った多店舗展開の夢。
そんなものは結局のところ裏切られる。
みんな店がオープンしたら、どこからともなくお客様がきて、ちょっと値引きしたり、グルメサイトを使えば簡単にお客様が来ると思っているし、常連になってくれると勘違いしている。

そんなことは絶対に有り得ない。
厳しいながらも笑顔で気持ちの良い接客と、美味しい料理の提供。
掃除の徹底や反応の見えない呼び込みやポスティングなど、一つ一つの地道で基本的な積み重ねが必須なんだ。

技術も同じ。
ある程度、要領を覚えるとバカは途端に成長をやめる。
いつもと同じ作業を単純化して、自分に都合よく進める。
そして、俺にはこのやり方が合ってるんだと、怠惰で自分勝手な妄想を正当化して、固定概念と既成概念を作り出す。
その中に逃げ込んだ人間は成長がとまる。
ロボット作業員の出来上がりだ。
こうなると、後は手取りと休みの奴隷に成り下がる。
昨日までと同じ日常を長く過ごせば過ごすほど、自分の時間を犠牲にしているので、自分の価値が上がってるものだと勘違いする。

実はその逆なんだ。

労働者としての価値は年齢が若いほど高い。
特にこうした体を動かす仕事は、その生産性に違いが明確に出てくる。
慣れればできる仕事など、若い子にやってもらったほうが圧倒的に早いのだ。
35歳を超えてくると、これまでと違ったやり方はできるのにしたがらない人が多くなる。
これまでに使ったことがない筋肉を動かすと筋肉痛になるように、労働も同じだ。
右利きなのに左利きを極めようなんて人は若い時じゃないとやらない。
自分の能力が花開く感覚というのは若い頃にしか感じられない。

体の稼働域を広げると、もっともっとと楽しくなるように、仕事を通じて自分の能力を開花させていく醍醐味に気づくと、自分の雇用環境の改善は自分の中にあると気づけます。

そういう感覚を35歳までに身につけられなかった人は、残念ながら一生作業員で終わるパターンが多く見受けられる。
僕自身も大企業で管理職ポジションにいた時、多くの先輩方がそれに気付けず退職していった。
もうどこに行っても、末端からスタート。
受け入れがたい屈辱だろう。
でも、働いてきた『時間』を売りにして転職する人には徹底的に勘違いしてるところがある。

日本の会社は残念ながら労働を時間で計算して、そこに給与を払う仕組みになっている。
年功序列も長く続いたから年齢×1万円みたいな当たり前が脳にこびりついているケースが多い。

しかし、これは大きな勘違いなんだ。

働いてきた経験が無駄になるとは言わないが、結局なにも能力が身についていないケースがあまりにも多い。
営業マンなら、売上を稼いできて、利益を上げなきゃいけない。
調理人なら一通りの食材の取り扱い方を把握してるのが当たり前で、料理人を目指さなければ能力とはいえない。
料理人とは、その人の料理を食べたくなる人のことだ。
建築現場の職人さんなら説明書見ずに組み立てられて当たり前。
その仕事の仕上がり具合や現場でのコミニケーション能力がなければ次の仕事は来ない。

給料をもらっていれば、35歳には頭打ちになる。
ブルーカラーの仕事は確かに経験を重ねることにより、応用力、問題解決能力が付いてくるので、年齢と共に給料が上がる可能性は高い。
しかし、40代でお客さんを集めることができなければ、それまでなにしてたの?と言われるのが普通だ。
少なくとも正社員では不要になる。
小さい子供や家のローンが残っていれば、また一から別の会社でってわけにもいかないだろう。
自分を見直した方が早い。

さて。
そう言った話を共有していた上野店の店長はどうやら僕の見込み違いだったみたいだ。
もちろん、社長である僕の責任だ。
神田の新店舗開店は出鼻からコケて即撤退でも良いくらいだったが、最大繁忙期の12月の結果を見ずに撤退はしたくなかった。
それに、2〜4月の歓送迎会シーズンも見てみたい。
それなのに人がまた居なくなってしまう。

