「境」 ショート×ショート(1770文字)






ー空に向かってゆくんだ



飛び込み台に立った先輩がこちらを見て、浅黒い腕をあげた。思わず胸の前で握りしめていた手を解こうとしたが、両隣の席で一気に沸いた部員を見て、みんなに合図を送ってるんだと気が付いた。照り付ける光が波立つプールに反射して、その度にわたしの目の奥が微かに痛んだ。


「今日はすげぇタイム出るぞ、あいつ」


「あぁ。隣のレーンに北高の山岸がいるしな、今日は負けらんねぇだろ」

目の前に座った男子部員が話しているのが聞こえる。

昨日、わたしはベストタイムを出したのにも関わらず予選落ちをしてしまった。高校から始めた水泳だったけれど、今はこうして部活に没頭している。今日は先輩の泳ぎを応援するのは最後になるかもしれなかった。でも、この試合に勝てれば、とうとう東京で行われるインターハイが待っている。



ー東京の大学行こうと思うんだ、専用のプールがあるところがあって



陽炎の揺れ動く熱せられたプールサイドの奥に、わたしが育った街が見える。溢れ出す生命力を抑えきれないくらいに青々とした稲穂が、プールの煌めきに応えるように、その身を揺らしていた。


先月の進路志望。数学が苦手なんてありがちな理由で、文系を頼りなく丸で囲った。いつか、この街を出ていくなんて思いもつかなかった。今、ここから見えている景色がわたしの当たり前だったから。先輩ははっきりと言った。続けたい。これからも。先輩は揺れる光の波を見続けていた。



ー思いっきり空を吸い込む感じ。水をかく。もう一度、空を見る為にまたストロークに集中。それをただ繰り返す。それだけを繰り返すんだ



ざわついていた会場に長いブザーが鳴ると、あっという間に静寂が包み込んで、甲高く響いた笛を合図に弾けたように水面に飛び込んだ。第三コースの先輩は誰よりも先に水面に顔を覗かせる。部員はみんな先輩の名前を呼ぶ。胸の前で結んでいた手のひらがじんわりと熱くなってゆく。


ー記録を塗り替えてる時は、妙な感じがする


ー水面から顔を離すときに、全部見えるんだ。観客席にいる人の表情とか。あとは、水面がとにかくまぶしくって。まるで世界が光ってるみたいでさ


先輩はわたしのタイムを何度も何度も縮めてくれた。指先の開きかた。顔の角度。身体の芯。泳ぐことの楽しさ。 高校の退屈な授業を受けながら、放課後がいつだって待ち遠しかった。



—その時、思うんだ。続けてて良かったって




歓声が次第に盛り上がっていく。気が付けば第四コースを走るライバルと先輩が並走して、後ろを引き離していた。何度も見せてくれた、整ったフォーム。先輩の大きな手のひらで漕がれた身体は、誰よりも速く、透明な光の中を突き進んでいく。



−いくら遅くたっていい。苦しくても、何度も、何度も繰り返せ。お前は泳ぐのが好きなんだろ?



先輩に少しでも追い付きたくて。あたしは何度も空を見続けた。


スムーズなターンから先頭の二人が浮かび上がってくる。僅かに先輩が顔を浮かび上がらせている。部員達は一斉に立上がり、突き進む二人の姿を追って、声をあげている。


ー苦しくても、何度でも


思わず、わたしは名前を叫んでいた。先輩が空を見上げる瞬間に。


彼の世界に、わたしの声も届けたかった。


隣のライバルがペースダウンをし始めた。とうとう、はっきりと一番にいるのが先輩になった。最後のタッチを水中で身体をぐんと伸ばして一着でゴールした。周りの部員達は背にしていた電光掲示板を一斉に振り返った。歓声が沸き立って、部員達はみんな抱きしめ合って喜んでいる。



ー空に向かってゆくんだ



時間が止まったようだった。わたしは。わたしだけは、先輩が水面から顔を出した時の表情をずっと見続けていた。やっと完全に浮かび上がった、先輩の姿を見つめていた。



先輩がこちらを見ている。自らのタイムを確認すると、大きな声で叫び、またこちらに手を上げて、歓びを身体いっぱいで露わにした。歯を見せて、笑顔を浮かべていた先輩がぼやけて見えた。水面の陽光が眩しく、光に包まれてるみたいだった。



熱い涙が伝っていくのが分かった。その時、先輩と目が合った気がした。わたしは涙を拭うと、ぎこちなく笑って見せた。もう隠しきれなかった。先輩にはたぶん。とっくに見えていたんだと思う。



視界に広がっている田園の奥に膨らんだ入道雲が見えた。良く知っている町が少しだけ、新鮮に見える気がした。空が青く、どこまでも高く続いていて、果てが無かった。きっとこれからも。泳ぎ続けるんだろう。明日も。その先も。ずっと。ずっと。続いていくんだと思った。






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