幸せを願うとき

人は幸せになりたいがために努力する。この欲求は死ぬまで続く、生きることそのものだ。目標達成することで得るか、現状のまま認識を変えること(感謝など)で得るか。そもそも幸福感というのはそれほど重要なものなのだろうか。確かに子供には幸せになって欲しいと心から願う。この幸せとは一体何をさすのか。やはり目標達成や感謝、恵まれた人間関係などから得る歓喜をより多く味わうことだろう。幸せを求めると時に喜びが、時に苦しみが訪れる。つい幸せ=喜びという単純な図式に惑わされてしまう。実際は喜びも苦しみも余すことなく幸せに繋がっている。幸せとは表面的な喜びではなく、どんな出来事が起こり、どんな感情が湧いても、学びを得て成長すること。嬉しい・楽しいことを求めることは一生やめられないけれど、悲しくても苦しくても苛立っても、どんな状況からも幸せへの道は通じている。幸せは感情や思考や行動の一部ではなく、全てのプロセスを指す。生きること全てと言ってもいい。おそらく来世へも続いている。人は皆生まれてきた時点で一人残らず幸せの道を歩いている。求めても求めなくても。幸せを得る=喜びを得る、と設定していると毎回苦しみを退けるにはどうするか、苦しみとは何か、幸せとは何かという問いかけに対する処理に追われてしまう。とはいえ、頭で整理した所で、どんな道も幸せに続いていて、魂は磨かれているんだとしても、心は置いてけぼりだ。一番の問題はそれなのだ。身体はどこへ行った?ここまで述べておいて何だがおそらく身体を動かせば問題は、少なからずモヤモヤは、霧消するだろう。頭と体と心。心がヘンな時は体が動いていないし、頭だけでは心は動かない。ただそれだけ。幸せが心の問題なら、体を動かさなければいけない。残念ながら頭が心を動かすとは言い難い。体験があって、頭と体が同時に働いてようやく、本当の意味で心が動く。本当の心って何だろう、魂が感じる喜び、本当の幸せ。偽物の幸せは快楽とでもいうのだろうか。だからこうやって書いているのも、YouTubeで為になる話を聞くのも、やはり快楽を得ているだけ、気休め、ただそれが必要な時もある。子供にどんな幸せを願っているのか。頭で考える喜び、画面で見る喜びよりも、体験から頭と体で感じる喜びを多く味わってほしい。そのためには?体を動かすことを大切にする。この時代だからこそ。忘れないでいたい。


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