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秋の童話まつり!? 心にささる童話2選

朝晩冷え込むようになりました。
秋のほっこり童話まつり!と思いきや。
心の柔らかい場所にぐっさり、ひとり絶望のふちに宙吊りにされ、
さいごに魂の救済がある…そんなお話をとりあげます。

『白い鳥になった少女』 萩尾望都
  (アンデルセン原作『海つばめ』より/『アメリカン・パイ』収録)
『小さいやさしい右手』 安房直子(あわなおこ)
  
(『北風のわすれたハンカチ』収録)

それぞれこの本に収録されてます。

あらすじなどを書いているととんでもなく長くなってしまったので、
先に結論(概要)を書いちゃいます。(試行錯誤中。ネタバレあります。)

『白い鳥になった少女』 贖罪の物語。因果応報。加害者視点。
『小さいやさしい右手』 復讐と赦し。被害者側視点。

◎どちらの物語も転機となるのが第三者の言葉
◎その言葉にふれ、慈悲やなさけが欠如している自分に気づく。
◎二つの物語は加害者側と被害者側、真逆の視点だけれど、
どちらも慈悲・慈愛の物語である。
◎被害者側の復讐心をある種の「承認欲求」だとしたら。
アドラー心理学の『嫌われる勇気』のように、
「ほめる」でも「叱る(=復讐)」でもない、
「感謝する」ことこそが真の自由にいたる道。
(※あくまでも私の解釈です)


概要以上です。
なんのこっちゃーという方、ちょっくら読んでみっかなと思われた方、
以下長文ですがおつきあいくださるとうれしいです。


『白い鳥になった少女』

かなり前になりますが、昔の少女漫画の文庫化がさかんにすすめられていた時期がありました。今やレジェンドすぎる「花の24年組」の方々の漫画を、当時私は集めまくっておりまして、その時に出会ったのがこの短編です。
(秋田書店『アメリカン・パイ』収録)

ざっくりあらすじ前半
幼い頃から生き物をいじめて楽しむような意地悪な女の子・インゲ。
長じて顔だけは美人さんになるが、自分の外見にうぬぼれ、母親をみすぼらしいと嫌悪し、新しい靴を汚したくないがために水たまりにふかふかのパンを落とし、踏みつけた瞬間、地獄のような沼地に囚われてしまう。

天につば吐く行為

このお話は『人魚姫』や『みにくいアヒルの子』で知られるアンデルセン原作。『パンを踏んだ娘』としても知られています。

なにがささったかって。当時一人暮らしをピーヒャラ満喫していた私にとって、他人ごと(ひとごと)とは思えなかったのです。
母からの電話をうざがったり、送られてくる物を迷惑に感じたり、雨降ったらタクシー使ったり。モノは飽きたら買えばいい、雑巾は100均で買えばいい(買ったことないけど)。

インゲは人の好意を踏みにじるだけでなく、食べ物を粗末に扱うという、もうね、天につば吐く行為、畏れ多くも大罪を犯したわけです。(食べ物は天地と人の好意の集大成だと思ってます)

インゲがかわいそう

ざっくりあらすじ後半
しかし沼の底のインゲはちっとも反省しません。
人を殺したわけでもないし物をぬすんだわけでもないのに、と。
インゲの非道な行為は人々のあいだで語りつがれ、インゲを非難する声は沼の底のインゲにも届く。そんな時。

インゲがかわいそうなの

『白い鳥になった少女』より

罰とはいえ、沼の底に囚われたインゲのことをかわいそうに思って泣く
小さな女の子。
この一言で、インゲは自分の犯した罪に気づく。
灰色の鳥になって沼を飛び出し、仲間の鳥たちのためにパンくずを探します。

パンを!
パンを神さまに返さなければ
わたしが足でふみつけた分のパンを
パンを返さなければ…

『白い鳥になった少女』より

他のためのパンくずの総量が、自分がふみつけた分に達したとき、
インゲは解放され白い鳥(海つばめ)になって飛んでいきます。
まさに因果(いんが)応報…。って、因果とインゲ似てる!


