睡眠不足の末路

色々なことに飽きたような気になっている。情報中毒。カフェインや砂糖やタバコと同じ、ないと落ち着かない。心身にとって必要でないにも関わらず。要は過剰摂取。やめられない。それで仕方なく文章を書いてみる。眠いのもある。授乳で夜間三回起きる日々が三ヶ月続いていてどうしても日中の集中力に欠ける。子供にとって何が大切か、人類の未来はどうなるのかという大それたことを考えてそれらしい答えに辿り着いてみても、現実は睡眠不足の、家事と子育てで手一杯の専業主婦、ただそれだけ。別に蔑みたいわけではない。暇になると空虚な気持ちを思い出してしまう。いまいち役に立たない。何をしても。ここまで来ると自分がそれを心のどこかで望んでいるのではとも思う。役に立たなければ矢面に立たなくて済むし、重要な任務は回って来ないし、期待というプレッシャーも受けることがない。それと引き換えに無価値感が押し寄せる。分析して何の役に立つか分からないがこれが自己肯定感が低いことの弊害なのかもしれない。自分は役に立たないという強力なレッテルが生涯足を引っ張ってくる。これは過去に自分を呪った代償である。心当たりはかなりある。当時は心の弱さから自分を呪うしかやり方を思いつかなかったし、何より手っ取り早かった。訂正するのが難しければ新しくつくればいい。別のアイデンティティを生きてみればいいのだ。世界の変え方。認識を変えること。認識の変え方。体験すること、アートに触れること。チームラボの猪子さんが動画で仰っていた。私達は境界線が存在すると思い込んでいる。連続しているのに切り離されていると感じている。太古と現在。地球と宇宙。レンズ越しの世界をリアルと勘違いする。レンズは視点を固定する。止まって見なければならない、身体が死んでいる。さらには意思も消失させる。テレビや動画を見る時は意思が発動せず、全面的に受け入れてしまう。身体で認識していないのに知った気になるとはどういうことだろう。いわゆる行動が大切というのは、本当に分かるためには、見える世界が変わるには、自分のレンズで動く世界を捉え、全身に取り込み、認識を更新することが必要ということだろうか。アートの必要性とは認識革命。認識が変わると世界が変わるから。行動によってアップデートされる。行動のきっかけとして情報がある。
正直今日はあまり調子がよくない。朝からイライラしたり、自分の無力さに落胆したり、駄目な自分が見離されないか、嫌われないか、怯えたりしている。言葉が出てこない。睡眠不足が祟ってきたのだろうか。集中しかけた所で、寝かけた所で中断される。もちろん子育て中は当たり前のこと。無意識のうちに何かが積もって爆発したり、電源が落ちてしまったらどうしようという些末な不安。こういう日は調子がよいと思っている矢先に突然やって来る。油断していたつもりはないのだけど、バイオリズムだろうか。元々PMSの症状が酷いタイプだ。というより鬱になりやすい思考癖がある。大人しく過ごしていたい。めっきりマルチタスクが出来なくなってしまった。色々なことを先延ばしにしてしまう。自己嫌悪が募っていく。頑張っているのに足りない。自分を褒めるなんてする気になれない。
読み返すと明らかにマイナスに思考が振れている。ここ数日は武田双雲さんの動画を見て色々勉強させてもらった。文字にするとどこかで聞いたようなスピリチュアルな内容になりそうなのだが、腑に落ちることが沢山あった。これは動画以前の気付きなのだが、私は歌うことが好きなので、歌を通じて理解することがよくあるのだけれど、高い声を出すと声が裏返るのが辛くて、お腹から声を出すというのもどうもしっくり来なかったのが、声を創るという感覚を見つけると少し上手く行くようになった。口の中で空気を震わせる、小さい頃鳴らした草笛のように。試しにやってみたら授乳中の眠りかけの息子がビックリして飛び起きてしまった。SNSというか動画の効用があるとすれば、、そういえばSNSサーフィンとYouTubeサーフィンは同種のものだろうか。Instagramはどちらかというとワイドショーを見る、エンタメを消費するのに近い。YouTubeはチャンネルをきちんと選べばAudibleのような耳で聞く読書に近いような気がする。Instagramは手軽さからかどうしてもダラダラと見てしまう。要は広告発信側として使用しない限り、大切な時間を浪費したり健康を損ねる害となるのだろう。基本的には流し見のコンテンツなので学べるとはとても言えない。動画はコンテンツによっては学びのお試しができるというのが私の感覚だ。あくまでお試しなので身体を伴う体験やアウトプットという適度な運動を行わないと、やはり情報肥満になるだろう。ということでInstagramは甘い物、高カロリー食と一緒で後でダイエットに苦しむ可能性があるので節制する必要がありそうだ。