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新海誠監督最新作『天気の子』が持つ『エヴァQ』との円環構造

【ネタバレあり感想:あのころ見たかったラスト】

先日やっと新海誠監督の最新作『天気の子』を見ることができました。世間ではゼロ年代のエロゲっぽいですとか、セカイ系とか言われているらしいですね。確かにストーリーラインや設定の『君と僕』感、世界なんかより君と一緒にいる方が大事だというメッセージ性なんかを考えると、それはそのように呼ばれた作品と近しいものでした。さらに言えば、そんな作品群を我々が読んでいたときに『こうなってほしい』『こういう結末をむかえてほしい』というところを、今回新海監督はこの『天気の子』で実現してみせたと言えるでしょう。

世界を正常に戻すため、一度は彼岸に行き、生贄として消えた最愛の少女・ヒナ。主人公の帆高はそんな彼女を、世界と引き換えに取り戻す。ものすごくエネルギッシュで、力強いラストです。警察に追われながら、通りすがった人々に冷笑されながら、彼は好きな女の子のために走る。いつのまにか忘れてしまっていた大事なことが思い出されてくるような良いシーンでした。

私は個人的に、須賀という男のキャラクターが心に刺さってしまっていて、彼のような『息苦しい社会の一部になりつつある大人』、そして『そうなりたくなかったと悔やんでいる大人』には何故か強く感情移入してしまって、一緒に悔しい気持ちになってしまいます。彼の『大人になれよ』は半分は大人になり切れていない、まだ諦めきれていない自分に向けられた言葉で、帆高を諦めさせようとすればするほどその言葉は自分自身を傷つけていく。でも帆高は諦めない。須賀の腕に噛みつき、銃を向け、『ほっといてくれ!』と叫びます。なんという自分勝手な、しかし綺麗事のない純粋な感情。心を動かされた須賀は、先ほどの態度とはうってかわって、帆高を捕えようとする警察の邪魔をします。帆高はなりたくてもなれなかった須賀の理想像だった。それ故にあの台詞が出てくるわけですね。『お前らごときが』と。

帆高と陽菜さんがきちんと再開するラストといい、吹き渡るような清々しい映画でした。よくぞやってくれた、という感じです。まさに『あのころ見たかったラスト』の体現。新海監督はこの映画をして『賛否両論別れる映画だと思う』というようなことを仰っていたらしいですが、とんでもない。私には当然こうあるべきエンディングに見えました。晴れ渡る空模様のような読後感の映画です。

【『エヴァQ』との円環構造】

さて、ここからは少し余談と言うか、本来言わなくていいナンセンスな言論としての、私らしい意見を書かせて頂きます。

文脈も遠いし、『なぜここでヱヴァQの話が出るの?』と思う方も大勢いらっしゃると思います。仰る通り『天気の子』の感想とは方向性が多少ズレてしまいますし、読みたい方だけ読んで頂ければと思います汗。

エヴァンゲリオンの新劇場版は、最近『シンゴジラ』等で有名な庵野秀明監督の劇場版アニメーション作品ですね。1995年に放映されたテレビシリーズのリメイク作品で、テレビ版とは違うストーリーが繰り広げられていることと圧倒的な(新海監督とは違う方向性の)映像美などが話題になりました。2020年には四部作の最終作にあたる『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開されるようで、楽しみにしている方も多いでしょう。

では私が何故ここで『ヱヴァ』の話を持ち出すのかというと、それは『私が見たかった世界系のラスト』という点で、『ヱヴァ破』と『天気の子』が共通していたからです。『天気の子』の根幹にあるのは『世界なんかどうなったっていい! 君のいる世界がいいんだ!』という、自分勝手な、しかし美しいむき出しの感情だと思います。大人になってしまった私たちが無意識に隠してしまう、しかし心のどこかで燻らせている感情を、目の前に取り出して見せてくれる。こうありたいという姿を提示してくれる。それが『天気の子』の熱さ、力強さに繋がっていました。

それと非常に近い形のものが『ヱヴァ破』にもあります。使徒に取り込まれた綾波を取り戻すため、初号機に乗ったシンジ君がサードインパクトを起こす危険を承知で前に進むシーンですね。ミサトさんがその際言う台詞が素敵なんです。

『行きなさいシンジ君! 誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために!』

これはまさしく、私が『天気の子』の帆高にかけてあげたい台詞、言ってあげたい言葉でした。世界の命運なんかどうだっていいじゃないか。君と陽菜さんだけでいいじゃないか。そう思いながら私は『天気の子』を見ていました。多分ですが、『ヱヴァ破』があのままハッピーエンドで終わっていたら、それこそ『天気の子』のように読後感のよいラストになっていたのではないでしょうか? しかし、『ヱヴァ』はあのまま終わりませんでした。

『天気の子』では、帆高がヒナさんを救いだし、『世界の形を決定的に変えてしまった』後、東京が降り続く雨に沈みます。転居を余儀なくされた人もいますし、帆高はその影響をまざまざと見せられるわけです。ですが帆高に自分の理想を見た須賀を初め、多くの人は彼に対して肯定的な言葉を投げかけます。そして帆高はそれらを受けたうえで、しかし『これは元に戻ったわけではなく、やはり自分たちは世界の形を変えてしまった。でもそれでいいんだ、ヒナさんがいるのなら』という結論を出し、物語はエンディングを迎えるわけですね。清々しいハッピーエンド。覚悟と自由と美しさを混ぜ込んだ力強いラストです。

しかし『ヱヴァ破』の続編『ヱヴァQ』では、言うなれば『世界の形が変わりすぎ』ていました。大勢の人々が死にたえ、海は赤く染まり、友達と思っていたクラスメイトもおらず、理解者と感じていたミサトは手のひらを返す。そして自分が救いたかったはずの綾波すら、世界のどこにもいなかった。『ヱヴァQ』が観客につきつけるのは、『自分勝手に理想を追いかけたことの代償』です。これは、『天気の子』ではテーマと違うが故に描かれなかった問題でしたが、例えばヒナさんを取り戻したことによって、大勢の人間が死んでいたら? 東京が壊滅して、日本という国の存続にすら多大な被害をもたらしていたら? 帆高はそれでも、ヒナさんがいるからいいんだと言い切れるでしょうか? 帆高はそれで良くても、あの『みんなを幸せにすること』に喜びを見出していたヒナさんは、それでいいのだと納得できるでしょうか? もっと言えば、ヒナさんだけが戻ってこず、晴れの世界だけが失われていたなら……?

そんな世界をあえて描いたのが『ヱヴァQ』だと私は思っていて、しかしあえていいますが、私はそれでも帆高がとった行動に寄り添いたい。それでも、納得いくまで、無鉄砲に繰り返せばいい。諦めず理想を追い求めればいい。世界はもっと個人的でよくて、諦めたくないものがあるなら諦めなくていい。私はそう思っていて、だから『天気の子』のラストが好きで、だからエヴァの続きでも、きっと同じようなことを思いながら観ることでしょう。

私が『円環構造』と言ったのはその部分で、つまり『ヱヴァQ』は前後の作品を『天気の子』的文脈の作品に挟まれる形になるのではないかと考えているのです。もし2020年に公開される『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が私が見たい理想的なエンディングを提供してくれるなら、それはきっと『天気の子』のように清々しく、潔い、力強いラストになるでしょう。『天気の子』はセカイ系作品のラストにおける理想像の一端を示しました。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』も、そこに追随する新たな解答を示してくれるはず。2020年の公開、いまから楽しみです。


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