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暴力ってなんだ?

日々思っていること、今日も書いてみます。毎日書くためには短く書けるテーマを選ぶことも必要だなと思いますが、書いていると長くなるのが悩みです。自分のためにも(暇じゃないんだから)、手短に、を心掛けて。

今日のテーマは「暴力」にします。

僕は暴力とは無縁の生活を送ってきました。小学校の頃から、喧嘩などほとんどしたこともないし、手を出されてもやり返すことなく泣いてしまうタイプでした。周りに暴力を振るう人もいませんでした。暴力を振るう人の気持ちなど、考えたこともなかった。

高校生の時、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本を読んでいると、「ファイト・クラブ」という映画が紹介されていました。日々忙しく働き、物質的には豊かな生活を送っているエリートサラリーマンが、なんだか気持ち的に満たされず、悶々としているところを、ブラッド・ピッドに地下格闘技場に誘われ、暴力に目覚め、自己を解放していく。その紹介に惹かれ、すぐにDVDを借りて観てみました。

当時僕は不登校から立ち直りかけの時期。また学校生活を頑張りたい気持ちはあるのですが、行動ができず、日々を倦んでいました。暇と退屈のなかにいて、なにかブレイクスルーを探していたのでしょう。

映画自体おもしろかったのですが、僕のなかで何より印象的だったのは、暴力に目覚める主人公の姿を見て、「人間も動物」だということでした。本を読んだ後だからこそより理解できたのですが、人間を理性でコントロールのは限界があるんだということ、現代社会では一次的な感情(ムシャクシャする、腹立つ…)を解放してあげることはなかなか難しいけど、それはときに必要なことなんだ、という理解を得たのです。

その後も映画などで暴力シーンを観ていくうちに(凶悪のピエール瀧さんとか怖かったなあ)、暴力とは、自分の感情に当てはまる言葉が存在しないとき、つまり言葉が追いつかないほどの強い感情(衝動)が湧いたときに起こる身体表現の一つなのだと思うようになりました。

そういえば、中学のとき、よく僕をお笑いのつもりでいじってくる友達がいて(仲良かったですよ)、その子が何気なく言った一言に対して少し腹が立って、「いい加減にしろよ〜」と言いながら首を軽く絞めたとき、絞めながら日頃の鬱憤が溢れてきて、気づけば思いっきり絞めていて、オチかける寸前まで行ってしまったことがありました。自分より小柄な子を捕まえて、大きな手のひらで首を絞める。暴力を振るい慣れていないからこそ起きた惨事です。申し訳ない。あのときは、珍しくちゃんとムカついていましたね〜。

なんか嫌なことを思い出してしまった。

僕は小さい頃から引っ込み思案で、自分から行動を起こすことがとても苦手でした。友達に誘われなければ一人で帰って本を読む、それが当たり前でした。代わりに人から言われたことは素直にやってきました。「嫌だ!」「やめろや!」なんて台詞は言ったこともないし、そんな僕を周りは「えらいね」「賢いね」と褒めてくれました。そんなんだから、心に一次的な感情(特に怒り)が浮かぶこと自体が少なくなっていったのだなと今振り返って思います。

しかし人生がうまくいかなくなると、心に余裕はなくなり、思考は短絡的になります。そのとき心を支配する一次的な感情(もうやだ、疲れた、もうどうでもいい…)をどう制御するのか、ということは、人間にとって非常に重要なテーマなのだと思います。簡単に言えば、自分なりのストレス発散法をちゃんと持っておく、ということが。

暴力を振るってストレスを発散するという発想は、僕にはありません。ボクシングジムにでも通ってみればいいのかもしれませんが、そんな気も起こらないから仕方ない。ただ、自分にはないものだけど、そういう人がいるから、暴力が存在するのだということは理解できるようになりました。もっと言えば、格闘技として、暴力はスポーツに昇華されています。格闘技ファンたちは、選手と自分を同化して楽しんでいるのでしょう。千原ジュニアさんが、仕事に向かうタクシーのなかで、ロシア人同士の喧嘩のYouTubeを観ているという話が僕は大好きです。

そして暴力は、ときにおもしろいです。僕は若林さんが春日さんや山里さんを急にビンタするくだりが大好きです。理不尽な暴力が降りかかることって、引きで見るとおもしろい。「ボケ」って理不尽であればあるほど強いんじゃないかなと思うこともあります。

暴力について書いてきましたが、結局思うことは、暴力以外の一次的な感情を取り戻す作業が僕には必要なのだということです。ストレスの解消法を探す旅も続いています。見つかったら、忘れないようにここに書いていこうと思います。



ほら、結局長くなった。

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