なんで、みんな短期的にしか物事を判断できないんだ。
どうにかしてやる!ってやつはいないのか。
上野店の店長とその彼女の退社の意思は固く、神田のメガネ店長はロクに売上もあげられないわ、呼び込みにもいかないわ、チラシすら配りにもいかない。
一日中アルバイトの女の子とペチャクチャ喋ってスマホをいじってるだけだ。
料理はできない。

でも、この神田には多くの老舗料理店があり、彼らはなぜ長く営業できるのか?
試されてる感じがしてワクワクしてしまったんだ。
最低最悪の状態だったが、僕の心はまだ折れていなかった。
会社の試算表は散々な状況だったが、腹の中からはメラメラと燃える熱を感じていた。

全部ひっくり返してやる。

上野店に中国人店長と先代女将を戻し、神田にはメガネ店長を続行。
日暮里店とセントラルキッチンは僕一人とアルバイト一人で回すことにした。
3店舗分の仕込みは山のようにあり、配達も僕一人で行う。
毎晩気を失って、朝目が覚めたら仕込み、配達、資金繰り、掃除、営業の繰り返し。
でも、僕には成功体験があった。

基本を疎かにせず、しつこくしつこく自然体で仕事に当たっていれば成功してきたから、自分の実力を疑う必要はなかった。
僕はまた一から再構築に動き始めた。
あの、とらじ亭上野店に初出勤した気持ちを胸に、一から全部やり直してみたんだ。

2017年12月
とらじ亭日暮里店は過去最高月商を達成。
人件費比率15%
営業利益で20%以上を叩き出した。
上野店も中国人店長が丁寧で遠慮しがちな接客から一皮剥けて、僕が過去に出した記録に近づいてきていた。
神田店はようやく200万といった売上。
赤字だ。
その年末に神田のメガネ店長が先代女将への悪口と共に退職届を持ってきた。
また、これだ。

何かを立て直せば、どこからか亀裂が入り、怠惰という水が流れ込んできやがる。
上野も日暮里も良い感じなのに、なんでいつもこうなるんだ。

またやり直しだ。
僕と日暮里店で過去最高月商を作り出した外国人アルバイトと先代女将を神田店に配置。
上野店はそのまま中国人店長。
日暮里店を僕がワンオペで回すことになった。

上野店を辞めた後輩の友人は転職先のラーメン屋で朝から晩まで休みなくこき使われて、2、3ヶ月で退職したらしい。
現在はカラオケ店の店長をしてるとのこと。
神田店のメガネ店長と働いていた秋葉系の可愛い女の子アルバイトはメガネ店長が退職届を持ってきたあと、僕と二人で話したいと申し出てきた。

メガネ店長はお客様の注文データを消して、偽の領収書を切ってお会計をポケットにいれているとのこと。
もちろん、レジのIT化をしていたから、注文の取り消しログなどは全て残っていて、定期的に僕が確認していたから不自然なことはわかっていた。
人手不足だったから、泳がせていたに過ぎない。

僕はどうしてそんなことを俺に話すの?と聞いてみた。
メガネ店長に妊娠させられ、責任を放棄されたらしい。
すごいな。
なんでこんなことばかり起こるんだろう。
メガネ店長は妻子がいて、二人目の子供を奥さんが妊娠していた。
秋葉系のアルバイトちゃんは、そのことをご存知のまま、別れるからといったその言葉を信じて股を開いたらしい。

他人の色恋沙汰など、心底どうでも良いがいまは会社の社長で、この人達は従業員だ。

メガネ店長は業務上横領、社内服務規定違反など、僕が記録しているノートや書類に判子を押してもらい解雇した。
アルバイトの女の子は自分もヤバいと気づいた途端に正社員で雇って欲しいと申し出てきたが可愛いだけで人間性に疑問を感じたので断った。

さあ店を畳もうか。
それとも続けるか?

