自分の腕で食べていく。
「自分の腕で食べていく」
バブルがはじけて月日が経ち、その余波で先細りになっていく会社勤めにほとほと嫌気がさした私は、そんな夢を抱いてOLからまるで畑違いのバーテンダーに転職した。
大繁華街を抱える駅そばに建つ小さなホテルのバー。街は大きかったけれど歓楽街と呼べるほどの遊びもなく、大都会と言うほど荒みも洗練されもせず、ただその大きさだけが日々広がっていくような街にそのホテルはあった。バーがあるのは最上階、と言っても夜景より隣のビルがよく見える10階、でもそれが却って隠れ家的な居心地の良さにつながり客筋の良い常連の多いお店だった。
シフトは終電に間に合う早番か、明け方までの遅番。業界というのは総じて狭く横の繋がりが強いもので、早番の日は近所のバー回りを常としていた。顔見知りに会えれば「先日はどうも」とこちらの店にも来てくれるし、会えなくても行った先の店主から「昨日美窪さんが来た」と聞いたよと顔を出してくれる。要するに営業で、特に駆出しのうちは身銭を切って街を歩き回った。
2軒ハシゴし家まで2駅の距離をトボトボ歩く。ふと大通りから路地に入ると道の先に白い煙が見えた。近づいて見ると煙を吐き出しているのはお世辞にも綺麗と言い難いカウンターだけの小さなホルモン焼き屋。辺りに立ち込める香ばしい匂いに急に空腹を覚え一瞬躊躇したけれど酔いに任せて店に飛び込んだ。先に生ビールと豆もやしを頼み、頭上のテレビから流れてくる深夜番組の音を聞きながら、マスターの包丁さばきをぼんやり眺めて暫く待つと、七輪とホルモンがやってきた。
「皮目がカリッとするまで絶対に裏返すな」よく飲みに連れ歩いてくれたホテルの上司にホルモンの焼き方は厳しく叩き込まれていたから、よくよく注意してまずはつるっとした方を下に網に並べていく。豆もやしをぽりぽりやりながら赤く燃える炭に顔を火照らせただただ堪え、そっと縁からめくって覗きトングにカリッという感触が触れるのを確認して一気に裏返す。溶けて溜まっていた脂が炭に落ちて炎が上がると、すかさずマスターが網に氷をのせて消火。裏面はさっと焼き目がつけばもう十分。
相手は熱々に焼けた殆ど脂の塊。迂闊に口に放り込めばたちまち火傷する、と頭で分かっていても今まさに焼き上がった熱々をフーフーして味わうなんて心の余裕も無いから、冷たいビールをお代わりするのが精一杯。フガフガしながら熱々のホルモンを次々とビールで流し込んでぺろりと平らげ、その勢いに乗って品書きの最後に書いてあるカレーうどんを少しの躊躇もなく注文した。
マスターは大きなタッパから仕込みのカレーを鍋に取って作り始め、そこにうどん玉を投げ入れると、待つ間いい加減飲み物も進まなくなった私を見て「近いんでしょ?持ってく?」。その言葉に素直に頷くと、ラップをかけた丼をどこかのレジ袋に入れ持たせてくれた。そのずしりとした重みをぶら下げながら、ふわふわとした足取りで今度こそ家路についた。
翌日の夕方出勤途中に空の丼を返しに寄り、その日の仕事帰りも煙に吸い寄せられてまた寄った。夜更けに飛び込んできた酔っ払いの娘、もう丼一杯のカレーうどんは食べられないとマスターは作る前から分かっていたと思う。夜な夜な街を歩き回る自分と、店で構えて客を捉えるマスター。その違いってなんだろう。水商売一筋で生きて来たマスターの腕に感服しその街で過ごす新たなテーマを得た私は、まんまとホルモン焼き屋の常連客になった。
あらゆる部位が煮込まれたカレーうどんの混沌としたおいしさはそうそう真似できないけれど、豆もやしだけはマスターの味を思いながら中々おいしく作れるようになりました。
ポイントは2つ、豆もやしは少なめの湯で長めに茹でる事と、茹でたもやしの水気をぎゅうぎゅう絞らない事。茹でが浅いと豆の青臭さが残り、絞ると筋っぽさが目立つので、水気は湯気で自然に飛ばして、気になるなら和える前に軽くペーパーで押さえる位にするとふっくらジューシーに仕上がります。
お読み頂きありがとうございます。 これからもおいしいお料理とおいしいお酒をたくさんお届けします。