一息吐いてから日本のことを考える

なぜだろう。本を読み始めたのがきっかけか、将来への不安がきっかけか。文章を書き始めている。自分のことなんて一生分からないのかもしれない。何気なく私が相手を見て尊敬するのは、自分のことをよく分かっていると思った時である。逆に最もらしいことを言っていても自分のことを制御出来ていなかったり、自分に対する理解が余りにも的外れだったりする人は苦手である。空恐ろしいような不気味な感じがして信用できない。こちらが設けている境界線に平気で入って来る人は上記に含まれる。

最近他者への信用度がどうも薄れているような気がする。単に人と接する機会が減ったからかもしれないが、今の幸せを感じる領域を得体の知れない人間に侵されることが許せないような。妊娠中であることが関係しているのだろうか。下手に対外的に活動して、事故や病気やストレスなど、身に危険が起こることを避けようとしているのかもしれない。怠けているような気もしてそれも悲しいのだが、ホルモンの影響も少しはあるかもしれない。産後の自分の感覚はまた変化するのだろうか。自分に優しくしてもいいのだろうか。

急に眠気が襲ってきた。気を強く持たなければ。人の命を預かるということ。大切な人をサポートするということ。私に出来ることは何もないような、周りの誰よりも力が及ばないような気がして正直恐ろしい。そんな自分だったら悔しくて悲しい。だったら現実にもっと努力すればよいのにのらりくらりと暮らしているのが現状である。せめて何をしたらよいだろう。もう申し訳ない気持ちで一杯になっている。本当は日本のことについて今日は書きたかったのだけれど。

伝統というのは10年もすれば出来上がるもので、昭和初期に作られたお国のためにという日本精神。江戸時代は主君、幕末は藩に対する忠義心と恥の心。室町時代に作られた礼儀作法や江戸の儒教に倣った孝行の精神。戦国時代以前は忠義心は特になく、ここぞという時の裏切りは茶飯事だった。禅の無の境地は日本人に馴染みやすかった。空っぽであるが故に全てを取り込めるという神道の精神との相性もあるのではないか。日本人は出過ぎた杭(奇人と呼ばれるような)は打たずに黙認するようなところがあり、八百万の神を信仰する古神道精神があるので、あらゆる宗教や思想をオマージュのように吸収、美化できる不思議さがあり、場合によっては政治や信条よりも美意識や風流を優先することも珍しくなかった。愚かな行いを繰り返す人間の性を俯瞰し、普遍的な真善美を大事にする、神なる視点が日本人には宿っているのかもしれない。不変の精神と変容する思想、価値観。日本的なものが何であるか。今後も思想や価値観は次々と変わって行くのだろう。失われるという感覚はある意味正しいが、形あるもの、文化や芸術さえもいつかは滅びる。それを壊れないように大切にすることは人間にとっては心癒されることである。しかしながら普遍の真善美や精神は私たちが心配などしなくても必ず残るだろう。それは常に神の手の中にあるのだから。

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