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「郷土愛」は「独りで宇宙と対峙すること」である

「栃木の魅力は?」「ないんだな、それが」

ネット上で有名な画像の1つに、とある番組内で、「栃木の魅力は?」とインタビュアーに聞かれた栃木県民のリーゼント頭の男性が「ないんだな、それが」と答えるシーンのキャプチャ画像がある。

このシーンの前後を見たことはないので、正確な文脈は分からないが、この男性はとてもすがすがしい笑顔で「ないんだな、それが」と言っている。この発言を単なる"自虐"と取ることもできるが、この男性が、本当に自身の地元を魅力がなく空虚なものだと感じたり、今すぐ出て行きたいと思っていたりということは全くなさそうである。むしろ、その笑顔の純粋さとも相俟って、この発言はとても栃木への愛着に満ちたものに感じられ、この画像を見るたびに、こちらまですがすがしい気分にさせてくれる。

土地を記号として消費すること

先述したキャプチャ画像の右上には、番組内でのコーナーの名前であろう、「『日本一影が薄い』それは・・・栃木県」という文字が見える。世の中には「都道府県魅力度ランキング」というものがあるが、2019年の結果では最下位は茨城県、また、群馬県が45位、栃木県は43位である。

私は東京都内に住んでいるが、日帰り旅行がとても好きであり、これまでにも関東の様々な地域を電車や車で訪れてきた。もちろん茨城県や栃木県、群馬県にも幾度となく向かった。

よく、「○○に行くことが好き」と言うと、「○○って何があるの?」「○○って△△くらいしかなくね?笑」というような返答が返ってくることがある。また、世の中には「○○に行くなら外せない観光地10選!」のような記事が溢れ返り、旅行・観光という活動が、あらかじめ与えられた選択肢の中から自分の属性に適した物をいくつか選ぶ、という操作に堕とされている感が、しかも近年特に強いように思われる。

このような態度は、土地を記号として消費する態度と言える(記号にも言語表現などの有限種類の要素からなる記号とより広い"無限"の記号が考えられるかもしれないが、ここでは前者である)。

確かに、土地を記号として処理することにも便利な面はある。吟味された選択肢から選んでおけば基本的に「間違い」はないし、感動や経験を他人と共有するためにはその間に記号が必要だし、なにより物事を認識するときには最終的には記号として脳内で処理するのだから、これは人間にとってある程度は必要不可欠なことでもある。

しかし、最終的に記号として処理されるのだとしても、「○○(という土地)には△△くらいしかないからそこに行く意味がない」というように、自らが好き好んで記号のみを消費するにとどまらず、その土地そのものを人間が割り当てた記号と同一視してしまい、その土地そのものに無価値などといった価値判断を下してしまうことは、大変傲慢で思い上がった行為であると感じる。

ロシア映画「運命の皮肉」と団地

『運命の皮肉、あるいはいい湯を』(原題:Ирония судьбы, или С лёгким паром!)という題の1975年製作のソ連の映画がある。この映画は、ロシアでは大晦日の夜にテレビで放送される定番映画となっているほどの有名な映画らしく、私は5年ほど前、大学のロシア語の授業で、途中までであるが、観る機会を得た。

この映画の中で、「土地とその記号としての消費」に関連してとても面白いと思った点があるので、先ほどの話と関連して述べてみたい。なお、この文章を書くに当たって見返したわけではないので細部は曖昧な記述になってしまうがご容赦願いたい。

この映画の前半、モスクワのとあるアパートに住む主人公の男性は、大晦日に友人達と酒を飲みまくったあげく、酔って意識が朦朧としているままにレニングラード(サンクトペテルブルク)行きの飛行機に乗せられてしまい、モスクワにある自宅と間違えて、レニングラードのとあるアパートの部屋に入ってしまう。

酔うなどして他の家に入ってしまう、というモチーフは様々な物語に見られるが、この映画ではそこが徹底されており、主人公が住むモスクワのアパートと、誤って入ったレニングラードのアパートは、本当にそっくりだったのだと思われる。旧ソ連時代には、「フルシチョフカ」と呼ばれるような画一的な様式の集合住宅が大量に作られたというが、おそらく、通りの名前から建物に割り当てられた番号、部屋番号、間取りなど、全てが全く同じだったのだろう。鍵まで使い回されていたらしい。

ここには、土地に名前や番号やその他の記号を割り当てることでその土地の代用品とすること(「土地の記号としての消費」)の一つの究極の形があると思われる。主人公は、酔って弱った頭を振り絞って、通りの名前、建物の番号、部屋の番号、鍵の形という記号の集積によって、自らの家の特定を試みた。しかしそれは誤った結果に終わった。なぜなら、それらの記号が正に割り当てられるべき場所(土地)が複数あったからである。

場所と移動、時間

さて、ロシア映画「運命の皮肉」のような事例は特殊だとしても、我々は常日頃から、土地を記号に変換し、処理している。それは土地という対象を思考の場に引き寄せるために必要不可欠なことでもある。だが、ある種の無限の広がりを持ったこの世界を、情報という有限の記号に落とし込もうとする時、かならずどこかで限界(バグ)を生じさせてしまう(不断の改善(記号の補充)によって「時間」を味方に付け、この点を乗り越えることはできると思われるがそのことには触れない)。先ほど紹介した映画の中での出来事は、その手のバグの、一つの分かりやすい例だと言える。