随分長文になってしまったが、まだ書きたいことは終わっていない。先程言いかけたYouTubeやGoogle検索の効用は脳内情報のネットワークが緻密になること。一つの情報に対して次から次へと関連情報が出現するネットワークが脳内に形成される。これを上手く活用できれば、いわゆる直観が発達するだろう。話が逸れたが様々な私たちの活動はどういう方向に進むべきか。物事には両面の見方があって「椅子に座る」は「椅子に座らされる」とも言える。自分が選んでしていると思っていたことは何者かによってさせられているとも言えるのだ。人生は自由意志で選択しているとも言えるし、何らかの作用によって選ばされているとも言える。後者は運命、天命、今世のテーマ、ブループリント、必然、天に生かされている、御縁、他力、など色々な言い方があるかもしれない。ここからと向こうからがぶつかる地点、今は、歌は、本来迷う余地もなく一点しかない。そして一本道に繋がっている。私たちの脳には過去と未来、ここでないどこか、が幻として次々と現れるので迷うという現象が発生する。双雲さんが仰るには、今を最高に生きる。私なりに見つけたのはやはり歌なのだけれど、歌う時に浮かべる情景の視座をとんでもなく遠方にする。手塚治虫の火の鳥に出て来そうな世界観で、遥か宇宙の銀河系や星雲団、人類全体を我が子を見ているように感じる距離感で共鳴する。するとなぜだか分からないが感動する。エネルギーレベルが上昇するというのだろうか。忙しくしているとなかなかこの状態にはなれないけれど。幸せについて思いついた事。外側から来る幸せと内側から来る幸せ。そのバランスをその時の自分に聞いて取ること。外側の幸せはいわゆる欲しい物を手に入れる喜び、競争を楽しむ喜び、あるいは肌が触れることによって安心する喜び。内側の幸せは先程のイメージによって共鳴し感動を呼び起こす幸せ。自然や身体やアートを使うなど他にも色々な方法があるかもしれない。その時の調子に合わせてこれらの幸せの形を創造すること。もしかすると、世のため人のため誰かのためにと思い過ぎるのもよくないのかもしれない。それで苦しくなるのは恐らく見返りを欲しているからだろう。自分のことばかり考えたり行動してしまうことに罪悪感がある。これはどうしたらよいのだろう。承認欲求を隠している。まずはそのことを認めよう。壁を作ると、隠すと、影ができる、闇ができる。だからやめよう。無理だったら壁があることを知ろう。隠したい、恥ずかしい、弱くて劣っていると見られたくない、プライドが高い、という自分がいることを知ろう。自分が弱い、劣っていると思いたくない、だから人と交わりたくない。ある意味比較する必要はないのだから距離感の取り方は合っているのかもしれない。人と交わらなくてはいけないという思い込み。というか一人で生きているという思い込み。そんなの無理だから。情報社会では人間の距離も変化する。現実世界と仮想世界の境目が薄くなる。考え方によれば、内側から来る幸せを感じやすくなるのではないか。恐らく距離の取り方に戸惑っているから争いが起きるのではないか。情報社会の生き方は、高い視座を持って宇宙や人類全体や永久の時の流れを想像し、過去と未来、地球と宇宙、人と人、自分と他者、人と自然、生と死などのあらゆる境界線という錯覚を取り除き、今ここを尊重し、高いエネルギーを保つ力。
話がかなり大きくなってしまった。これも共通の物差しを持ち合える人間だからこそなせる技である。比較や競争に悩まされることは多いが、だからこそ人間であるとも言える。このことによって人類はより強いものを創造し発展してきたのだから。生き残ること、次世代に繋げること。生物の本能として避けられない部分である。真理というのは進化とは実は関係がないのではないか。生物の定義はその名の通り種を残し生き続けることである。生物(人類)ならば進化は善となる。逆に生物でなければ、進化は善でも悪でもない。同様に真理や幸福も人類にとっては、到達できないがゆえに、目指すべき絶対的な物差しとなり得るが、人類でない存在にとっては意味を持たない。この辺りが不明確だった気がする。自分の中に二つの見方があって、真理や幸福に向かって進化し続けようとする身体的な自分と、真理や幸福に到達しようとする人類を見ているメタ的な自分である。できればメタの自分で完結したいのだがそれができない歯痒さを常に抱えている。行動や体験をしなければどうやら生きていられないのである。開き直るしかないのだ。この世界では身体と共に生きるしか道はないのだ。そうでなければマトリックスのような訳のわからない状況になるしかないのだろう。


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