第3話 売上と利益
個人の飲食店は丼勘定のところが多い。
とらじ亭も、僕が来るまでは丼勘定。
いったい毎月いくら売上があって、いくら利益が出ているのか。
先代はそんなことは会計士に任せておけばいいんだと言っていた。
僕にはそれが納得できなくて、帳簿を詳細に付けるようにした。
とらじ亭の売上構成はこんな感じ。
30歳以上〜50歳未満の男性75%
20歳以上〜35歳未満の女性25%
焼肉ホルモン45%
飲み物20%
ご飯もの5%
刺身やツマミなど30%
完全に飲み屋の売上構成で、極端に男性が多い。
僕が来るまでのとらじ亭のPL(損益計算書)
売上100%
原価55%
粗利益45%
販管費50%
月によって多少の変動はあるが、赤字かギリギリ利益が出る月もあると言った感じ。
販管費が高すぎるのは売上が低いからだが、原価が高すぎるのと、販管費の内訳が不透明でよくわからないのが問題に感じた。
仕入れ値の交渉は材料の質を維持できなくなることがわかったので、逆に一番高い値段で買うから最高の材料を必ず持ってきてくださいと頭を下げ、メニューの一部を時代に合わせて値上げした。
もちろんどこでも買えるお酒や備品、消耗品は安く買えるところに全て切り替えた。
それでも利益がないなんておかしい話だ。
個人事業主の決算は12月でしめる。
僕は初めて商工会の会計士と話をするようになり、販管費の内訳を細かく聞いた。
ここにとらじ亭が抱えていた問題があった。
転貸借契約だ。
普通、飲食店は大家さんと甲乙の賃貸契約する。
なのに、契約書には甲乙丙と余計な一文字があり、読んでもよくわからなかったから不動産屋と弁護士などの専門家に聞きに行った。
そしたら、音羽さんのご家族は乙ではなく丙になっていますとのこと。
つまり、二重に家賃を払って、その代わりに営業をさせて頂いてることになっていたのだ。
どういうことなのかオヤジに詰め寄ると、もともと『とらじ亭』は親戚の叔父さん夫婦がはじめたもの(第1話参照)だから、2代目の祖父がその問題を解決してなかったのが問題だというのだ。
そうか。確かに祖父は済州島から学生として日本に来て、白タクをしていたと婆ちゃんが話してくれたな。
食うに困って親戚のお店でアルバイトを始めた。それがとらじ亭だ。
祖父がとらじ亭に来てからは、とらじ亭の全盛期が始まる。
御徒町駅まで行列ができたほどらしい。
朝から晩まで営業をして、昼時にはホルモンスープが300杯。
山盛りの豚足が飛ぶように売れて、日本の高度成長期にはカルビ一人前500円の時代に、わずか5.5坪たて3階建ての店内30席ほどで1日30万円を超す売上を連日叩き出していたらしい。
その頃のとらじ亭のお客様は注文の仕方も半端じゃあない。
肉とホルモンのごっちゃ混ぜ『マゼ肉盛り合わせ』は5人前500gからしか注文が来ないのだ。
いま現在は半人前50gしか注文しないお客様がいるというのに、すごい話ですよね。
そして、その火付け役が2代目の祖父順二郎だったらしい。
順二郎はお客様との会話、コミニケーションの達人だったようで、時代的に忌み嫌われた在日韓国人でありながら、人種世代に隔たりなく付き合いを広げ『とらじの金さん』という仇名で曲まで出したらしい。
店内では昼から夜まで『とらじの金さん』の歌が歌われて、深夜まで賑やかだったと、隣のバーのママに教えてもらった。
そして、その祖父は根津の長屋を出て、西武も東武もなかった池袋のヤミ市に、土地付きで一軒家を建てた。
祖父は親戚の叔父さん夫婦に対して感謝を忘れなかったそうで、店を任されてからも毎月必ず大量の食材とお金を持って行ってたそうだ。
そして、その感謝が慣習になったのがオヤジの時代だった。
祖父が急病で、とらじ亭と目と鼻の先の十字路で前のめりに倒れた後、家族は大揉めに揉めることになる。
現金は全て親戚に分けられ、うちの家族は店と池袋の自宅を引き継いだらしい。
オヤジは店を継ぐ気もなかったそうだが、兎にも角にも継がざる終えなくなり、そこでこの親戚に払い続けていた慣習を払わなくなった。
もちろん、親戚の叔父さんも既に死んでいたし、オヤジからすればこれでようやく裸一貫で勝負できると思ったのだろう。