映画の主人公があのようなバグを生じさせないためには何を見落とすべきではなかったのか(映画ではそのような手違いのおかげでストーリーが進んでいくのでこの質問は野暮ではある)。いろいろ考えられるであろうが、やはり重大だったのはモスクワからレニングラードまでの移動ではないか。他の土地に行くのにはそれ相応の時間がかかる。そして時間を巻き戻すことはできない。この点が、一般に、2つの場所・土地を分かつ重大な点であると私は考えている。待合所で搭乗開始を待ち、搭乗し、1,2時間のフライトを経て着陸し、街に出る。大晦日の寒空の中、しっかりとした意識でこれを経験したならば、家を間違えることもなかっただろう(フライトを経て同じ場所に降り立ったとしたらどうかという点は別の面白い話題を生じるがここでは触れないことにする)。

すなわち、土地の記号化、場所の記号化により取り漏らされてしまう一つの重大な点は、移動とそれにかかる時間、もっと言えば、ある時間を経てその土地に移動してきたという動かぬ事実だと私には思われる。記号とは時間の流れから離れたところに人間が仮構したものだとすれば、これは当たり前の話だとも言える。

団地と郷土愛

さて、冒頭の郷土愛の話に戻ろう。私は東京都東久留米市に住んでおり、散歩で行ける範囲には滝山団地という団地がある。滝山団地は1968年に入居が開始された西武沿線有数のマンモス団地で、周囲には他にも、当時皇太子であった現在の上皇陛下が視察に訪れたことでも有名なひばりが丘団地や、久留米西団地、東久留米団地、大沼団地、小平団地など、大きな団地が多数存在している。また、近現代の皇室の研究の他、鉄道や団地についての多数の著作でも知られる政治学者の原武史氏も滝山の出身である。

他の多くの団地もそうだと思われるが、滝山団地は、ある決まったパターンの繰り返しである街路の中に、画一的な設計の建物が建ち並び、それらには番号が割り振られている。部屋の間取りの種類もそう多くはないだろう。その意味で、先ほどのソ連の例と同じく、ここでは土地の記号化が強く行われていると言える。私は団地内の住居に住んでいるわけではないが、やはり決まったパターンの街路に郊外型の戸建て住宅が並ぶ中に暮らしている。

このような環境では、「この土地ならではの魅力」のようなものを分かりやすい記号の形で与えることは難しい。その意味で、「魅力度ランキング」のような観点では全く評価されないであろうし、私も滝山団地への観光を広く勧める気にはならない。

しかし、私は滝山団地に魅力がないとは微塵も思っていない。むしろ、私には魅力が多すぎて何度でも散歩してしまうほどである。その魅力は、既に記号化されたものの中に見つかるものではなく、その外側、正確に言えば、豊穣なこの宇宙の中で土地の記号化が原理上取り漏らしてしまう残りの部分にあるのであり、魅力の発見とは、その宇宙の一部を新たに記号(自分の思考の対象)の範疇に持ってくる営みである。

このような営みは、格好付けて言えば、人類が記号化という手段によって宇宙と対峙しようとする領域拡大戦争の最前線にある。そして、その境界線にあるのは、土地の記号化により取り漏らしてしまうものから発生するバグである。その意味で、団地という環境は、記号化が強く推進されているが故に、逆説的に、その綻びも著しく顕れているのだと私には感じられる。そして、そのような綻びを介して新たな魅力を発見するとき、以下の記事の最後に述べた「神的な至福」のようなものを感じる。

さらに言えば、ここで発見される魅力とは、原理上既存の価値基準の範囲にないものであるから、好き嫌いを言えるものでもない。それは一つの経験、一つの動かしがたい事実として不可避的に立ち現れるものであり、私はその繰り返しにより育まれるものこそが、(ポジティヴな感情かどうかはともかく)郷土愛と呼ばれるものなのだろうと考えている。

「ないんだな、それが」

さて、ここまで、私なりの理解から、土地の記号化の必要性と限界、また団地という記号としての性質が強い土地を題材にその魅力の発見について語ってきた。

先ほど論じた「魅力が見つかる場」である、「記号化が取り漏らす領域」は、モスクワからレニングラードへのフライトに関して論じたように、移動や個人の経験、過去の事実など、主に時間の一回性に強く関係していると私は考えている。一区画歩いた結果見た目にはほとんど変わらない光景があったとしても、時間をかけて一区画歩いたという事実は変わらず存在し、そこにまで立ち戻れば、二つの光景は必ず区別される。また、以前来たことがある地点に再び来たとき、光景も心象も大きく変わってしまったことに心を打たれることもあるだろう。

このような時間と記号の食い違いにこそ、先述した人類の領域拡大の最前線があり、自らの思考がそこに関与していると感じるとき、私は言葉にしがたい生の喜びを覚える。

ただし、経験は原理的に個人的なものである。そして、他者との共有には記号が必要である。その意味で、先に述べた魅力の発見そのものは、既存の記号では置き換えられないがゆえに、絶対に他者と共有しえない。だからこそ、郷土愛というものは、究極的には個人的なものだと思う。

その土地の魅力を聞かれたとき、本当に正直に答えるならば、「ないんだな、それが」と言うしかない。人は、郷土愛を育むとき、その土地とそこに流れる時間を通して、独りで宇宙と対峙している。

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