ダメ元で求人を出してみた。
僕の後ろを任せられる、料理のできる普通の調理人が欲しい。
売上は自分が作る自信があった。

外は寒く、真冬の中。

現在、とらじ亭日暮里店でマネージャーをしている郡司が面接に来た。
某ホテルで12年間の調理経験を持ち、国家資格の調理師資格も持っている。
朝から時には泊まりで仕事をして、それなのに給料は手取りで17万ほどだという。

なんで能力がある人が給料低くて、報われないんだ?
僕はもう人間不信になっていたから、彼の言うことが最初は信じられなかったし、正直求人は出したものの会社は大赤字。
日暮里店と神田店開店の失敗と上野本店の客離れが起こった時期の赤字が800万円ほど計上されていた。

郡司は見た目は大人しそうで、口数も少ない。
バックヤードで過ごしてきた人なんだろう。
こんな人に接客が必要なお店が務まるのだろうか?
最初は断ろうかと思ったが、面接の最中に居合わせた会計事務所の女の子が言った一言が採用を後押しした。

『見た目も地味だし、服装はちょっとだらしないけれど、真面目そうな人』

そう。
真面目に仕事をしてくれさえすれば、そこからいくらでも展開していくことができる。
今までの人は、暇になれば階段に座り込んでスマホをいじったり、アルバイト達をアゴで使うだけでなにもしなかったり、妊娠させてバックれるわ横領するわで、真面目とは程遠い人ばかりだった。
外国人スタッフ達はビザの更新に僕に擦り寄る必要があったから、よほどの事情がない限り悪いことはしない。

日本語が通じにくいだけで、不真面目な人はいなかった。

郡司の採用を決めて、新しい出発を決めたとらじ亭は2018年に快進撃をする。

2018年4月。
3店舗の月商が1000万円を超えるようになる。
黒字だ。

その次の月も、その次も。

郡司が入ってくれたおかげで全店に僕が顔を出せるようになり、社内改革をしていくことができるようになった。

メニュー作りやレジの変更、グルメサイトの運用、肩の荷が少し降りたようで、体が軽くなる。
やれる!
それまでの僕の姿を見ていてくれた取引先の社長が他店舗の配達を引き受けてくれるようにもなった。
涙が出るほど嬉しかった。
先代のオヤジも店に顔を出してくれるようになり、この頃から新しい常連さん達が増え始めた。

社長の俺が諦めなければ、不変に思えた日常も変えることができる。

これなら2019年には現体制を維持したまま、赤字を解消してスタッフ達の給料もアップ!ボーナスもまた払えるようになる!
有給休暇も完全取得させて、まずは一回2018年度の恩返しをスタッフにしたい!
そんな風にルンルンで仕事をしていた。

もちろん新店舗も考えていた。
大人のドリンクバーにより、PLが回復した日暮里店、神田店は店長達に30万円払っても、アルバイト達に時給1200円払ってもお釣りが来るくらいだった。

当初の僕の構想では、まず4店舗。
そうすれば年老いた先代達を各店舗の監督役にして、全体の底上げを僕と分担して行ってもらう。
3店舗だけだとまだ理想の状態からは遠かった。
先代達を監督にして、郡司をセントラルキッチンの責任者にするためにはもう少し売上が欲しいところだ。

しかし、この頃から上野店に配置して実績を作り始めた中国人店長が僕に対して口うるさい反応をしてくるようになる。

2017年度は赤字だったので、夏のボーナスが出せなかった。
だけど、2018年の上期は黒字化してるので、冬のボーナスは1ヶ月分だけでも出してあげたかったし、このまま欲を出さずに3店舗で安定させられれば、ボーナスを出せる。
下期も好調なら3月末の決算でさらにボーナスも出せる。
前期に2店舗も出店して、この世の地獄を経験した僕は慎重になっていた。
魅力的な物件情報がブローカーから山のようにきていたが、心のどこかで(今は無理)と呟いてはメールを右から左に消していた。

しかし、会社の業績がいいのに、僕から新店舗立ち上げの状況報告が会議でなくなると、調子に乗っている上野店の中国人店長は不満な顔をしたり、夜中に電話をかけてくるようになった。

『社長!嘘つくの?店舗もっと早く出してよ!3店舗じゃ売上少ないし、利益も少ないよ!話違うよ!もっとしっかりしてよ!』

こんな電話が夜中の0時を過ぎると鳴るのである。
1分でも残業させるとうるさいくせに、社長の時間は無限にあると思っているらしい。
店に顔を出せば新店舗新店舗と、なんかこういうオモチャなのかな?というほど日本語で冷静な経営の話ができない。

