「燃えていた龍」ショート×ショート(3766文字)
わたしは、こんな景色をどこかで見たことがある気がした。
「えぇ?違うよ。ぜったいそんなことない」
手に持っていたスマホを汗ばんだ頬に当て込んで、窓を開くと昼間に地表に残された熱い空気が、鋭い風音に混ざり、空へ逃げていくのが分かった。片手で数えられるくらいしかない星が点々と光る東京の濁った夜空は、その下で生きている人の生活によって、まるで世界を隔てるように、蓋をされているみたいだった。更けた夜なのに白んだ都会の空が、わたしが手にしたかった景色だったのだろうか。
「お前、何言ってんだよ。あんな色だったろ」
弘樹は、さっきから同じことばかりを繰り返している。
「あれ。ほら、あの時、燃やした龍みてぇだろ?」
夜空を白く濁していた正体。地表から三十メートル以上離れたここからの景色で、唯一はっきりと映るのは、東京のビル群だった。高層ビルに取り付けられた障害灯の脈を打つような赤い光の浮き沈みを見ていると、東京そのものが生きているように思える。都会の息吹が、わたしたちの生きている世界をぼやかしているんじゃないだろうか。
「…多分。もっと眩しかったよ」
「そうかぁ?あんな色じゃなかったか。赤くて、ぎらぎらとした感じだったろ」
いっしょにしないで。思わず声を荒げそうになって、肩に挟んでいたスマホを握りしめ直した。
夜景に浮かぶ、東京の象徴に目を向ける。池袋の高層ビル群の向こう側に、東京タワーの暖かい光が夜空に滲み出ていた。十八の時に上京をして住んでいたアパートからも、ちょうど今のような景色が見えた。尤も、現在のようにここまで都心に近い高層マンションではなくて、板橋区の小高い丘に建てられた古い三階建てのアパートだったけれど。
今、わたしと弘樹は、東京タワーを見ている。
でも、きっと、わたしが見ている東京タワーと、弘樹の目に映っているものは、その色も、煌めきも、きっと何もかもが、全然違うんだと思う。
「美紀、覚えてるか?あの夜、笑い合ったの」
「うん。覚えてるよ。だって弘樹、ずっと見てくるんだもん」
「馬鹿、お前が見てきたんだろ?」
耳元から、離れた場所で弘樹がライターを擦る音がした。浜松町の高層オフィスビルから、弘樹はわたしに電話をしている。東京タワーを挟んで、わたしたちはちょうど時計の文字盤のような位置関係で同じ景色を見ようとしている。
―きっかけは高校の文化祭の時だった。
わたしたちが育った場所は、長野の有名な温泉地で、小さな山間に流れ込むように寄り添ってできた集落だった。幼い頃から当たり前のようにお互いの生活を知っていた。もちろん、ふたりとも、両親は旅館業を営んでいて、向こうの夜の御膳の献立から、はたまた、相手の家族の懐事情も、きっと弘樹も知っていたと思う。学校には、いつだって知っている旅館の子供がいたし、わたしはそれが当たり前だと思っていた。でも高校進学で、結局みんなばらばらになって、何となくずっと一緒だと思っていた周りの友達とも、次第に疎遠になっていった。隣町の進学校を受験したのは、わたしと弘樹の二人だけだったからだ。
弘樹は入学した時こそ、わたしに話しかけてきたが、それも長くは続かなかった。他の学生のほとんどが市内から来た人達で、わたしたちだけが村から出てきた本当の田舎者みたいだったからだ。当時のわたしは、それがどうしても嫌で、いつもの調子で話しかけてくる弘樹を気が付くと避けるように過ごしていた。
いつの間にか、温泉街ですれ違っても、他の子たちと同じように、なんとなく気まずい存在になっていた。…それはきっと、あの日以降も、ずっと続いている。
「違うよ。燃えてる姿がさ、ゆらゆらと揺れてて、それですごく熱くって。まるで生きているみたいだなって思ったの」
「あれが?ただ燃えてただけじゃんか」
「音とかさ。ばちばちって鳴りながら、龍が崩れていくでしょ?最後には全部赤い塊になっちゃって。おれ、なんだか感動しちゃってたんだよなぁ。だから、目を離せなかったんだ」
弘樹とわたしが入学した隣町の高校は、少しだけ変わっていて、文化祭に「龍」がいたのだ。もちろん、本物の龍ではなくて木材で造った龍だった。腕や胴体、尾、鱗などのパート毎にクラスで分かれて、文化祭の半年も前から製作に入り、当日に校庭の中央に全校生徒で力を合わせて建立する。今思えば、あれは、古い慣例のような祭りみたいなもので、ちょっとだけ古臭いと感じるけれど、高校生の時のわたしは夢中になっていた。校庭の隅に設置されたテントで、でんぷん糊にまみれながら、木材の梁に、何枚も何枚も画用紙で出来た紅い鱗を貼った。放課後の校庭の片隅からは、暗くなるまで走り込みを続ける弘樹の姿がよく見えた。