『小さいやさしい右手』

『白い鳥になった少女』を読んだときに思い出したのがこの童話です。
小学生のときに読んでぐっさりじんわり心をつかまれたっけ。
何てお話だったかと探したところ『北風のわすれたハンカチ』偕成社に収録。
挿絵も記憶にあるものでした。

ざっくりあらすじ
木の中に住んでる「まもの」の男の子が主人公。
継母に意地悪されてる女の子がいる。
女の子は錆びた鎌(カマ)を持たされ草刈りに行かされます。
まものの男の子は木の中から腕を伸ばし、内緒でピカピカの鎌を持たせてあげる(まものの掟で男の子は姿を見せることができない)。
いぶかしんだ継母が男の子の存在を知り、女の子のふりをして近づく。
ピカピカの鎌をひったくると男の子の腕にサッと振り下ろしてしまう。

小学生のワタシ… ガクブル
((((;゚Д゚)))))))
タイトルはまものの男の子の切り落とされた右手のことだったのです!
継母がお砂糖をなめて可愛い声をつくったのも、
こども心にリアリティを感じました(童話世界のお約束的な)。

続けます。
片手になってしまったまものの男の子は、女の子に裏切られたと思い、
初めて悲しみを知る。やがて悲しみは復讐心へ。
男の子は「しかえし」のために魔法の研鑚に励む。
20年がたち魔法が完成して女の子を探しに人間の世界にやってくる。
しかしあの子はどこにもいない。

ワタシ:そりゃそうよー おばさんになっとるがなー

ひとかけらのすきとおったもの

続けます(2回目)
まものの男の子がさまよってるとパン屋から聞き覚えのある歌が聞こえてくる。
あの女の子が歌っていたのと同じメロディー。
女の子はパン屋のおかみさんになっていた。
男の子とおかみさん(元・女の子)の誤解がとけ、おかみさんは男の子の腕を見て涙を流す。しかし男の子の憎しみ悲しみはおさまらない。

おかみさんは誰のしわざかわからないとして男の子にこう言う。

でも、もうその人のこと、ゆるしてあげられない?
かたきうちの反対よ。
かたきうちをしないどころか、その人によくしてあげることよ。

『小さいやさしい右手』

男の子はおかみさんの言うことが理解できない。
それは自分がまものだからなのか?と考える。

いまはじめて、まものは、自分がまものであることを、
つくづくかなしいと思いました。
おかみさんの持っている、ひとかけらのすきとおったものを、
自分もほしいと思いました。

男の子は涙を知り、なくした小さな右手とひきかえに、おかみさんの「ひとかけらのすきとおったもの」=人のなさけや慈悲のようなものを知る。
最後は男の子自身も光のようにすきとおり、森の奥に姿を消します。

かたきうちの反対とは

昔読んだときは、おかみさんの「かたきうちをしない」って言葉や、
「継母がやったんだよそれ!」と言わないことが理解できませんでした。
でも大人になると空白の20年間が想像できてしまう。
継母は別の形でむくいを受けたのだろうか。死の淵で懺悔でもしたのだろうか。

ちょっと飛躍するけど復讐をある種の「承認欲求」だとしたら。
アドラー心理学の『嫌われる勇気』のように、「ほめる」でも「叱る(=復讐)」でもない、「感謝する」ことこそが真の幸福にいたる道だよとおかみさんは言いたかったのではないでしょうか。
(※もちろん実際の犯罪は法律で裁かれなけばなりません。)

何を悲しいと思うか 両作品に共通するもの

インゲのお話でも、まものの男の子のお話でも、起承転結の「転」で
第三者の言葉が転機となっています。
インゲのことを「かわいそう」と泣く女の子、
「かたきうちの反対」と諭す(さとす)おかみさん。

それらの言葉にふれ何を思うのか。
慈悲やなさけの心が欠如しているおのれに気づき、
おのれの存在が悲しくなるのではないでしょうか。
加害者側の贖罪、被害者側の赦し、立場は真逆だけど、
どちらも慈悲・慈愛の物語だと思うのです。

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