第5回「語義に注意する」
クリティカルリーダーのかずえもんです。前回のクリティカル・リーディングは文全体の構造をみる読み方をしましたが、今回はその逆にぐっと解像度を上げて「言葉の意味する範囲」に注目した読み方をしてみます。題材にするのは、ネット利用者保護に関する東京新聞社説です。
似たような言葉に注目してみよう
似たような言葉でも、微妙に意味する範囲が異なる言葉も存在します。今回の記事では、「利用者保護」「プライバシー保護」「個人情報保護」。どれも大事な言葉ですが、それぞれの意味するところは違います。
社説では、いまの国会(~2022年6月15日)で審議される「電気通信事業法の改正」について述べています。この改正の目玉は、インターネット利用者の保護について。この改正が経済界の意向で「利用者保護の規定は骨抜きにされた」と厳しく指摘しています。
特に利用者保護、という言葉の使い方に注意を払いながら読んでみてください。
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言葉に注意して読めましたか?
「利用者保護」とは何から何を保護するのか?
まずは、タイトル行から。
「利用者保護」つまり、インターネット利用者「保護」を最優先するべきだというのがこの社説の主張ですが、保護とは、どんな脅威から我々の何を護ることなのでしょうか。これが、なかなかはっきりと見えてこないのがこの文章の特徴のようです。読み進めます。
煽る言葉に注意
ここでは「骨抜きにされた」といった強い言葉が出てきます。このような煽り気味の言葉が出てきたときは、強く反対するポジションをとっているのだな、というように客観視し、感情に流されずに注意深く読み進めるようにしましょう。ここに続く文章も共感を呼ぶような書き方になっています。
「自分のデータが手の届かないところで使われる」「不安は当然」という文からは、読み手はとても不安な気持ちにさせられます。おそらく、あまり反対する人はいないでしょう。強い言葉ですね。強い言葉には要注意です。
言葉の定義に着目する
ここでいう「自分のデータ」とは何のことでしょうか。
先に答えを提示してしまうと、それは「個人情報を含まない閲覧履歴などのデータ」であることが分かります。
先ほどの文章にその部分を挿入してみます。
『無作為に広告を出すよりも効果が高いとされるが、個人情報を含まない閲覧履歴などのデータが手の届かないところで使われる利用者の不安は当然だ。』
ずいぶん印象が変わりませんか?これであれば、利用者の不安は当然だ、と言い切るには少し論拠が足りない感じがします。
これは、「自分のデータ」とは何なのかに着目したから出てくる考察です。論理的に紐解くと次の二つのパラグラフから見つけることができます。
ここまでで、この社説でいう「自分のデータ」は「利用者のサイト閲覧履歴データなどで、個人情報で規定されている以外のデータ」について述べていることがわかりました。
このように、社説に記載されていることは論理的におかしくはありません。
しかし、「どんな脅威から」護る必要があるのか、については記載がありません。強いて言えば、「自分のデータが知らぬ間に利用される不安」から護られるべき、というところでしょうか。
個人情報保護とプライバシー保護
社説の中には、利用者保護のほかに「個人情報」保護と「プライバシー」保護がが登場します。少しそれぞれの違いを調べてみましょう。
個人情報保護:特定個人を識別可能にする情報を護ること。
プライバシー保護:個人を特定できるかどうかに関わらず、私生活上の事実情報や非公知情報、一般人なら公開を望まない情報を護ること。
混同しやすい用語ですが、範囲に違いがあり、プライバシーについては、領域に相当の幅があることが分かりますね。これを認識した状態で最初から読み直すと、ずいぶんすっきりと読むことができ、社説を受け入れることも、また、場合によっては反論を構築することもできるのではないでしょうか。
プライバシーの権利(人権)の議論
日本のプライバシーに関する考え方はまだ歴史が長くありません。
「私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」とプライバシー権を始めて定義づけたのは、1964年のことです。これは憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」を根拠とした人権としての考え方です。
そのきっかけとなったのは、三島由紀夫の小説『宴のあと』にまつわる裁判でした。この小説はある政治家個人の私生活にもとづくものであった、とすることから、その政治家が小説の単行本化に反対し、結果として裁判にもつれ込みました。のちに「宴のあと事件」とよばれるこの問題で、東京地裁が出したのが、プライバシーの権利についての日本で初めての判断でした。
東京地裁は、憲法13条の個人の尊厳の思想に言及し、(1) 私生活上の事実または私生活上の事実らしく受取られるおそれがあり、(2) 一般人の感受性を基準にして公開を欲しないであろうと認められ、(3) 一般の人々にいまだ知られていない、という事情が認められる場合には、その情報を公開することを不法行為とする、という実定法上の権利としてプライバシーを認めました。
司法が判断したプライバシーの権利は、その一方、メディアの「表現の自由」の権利とのせめぎあいになりましたが、さらに時代が進むと、インターネットの普及に伴って新たな局面を迎えます。
マーケティングや調査に使われるデータは必ずしも「私生活がみだりに公開され」るものではありませんので、宴のあと事件の地裁判断では個人の尊厳を守れないのではないかといった疑問が出てきました。
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このコラムはあくまで「クリティカルリーディング」のためのものなので、解説はこの程度とさせていただきますが、深く読んでいくうちにこの社説の議論がとても深遠な「人権」に行きつくことがわかります。
利用者は、「どんな脅威から護られるべき」なのか。
これは、プライバシー権という人権を軸に考えるならば、何人たりとも侵されない権利として認識できそうです。もっとも、社説では「利用者保護」と書いており、プライバシー保護とはされていませんが。
著者と直接話ができるなら、そのあたりを聴いてみると議論が深くなりそうですね。
今回は、言葉が意味するところの定義を考えてみることで、イメージに流されない読み方を体験してみました。
では、また次回!
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