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アーティスト活動に終止符を打った日

今回は、アーティスト時代の貧乏から学んだことと、金融サービスの立ち上げ時を振り返る。


世界一周から帰国してすぐに始めたのが、絵を描くことだった。
世界中のアートや建築に触れるうちに感化され、自分も「後世に作品を残したい」と、アクリル絵の具とオイルパステルで、現代アーティストとしての一歩を踏み出した。

もちろん絵を描くだけではまったく収入がない。ゆえに、生活はとても貧しかった。

生活のなかで特に大変だったのは食事だ。
とにかくお金がないので、安い食材を使ってほとんど自炊し、1日3回カレーを食べたり、パスタに醤油をかけて食べることもあった。
それでもやりたいことをやれていたので、まったく苦ではなかった。

このころの一番のごちそうといえば、ピーマンとひき肉の炒めもの。
ニンニクと生姜で炒めて、ソースと醤油で味付けをつけたシンプルな料理だが、初心を忘れないように、いまでもたまに作っては当時を思い出すことがある。

収入が少ない経験をしたからこそ、モノも大切にするようになった。これは20歳のときに買った椅子で、現在はオフィスの会議室で使っている。

そうして最小限のコストで、最大限の満腹を得る日々を送っていた。

ときどき誰かに食事をごちそうになると、たとえ丼ぶり一杯でも、当時のぼくにとってはものすごい豪華で、喜びが大きかった。

こんなふうに、貧乏した経験から、喜びと悲しみの両極端がぐんと広がった。
小さなことでも一つひとつの喜びがとても大きかったし、逆に悲しみも大きかった。

お金がないと、選択肢が少なくなり、「できないこと」だらけだ。
でもお金がないからといって「創作活動ができない」という状況にはしたくなかった。
だから、創意工夫して乗り越えていた。

たとえ金銭的に満たされていなくても、日々の活動は誰にも文句を言われないし、まるで自由に宇宙を漂っているようだった。

食べていくために、デザインの仕事をはじめた

当時の年収は40〜50万円ほどだったと思う。
その収入源は、絵ではなくデザイン。

世界一周から帰ってきたとき、ちょうど知人が独立して会社を立ち上げることになったので、ロゴや名刺、ホームページなどを制作させてもらった。
それまでホームページは作ったことはなかったが、試行錯誤しながら作ってみた。

その人にはお世話になったこともあり、報酬の額よりもうまくいってほしいという思いが優先した。その会社が軌道に乗ると彼はしっかりとした報酬を払ってくれた。会社が伸びていく際に、デザインを通してその土台づくりを手伝えたのはよかったな、と思う。

その後もその人づてにデザインの依頼をいただけるようになっていった。

一方で、アーティストとしての芽はまったく伸びなかった。
登竜門的な展覧会に作品を出品しても、箸にも棒にもかからない。

このまま創作活動を続けていていいのだろうか…。
そんな思いがよぎるなか、28歳のとき、ぼくのデザインがクリエイティブ賞に選出された。

それは杉山恒太郎さんという日本を代表するクリエイティブディレクターが審査員を務める国際的なクリエイティブ賞で、ドイツで授賞式が開かれた。
そしてドイツから帰ると、みんなのぼくを見る目が変わり、デザインの依頼がたくさん来るようになった。

ぼく自身「デザインのほうが向いているのかもしれない」と正当な理由をつけて、楽なほうへ流れてしまった。

アーティストを辞め、起業へ

そして30歳のとき、6年続けたアーティスト活動に終止符を打った。

いまでも、アーティストやクリエイターには尊敬しかない。
孤独や不安を抱えながらも創作活動を続けていくことは、並大抵のことではないと痛感したからだ。

30歳で創作活動を辞めた自分に、もしあのときに戻ってアドバイスができるとしたら、こう言うだろう。

とにかく、続けてほしい。
才能がないから辞めるって?
描きたいから描くんだろ?
お金がもらえるから描くわけじゃないだろ?
人生は短い。
死ぬ瞬間に、後悔してほしくない。

「時計を作る」ような仕事をしたい

デザイナーの仕事だけにしぼり、収入も安定してきたが、一人で仕事をしていたので誰とも話さない日も多く、ぼくは孤独だった。
一人だと成長も感じにくく、「このままでいいのだろうか」と漠然とした不安も感じていた。

そんなあるとき、『ビジョナリー・カンパニー』(ジム・コリンズ、ジェリー・ポラス著 /山岡洋一訳/日経BP刊)という本を読んで衝撃を受けた。
自分がモヤモヤと考えていたことが言語化されている!と。

特に共感したのが、時計の話。
「時を告げるのではなく、時計を作る」という話があり、みんなに「いま何時」と時刻を伝えるようにアイデアやビジョンを示すだけではなく、時計そのものを作ろう、つまり誰もが使えるものを後世に残そう、という話だ。

そうだ、世界一周をしていたときに彫刻や建築を見て「自分が死んだあとも残るようなものを作りたい」と思っていたんだっけ…。
これからは「時計を作る」ような仕事をしたい、と思った。


起業してから数年が経ち、金融機関から表彰された時の写真

転機となったのは、いろいろなクリエイターが集まるパーティに参加したときのこと。
マンションの一室で開かれていたのだが、お酒がなくなってしまい、隣の部屋でやっていた別のパーティにみんなで乱入することになった。
隣室の方たちは快く受け入れてくれて、話してみると金融系の人たちの集まりで、ぼくはそのうちの一人と打ち解けた。

彼は外資系証券会社でトップセールスを経験したあと、アメリカの大学院でMBAを学び、帰国してすぐだった。

金融先進国のアメリカでは、「法律の専門家として弁護士がいるように、弁護士並みに知的レベルの高い人が顧客側のアドバイザーとして資産運用のアドバイスをしてくれる。しかもなりたい職業トップ10に入っているという。まだ日本にはそういう専門家がいないが、世代を超えて信頼関係を築ける資産運用を任せられる専門家を日本にも根付かせたいんだ!」と言われ、ないなら作ろう!と意気投合し、一緒に創業することになった。

考えてみれば、自分で勉強して資産運用するには限界がある。信頼できるプロに任せたほうが楽だし安心だ。それに経済的に豊かになれば、日本人が芸術文化に触れる機会も増えるかもしれない。

そんな思いから、2006年に共同で会社を設立し、日本初の金融サービスを立ち上げた。
ぼくはデザインやブランディングを担当し、金融についても学んでいった。

現在、この会社は日本においてIFA(※)のリーディングカンパニーとなっているが、ぼくは5年間一緒にやることができた。(はじめて起業したこの会社は、2024年3月に上場することになる)
本当の意味でデザインの力をつけられたと感じた何よりも濃い5年間だったが、これからはもっといろんな人のためにこの力を役立てたい、と思うようになった。

また、このころ四角大輔から連絡をもらったことも大きかった。
四角はのちにオシロの共同創業者になるのだが、会ったこともないのに突然連絡が来たのだ。

そして四角が暮らすニュージーランドにも惹かれ、日本と二拠点生活を始めることになるのだが…次回はそのあたりについて書こうと思う。

(※)IFA:Independent Financial Advisorの略で、独立した金融アドバイザー。


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