ちょうど消費税増税もニュースでよく聞くようになっていたから、しばらくはこのまま体力をつけたかった。

借入による預金を増やすのではなく、内部留保を貯めたかった。

内部留保は、会社の貯金そのものだ。
日本は不測の事態が起こっても、経営者や企業を助けると言った補助をしない。
徹底的な自己責任を押し付けてくる歴史がある。
そんなの誰も知らないと思うが、大企業にいた僕はそれを知っていた。
東証一部上場企業を、個人事業の米屋から1代で作った社長の物語や決算書、社史を学んでいた僕は内部留保の必要性を強く感じていたのである。

その会社は不景気にもびくともせず、上場企業の中では自己資本比率が飛び抜けていた。

取引先が100社倒産したってビクともしない財務体質。
経営に派手さはなく、労働環境が特別良いものではなかったが、成長と安定をまざまざと見せつけられていた。

人はキレイに見えるものに価値があると思っている。
ピカピカの新築のビル、都心の一等地。
新品の設備や道具、見た目に価値があると思っている。

会社の姿勢は損益計算書でわかる。
そして、社長の在り方は貸借対照表でわかる。
経営の仕方は千差万別のように思えるが、それらは取り繕いに過ぎない。
売上を上げたら、コストをそれ以下にして10%の利益を確保しなければ永続しない。
例え利益を出せたとしても、その利益を資産として持つのか?負債に変えてしまうのか?
ここに社長の人となりが出る。

法人化して、黒字で決算した時の税金を見て、僕は愕然とした。
会社に現金が残らないんだ。
普通従業員として働くと、額面給料から社会保険料などまとめて20%ほど税金を取られる。
僕はこの仕組みがアホらしくて法人を作り、社長になった。
そして、今度は会社で営業利益を出したらそこから半分近く税金を取られた。

さらに売上には消費税が課税される。

…。こんなのどうやって金貯めるんだよ笑
日本の中小企業の多くが社長や親族の給料を高くして、会社を赤字にする理由がわかった。
赤字にすると7万円しか納税しなくていいのである。
もちろん消費税はガッツリ取られるので、消費税が上がると税金の取りっぱぐれがないから国にとっては良いことなんだろう。
しかし、消費は落ち込み、誰も事業なんかしなくなる。
だから、みーんな赤字にして自分達で取れるだけ報酬を上げてしまうのだろう。

ゾンビ企業の出来上がりだ。
日本にはそんな企業がうじゃうじゃしている。
そりゃそうだ。
変革をしたら自分達の取り分が減ってしまうのだから。
一発当てた会社は過去の成功体験にしがみつき、挑戦をやめる。
でも、世の中には挑戦しろ、挑戦しろと本屋からネット上まで情報がありふれていた。
たぶんその人たちは変化が欲しいんだろう。

戦後に出来上がった既得権の力は膨大で揺るがない。
そりゃそうだ。
お金持ちは特に何もする必要がないのだから。
焦らせて不安を煽っても、踊らされるのは貧乏な人だけ。
お金持ちたちは変わらざるおえなくなるまで変わることはない。
そりゃ若者は絶望するわな。
何を言ってもやってもムダな雰囲気が日本中に漂っている気がした。

2018年の夏
上野店の中国人店長が退職を申し出てきた。
この頃の僕は、スタッフに退職をチラつかされることに完全に慣れてきていたが、せっかく売上が上がっていて、昨年度の赤字を取り返してる最中。
冬のボーナスも約束している中、なんでいきなりこんな申し出が来るのか全く意味不明だった。
彼に理由を尋ねるとこんな返事だ。

社長。浅草のお店、出店するのやめたんですね?
どうしてですか?