しかし、そうではなかった。
すぐにこの親戚の家族から家賃を払えと請求書が来たのである。
納得のいかなかったオヤジは大家さんに掛け合って直接契約をしようとしたが、親戚が弁護士を連れて大家さんとの契約書、ヤミ市の時代からの領収書まで証拠として持ち出してきた。
大家さんはめんどくさくなったようで、あんたら家族の問題はあんたらでまとめてくださいと追い返され、結局、オヤジは甲乙丙の転貸契約を弁護士事務所で巻かされたのである。
だから、とらじ亭はいくら売上を上げても、家賃という固定費を二重に払い続けていた。
それでも、とらじ亭は稼ぎ続けていたからなんとかできたのだろう。
しかし、80年代に増えはじめたチェーン店との競争、飲食店の乱立により、売上は徐々に減ってきており、平成に元号が変わると増税や不景気と共にミルミル売上が減っていった。
家庭を顧みなかった祖父のやり方に潜在的に疑問があったオヤジは年中無休で朝から深夜までの営業を改めて、カレンダーの赤い日を休みとし、他の多くの個人店と同じように夜は22時で店を閉めるようになった。
そこで、初めてこの親戚に渡す毎月の家賃が重荷だと気づく。
そして、その頃にはもう遅かったのだ。
日本の景気が悪くなってくると、事業に失敗した親戚から金を貸してほしいと言われるようになってきたらしい。
自分の兄弟のために、連帯保証も受けたらしい。
さらには精神的な持病で働けない実のお姉さんのために、生活費を自分の給料から出していたらしい。
この優し過ぎるオヤジは、次第に自分の人生を諦めていくように、酒やタバコに溺れていく。
あまり人付き合いも好まない、物静かなオヤジは、常連さん達に祖父と比較されるようになり、ますます店で口を開かなくなっていった。
やりたいことや挑戦したいこと、30代のオヤジには山ほどあっただろう。
でも、そのほとんどはこうした現実、しがらみにより犠牲になった。
話を聞いてくれるのはだれもいなかったのだろう。
僕が物心付き、小学生になる頃には家で酒を飲んで怒鳴り声を上げるようになったのだから。
そして、日本の静かなる衰退と共に、とらじ亭も衰退。
追い討ちをかけるようにレバ刺しやユッケの事件、狂牛病、2020年現在蔓延したコロナウイルスのような感染症を経て、売上は場末の喫茶店やバーのように下がったのに、固定費は下げられず、働けない者の生活まで面倒を見たのが僕のオヤジである。
彼をバカにするやつがいたら、僕は許さない。
オヤジが耐え忍んだおかげで今があるのだから。
自分の子供の貯金箱を開けて両替したり、将来の貯金切り崩して生活費にしたり、借金して、生命保険を解約して、古く朽ちていく実家を直したりしていたんだ。
その頃には僕も顔や口には出せなかったが大人になったようだ。
家族以外の全てを変える。
オヤジとぶつかっても仕方がない。
環境を変えていく。
しがらみを全部ぶっ潰す。
働く人が報われない既得権益は破壊する必要があり、再生する必要がある。
2014年の冬。
家族とケンカして、祖母と2人で朝から晩までとらじ亭上野本店にいた。
もうすぐ2年も経つのに、状況は何も好転してない。
外には雪が降り、道には人っ子1人いやしない。
売上がない中、店の中から外を恨めしそうに眺めていると、学生時代に祖父に世話になったという老人や、旧国鉄時代にとらじ亭をたまり場にしてたお爺さん。
祖母に叱られたのが思い出で、会いたくなってきた人達一人一人の顔を思い出し、僕は一つの決断をしたんだ。
とらじ亭の赤い看板の火を消してたまるか。
この看板は僕のものじゃない。
他の誰かの人生の思い出なんだ。
ヤミ市からの挑戦を掲げて、より一層営業に力をいれると決めた。
アルバイトを雇う余裕が出て、かなりの利益が出るお店にまで回復した。
しかし、ここでまたお金がない。
親戚の問題や転貸契約の問題はまだ解消してなかったが、売上は回復してきてるし、利益も出ているはずなのに、金がない。
そう。
借金があったんだ。
第4話に続く…
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