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『トップガン』を観て、明日の人生の脚本を想う夜。

在宅勤務だと往々にして、家から一歩も出ずに一日が終わることがある。
退勤してすぐに『トップガン』を観はじめて、終わる頃には夜の帳が開いていた。

昼過ぎから降り始めた大雨は癇癪を起こした赤ん坊のようにさんざ喚き散らして、どこかに消えてしまった。喧嘩のほとぼりから冷めたあとの静寂って、なんだかおかしくて笑いそうになる。シリアスな場面なのに腹の虫が内側から、ちょうど脇腹から肋骨にかけてをくすぐってくるのだ。笑ってしまったらそこまで、念仏よりも退屈なお説教コース180分。私はルールを破った飛行をして説教を食らうマーベリックを装う。彼は失敗と後悔から、前に進んだ。だから、好きだ。

私たちは過去に戻ることはできない。人生は一方通行で、現在進行系の過去が堆積している。
過去とは経験で、成功と失敗の現像だ。
どんな過去の成功も再現不可能であるように、どんな過去の失敗もまた、再現不可能である。
あるのは極限まで再現に近い成功と失敗だけ。成功に近づけることは生産的だ。

でも、態々失敗に近づけるのって非生産的で虚しくはないか? 
何度やっても同じミスをする、とか。
そんでもって自信がみるみるうちに削がれてしまう。
何の得もない。面白くない焼き増しだ。
四流映画か、五流映画。メリハリのないタイムリープもの。
そんな人生は御免だろうし、きっとこの文章を読んでいる人もそんなつまらない人生は御免だと思う。人生はなるべく夢だらけであってほしい。あったらいいなを形にできるのは能動的な私たちだけだ。
自分に自信がないっていう貴方。この貴方には当然、私も含まれている。
自信がないからって楽しくない人生を送ってはいけない、そんなわけないだろう。できるなら笑っていたいし、目に見えるものの色がはっきりとしている方がいい。

私の好きな好きなバンドの1つにサカナクションがある。
特に『エンドレス』が好きだ。

https://youtu.be/cRHMm-q9Q-M

悲しいことがあって、布団に包まって、世の中のありとあらゆる光から逃れているとき、
『見えない世界に色をつける声は僕だ』というフレーズを何度も何度も、意味を搾り取るように聞いた。
目を閉じていたら、網膜の外側にはなにもない。なにもないってのは、一種の安寧だ。私もときに、瞼の裏側の孤独に肩を預ける。でも、瞼は実は硬すぎる殻だ。だって、外の世界の光をほとんど遮断してしまうのだから。目線を向けることで、私たちは簡単なコミュニケーションが取れてしまう。瞼の殻を閉ざせば、私たちは本当の意味で口を聞けなくなる。閉ざされる。
目を開くのは、いつだって貴方自身であり、私自身だ。
空が青いこと、生い茂る草花の青々しいこと、アスファルトに薄く塗られたバターのような逃げ水のこと。確かに見つめてくる、目と鼻の先の誰かのこと。それらを受け止めるのは、貴方の目、私の目。

目を開けてみる。物語が始まる。

物語を書いていて思うのは、人間の自意識は、誰もを主人公たらしめるってことだ。
脇役じゃない。ましてや除け者でもない。
貴方の人生は貴方しか味わえない。
平坦な一本道の生き方も、映画のような人生も、形はどうであれ、全て貴方のものだ。
だったらちょっとだけ、面白おかしく脚本を作ってみてもいい。
明日がどんな人生だろう、そのことを想像して、もう少しだけ脚本の続きを綴ってみる。


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