おちゃらけ食いしん坊おデブキャラを卒業します
私は中学高校とソフトボールをしていました。高校はスポーツ特待生として入学したのに、晩年ベンチでした。
私はいつも「ソフトボールなんかできないし好きじゃない、奨学金がでるからと安易に場違いなところにきてしまった」と後悔していました。でも勉強も全然できなかったため、このスポーツ推薦のスカウトがきたときは飛びついてOKしました。
「はい」というだけで受験勉強からも試験からも一気に解放されて、当時の学力で低偏差値な高校に行くより、名門私立高にスポーツ特待生として入学するほうが格好いいし、世間体も良さそうで親にも喜んでもらえるからです。
本当に自信のない子供でした。3人姉妹のまんなかとして誕生しましたが、姉がいわゆる優等生で、いつも成績トップで運動神経も抜群でスレンダーな体型でした。そして優秀な姉があるときから完全に不登校になりました。そんな自分が姉やまわりと住み分けするために生み出したキャラが「おちゃらけ食いしん坊おデブキャラ」だった気もします。家族のなかでも盛り上げ役、ソフト部のなかでも声かけ係に徹しました。そうすれば役に立てるし、それが私の「キャラ」だと長年思っていました。
でもそれは私が周りに求められていると思っている立ち回りだったように感じています。もちろん人を笑わせることも大好きですし、役に立てたら嬉しいですが、私の好きなことはそれだけじゃないと最近になってから気づきました。
まず、優等生な姉と違って「勉強ができない」という位置付けを長年キープしてきた私ですが、社会人になってからバイトとして入社した小さな会社で英語やITのことを勉強し、今は大手外資系IT企業で海外チームと共にグローバルに働かせてもらっています。このための勉強は特に苦でもなく好きでやってきたことなので、自分は新しいことを勉強したりなにかを人や本から学ぶということが実は好きかもしれないと思うようになりました。
次に、「おちゃらけ食いしん坊なおデブキャラ」を演じてきた私ですが、コーチングダイエットや瞑想をやっていて標準体重な現在、思うとあんなに多くの食事は必要ではなかったと思います。今まで周囲(特に作り手)を喜ばせるために「おいしい!おかわり!!」を続け、無理な量を食べてきました。
もちろん今も食べることは大好きですし、食いしん坊に変わりはないのですが、周囲がそれを求めるからやってきた部分も大きかったです。帰省するたびに「おもちの”おいしい!”を聞くと幸せになる」とか「おかえり!食人大先生!」と両親や祖父母や親戚から食べっぷりを大いに喜ばれていたので、喜ばれると嬉しい、それ(食いしん坊おでぶ)が自分なのだと思うようになっていました。でもよくお腹を壊したり、なぜかだるくなったり、イライラしたり落ち込んだり、健康診断でも「肥満」体型だったので、決して健康的なことではなかったと思います。
ソフトボールについてもそうです。試合に出れたとしても、対戦相手が「強い」チームだと聞くと「負ける」と思い実際に勝とうともせず、「弱い」チームだと聞くと勝とうとしました。スポーツの世界では一番何が起こるかわからないのに、です。そのような「可能性」とか「努力」を信じませんでした。明確に言葉にして考えてはいませんでしたが「もう生まれた時から人は役割が決まっている」と絶対的に思っていました。弱いやつと、強いやつ、賢い人と、バカな人、持っている者と、持たざる者。。。皆各々それを演じていると。
そんななか今週オリンピックが始まって、久しぶりに競技復活をしたソフトボールの試合を見て、こう感じました。
ソフトボールって、面白い・・・・・やってみたい。
もちろん、やってみたいなんていうのはおかしな話で、6年間ソフトボール漬けの生活を送っていたはずなのですが、心からそう思いました。
今やったらどうなるんだろう・・・?
私は30年かけてやっと、「もしかして自分を信じてやってみれば大抵のことは自分も”そこそこ”できるのではないか・・?」と思えるようになりました。
もちろん純粋のやる気純度100%で取り組んで、それで人並みにもやれないのなら、別にそれでいいのです。そこではじめて胸を張って「これは向いてなかった」と言えるし、それでまた一つ自分の個性を知れるのですから。
でも「自信のなさ」という、この毒性の思考がブロッカーとなり、「やろうとも思えない」はたまた「やれるなんて発想もない」状態だったのです。
あの子供時代を振り返ると、自己犠牲の精神の塊だったなあと。無理してたくさんごはんを食べたり、道化を演じたり、授業についていけないと思い込んだり・・・誰も求めてないかもしれないのに。もし求められているとしても、自分の体や、自分の気持ちは絶対に誰のものでもないのに。
これからは、「悪い人」にもなりたくないけど「良い人」にも「面白い人」にも「賢い人」にも「ばかな人」にも「綺麗な人」にも「ブサイクな人」にもなりたくないです。
周りのために自分の役割を変えて振る舞うのを卒業します。
自分を幸せにできるのは、このうえなく大切な自分しかいないのだから。