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注視

 フローリングの溝に覗かれている。
 テーブルに向かったりベッドに寝転がったりして視線を逸らすけれど、気が付いたら見てしまう。見られているよりは見つめ合っているほうがいいと考えてのことかもしれない。わからない。私は私の肉体のことがわからない。脳と心すら切り離されている。
 フローリングの溝の向こうには際限のない暗闇が広がっている。または泥沼が。または下水道が。または鏡に映ったような世界が。または水銀が。私を覗く者は加害者に違いない。なんらかのたくらみがあって、隔たれた世界から私を加害しようとしているのだ。ただ生きているだけの私の足を引っ張ってやろうと見つめてくる。暗闇か泥沼か下水道か虚像か水銀の世界から抜け出そうとしている。目を瞑って縮こまっても私は惹きつけられてしまう。ベッドの縁から顔を出して、テーブルの天板と自分の身体の隙間から見下ろして。

 私はお前に気づいているぞ。
 私はお前が覗いていることに気づいているぞ。
 決してお前の思う通りにはならないぞ。

 私の内から滲む暗い炎のような憎しみや警戒に困惑する。私は私を覗く者が恐ろしくてならないはずだ。それなのに奴を制圧しようとしている。害を加えられる前に害そうとしている。ただ被害者であるよりいっそ加害者になったほうがよいと細胞が言っている。恐ろしさに視界すら点滅するのに、今、家の中にある鋭利なものを片っ端から集めている。フローリングの溝を傷つける。

 私はお前を殺そうとしているぞ。
 私はお前を逃がしはしないぞ。
 私はお前よりもうまくお前を制圧するぞ。

 フローリングが削れて生まれた粉塵と傷跡。インターホンが鳴る。古い水が床に零れて、溝に染み込んでゆく。私はまだ奴を殺せていないから、被害者である。

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