浅草のお店とは、ちょうど梅雨の時期に来た話で、花屋敷の近くの新築のビル。
一階の路面店なのに、坪単価が2万円代と安く、TX浅草駅から徒歩1分の立地だ。
浅草ビューホテルからも近く、インバウンドの需要が見込める。
昨年度の赤字を取り戻している今、喉から手が出るほど欲しくなった立地だった。
いつもの神田店を作ってくれた業者を呼び、見積もりを取り、契約の申し込みを入れた。

もしかするとこのままいけちゃうかもしれない。
売上が上がって社内の雰囲気がよくなり、この浅草店の話は明るいニュースだった。

しかし、契約の直前。
入居予定だったビルが売却される。
新しい管理会社からは賃料の値上げが打診された。
その時点でブチ切れた僕は契約を破棄。
入金前だったし、ハンコは押してなかったのでことなきを得たが、危ないところだった。
普通、オーナーチェンジがあっても、契約内容が変更されることはない。

今回の物件は縁がなかったんだ。
僕の検討では、その新築ビルは豆腐のように簡単に作られていて、とても長持ちしそうにないビルだ。
おそらく建設会社が投資用に作り、テナントを客付して付加価値の創出をして売却して儲けるビジネスなんだろう。
こんな話は腐る程ある。

そういうビルは入居してしまったら終わりだ。
管理会社は適当だし、オーナーチェンジを繰り返す負債ビルに成り果てる。
結果的に良かったが、社内には残念な声があがった。
契約毎や事業計画なんて聞いたことも見たことも興味もないスタッフ達からすると、僕がビビってやらなかったんだと判断したのかもしれない。
その証拠に上野店の中国人店長は不満げに口を閉ざして、僕のことを軽蔑してるような目で見てきた。

どうやら彼の中では、飲食店というのは何十店舗もなければ意味がないと考えているらしい。
安い中華チェーンを作るなら、薄利多売のビジネスモデルなので、それもアリだろう。

でも、とらじ亭は違う。
客単価5,000円の焼肉ホルモン屋なのだ。
マーケットは小さく、和牛の仕入れは高い。
それに、僕自身は規模の拡大には興味がない。
あくまでも、とらじ亭というお店を永続させていくことにしか関心がないのだ。
しかし、働く側は違う。
規模の拡大こそが正義、売上が上がれば自分達の給料や待遇が上がると思っている。

どうやら、彼らの頭の中には『コスト』が抜けてるらしい。
そして、ただ店を開ければお客さんが自然と集まると思っている。
馬鹿げた話だ。
どこの誰が始めたかもわからない店にだれがいく?
履いて捨てるほど飲食店がある中で、なぜ立地が良ければ店にお客さんが来ると考えているのか?

僕はそんな思いがメラメラ湧き上がってくる中で冷静に彼と話を続けていた。
しかし、彼の気持ちは変わることはなかった。
店舗を年内に増やさないなら、年内に辞める。
ボーナスなんて要らないという。

彼がボーナスを拒否しようがなんだろうが、他のスタッフもいるんだから自分勝手な意見は慎んで欲しいものだ。
だけど、今このタイミングでようやく使えるようになった社員を手放すことは、また苦労の連続が訪れる。

僕は年内に新店舗を開けてもいいが、過去の上野店で僕が作った記録を抜くことが条件だとした。
そして、去年の赤字を完全に取り返せていない状況で店舗展開を開始するということは、ボーナスは無理と伝えた。
それほど出店にはお金がかかる。

僕はとらじ亭を永続させるのが任務であり、身の丈以上に店舗展開をして、借入で首が回らなくなって事業の売却先を探している社長ではない。
ぼくは社長である前に、とらじ亭の4代目店主なのだ。
絶対に失敗を許されない使命がある。

彼にそのことは伝えたが、日本語が通じてない様子なので、諦めた。
とにかく彼は僕が新規出店を約束した途端機嫌が良くなり、いつも以上に仕事に励んでくれた。
飲食店の闇は深い。
一度攻めたら、攻め続けていかないと止まれない。
世の中の多くの飲食チェーンが拡大路線を改められない現実を知った。
どこもかしこも、こんな事情を抱えているのだろう。

2018年10月。
JR大塚駅南口徒歩1分の立地にとらじ亭大塚店が開店。
ついに、2016年に想像したイメージが現実化した。
そして、それは更なる地獄のデスマーチの始まり、深海の海の中に引き摺り込まれていく物語の始まりである。

第8話に続く…


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