「…うん。確かに。生きているみたいだったかもね」
文化祭が終わる最終日に、龍は火を点けられる。弓道部の一斉に放った矢は、夕暮れのぼやけた空に、炎の弧を描いて降り注ぐ。中には、涙を流す女の子もいたが、誰よりも製作に真剣だったわたしは、決して泣かなかった。
夜に抗うように、その熱量を増してゆく炎は、何故かわたしの心を惹きつけていた。
わたしの心臓を握りしめるような、木材が崩れ落ちる音。
揺らぐ、いのちのような、真っ赤な炎。
弾け飛ぶ火の粉の中、わたしは、ただただ、じっと、燃え上がる龍を見つめていた。
「見えた気がしたの」
「あ?」
「あんたが見えた気がしたの」
あの時、わたしの目に映っていたのは、弘樹の姿だった。熱く揺らめく炎に照らされたのは、夜遅くまで練習をし続ける弘樹だった。
「あぁ。驚いたよ。ずっと見てたら、美紀が現れたんだもん。懐かしいなぁ」
「…懐かしいんだ。そうだよね」
炎が時間と混ざり、ゆっくり流れていくと、わたしは弘樹を見つけた。ちょうど、今夜のように、燃えていた龍の光を中心に、わたしたちは校庭で向かい合っていた。薄く溶けていく光の奥で、弘樹と目が合った気がした。あの時、わたしたちには、付き合っている人がいて、お互いにパートナーと手を繋いで炎を囲んでいた。
わたしは、目を逸らすことが、出来なくて困っていた。合図になったのは、龍の最も大きな支柱が崩れ落ちた時だ。火の粉が夜空に舞い上がっていく中、弘樹は確かに、わたしを見て、笑みを浮かべた。蕩けた大きな火の塊は、まだわたしたちを照らし続けていた。
熱く燃えていたものを、その時になって初めてわたしはひどく恨んで、同時に気が付かされた。わたしのなかでどれだけ、あの炎が熱く燃えていたかを。
それから、わたしたちは大学進学と共に上京をした。卒業の半年前のあの日を境に、連絡を取り始めたのは、どちらからだったかはもう覚えていない。わたしたちは、何かから放たれたように、そして、何かを取り戻すように二人で会うようになった。互いに恋人がいる時もいない時も、わたしにはそれほど意味を持たなかった。熱く燃えていた龍が、目を瞑ると、その熱をわたしに届けるような気がした。
「弘樹にはまだあんな風に見えるんだ」
「え、そっくりだろ?ほんとに綺麗だよな」
綺麗。目の前に浮かぶ東京タワーは、ぼやけて暗がりに浮かぶ。
「どうでもいいけど、こんな時間にかけてくるなってゆったでしょ?何の用なの?」
「まだこの時間なら帰ってきてねぇだろ」
電話口の向こうで、弘樹がまたライターを擦る音が聞こえる。ゆっくりと沈む障害灯の赤い脈が、わたしに何か伝えようとしている気がした。
「…美紀、俺さ。転勤決まったんだ」
「あ、そうなんだ。良かったじゃない。どこいくの?関西?」
「バレンシア」
弘樹が放った言葉は、周りに誰もいないんだろうと分かるくらい、空虚だった。オフィスの喫煙室で、弘樹が東京タワーを見ている姿が思い浮かぶ。
「え?なにそれ。海外?すごいじゃんか」
「スペインの都市だよ。きれいなところでさ。俺、英語は必死にやってたけど、スペイン語は流石に分かんねぇよ、あっそうそう、祭りがなんか、すげぇんだって。街中のど真ん中で、いろいろ燃やすらしいよ」
「奥さん連れてくの?」
「当たり前だろ。最低でも三年だよ」
良かったじゃない。そんな簡単な言葉が出なくて、わたしは驚いた。背後で玄関が開く音がする。
「じゃあ、頑張らなきゃね。これからも」
弘樹はきっと何か言いたいことがあったのだろう。でもわたしは、無理に電話を切った。こんなことはお互いによくあるから、弘樹も分かっているはずだ。ベランダから戻ると、味噌汁の入った片手鍋に火を点ける。やがて、リビングに入ってきた旦那はソファに座り込むと、テレビを見始めて、いつものようにわたしの料理を待っているようだった。
わたしは台所に逃げ込むと、まな板の上にスマホを置いて「バレンシア お祭り」と検索をした。
たくさんの炎に包まれた画像が現れる。見慣れない土地で、街全体が燃えているような画が並んでいた。火花に包まれた街を消火するのは、とても労力がいることなんだろう。
…燃える街を眺めていたら、溢れた味噌汁に鍋の蓋が、ガタンと、床に音を立てて落ちた。旦那は気にもせずに黙々とテレビを見続けている。
閉めきることのできなかったカーテンの隙間から、東京タワーの灯りが見えた。食卓へ晩御飯を運ぶと、わたしはカーテンを閉め直す。鍋にはまだその熱を持て余した味噌汁が、ぐるぐると、渦を描いていた。
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