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「ザ・クリエイター-創造者-」で進化するAIの概念と映画界

⚠︎「ザ・クリエイター-創造者-」のネタバレを含みます。未視聴の方はお気をつけください。


Disney +で配信された本作は、CG映画に心を動かされなくなった人やクラシックSFの世界観に熱が入りっぱなしの人間に深く深く刺さるだろう。

つまり両方の状態にある私を貫通して刺さったのである。

さて。今回の記事も前回同様、ただの映画感想乱文記事だと思っていただいて構わない。ご大層な解説などではないからだ。
私がここに記事をわざわざ書きにくる映画とは、インスタにて身内であげている感想ストーリーや某映画感想アプリに観賞後の気持ちを書き綴っても足りない!と強く感じたものだけである。
感想だけではなく私自身の考えも多く含まれそうだ、つまり感想という軽いものではなくもはや論文を提出したいのだ!!というくらいにまで昂った時だけである。そうは言ってももちろん立派な論文などではないし、今までにそんなものを書いた覚えもないのでやはりこの記事はやや熱量がこもり過ぎた感想文とでも思っていただきたい。
(私がなんだかこういう自虐的な少しひねくれた言い方でこの記事を書いてしまっている理由は今ニールゲイマンの本を読んでいるからに違いない。どこか海外文学の訳文の様ではないか?)

やっと本題へいこう。

人間とAIが当たり前に共存する世界

この世界観を作り上げたのは、やはり私の中ではジョージ・ルーカスただひとりに他ならない。
みんな大好きSTAR WARSである。
あれほどまでにロボットや宇宙人といったものが人間の中に溶け込んで見える作品はあるだろうか?
いや、もはやあの壮大な世界線では人間でさえも「ヒューマノイド」という一種の宇宙人に他ならない。人間の中に溶け込むロボットや宇宙人というより、現実の地球のようにさまざまな国の人たちが混ざり合っている状態なのだから。

そしてこのことを踏まえると、本作の凄さがさらに際立っていく。
自立したロボットだけでなく異星人まで人間と合わさり広大な宇宙空間を作り上げているSTARWARSとは違い、本作はあくまでAIと人間の関係性に焦点をあてているのだ。

にもかかわらず。
ここまで人間世界にAIが溶け込んでいる描写を私は初めて見たのだ。

言わずもがな、人間とAIを題材にした作品は多くある。(私の一番のお気に入りはスピルバーグ監督の「A.I.」だ。)
それらの多くから、私たちは人間の愚かさあるいはAIの恐ろしさを知る。今作でも嫌というほどそのような描写はあり、私はその度に人類など絶滅してしまえと強く思う。きっとそう思うのは私だけではないだろう。

本作では、一口にAIといっても見た目だけでは2パターン存在する。
完全に全身がアンドロイドの者と、顔は人間で首元と中身が機械になっている者だ。劇中では”シミュラント”と呼ばれている。

これらのシミュラントたちが人間の社会に完全に溶け込んでしまっているのである。
ここで、おや?と思った方もいるだろうか。
AIやその類が人間社会に溶け込んでいるのを見るのは別に本作が初めてではないぞ、と。
そう、「ブレードランナー」があるではないかと。

確かに、かの世界に存在する”レプリカント”なる者たちと本作に登場する”シミュラント”は作られた動機や境遇も同じように感じる。
だが決定的に違う部分を忘れてはいけない、いや見逃してはいけないというべきか。

それこそが前述した、AIの見た目である。
百歩譲ったとして、本作で渡辺謙が演じているようなシミュラントが溶け込んでいるのは理解できるだろう。
だが劇中で登場したAI警察など見た目が完全にアンドロイドのそれらが、どこかの片田舎の村で人間の赤ちゃんを抱き、くすんだ色の服をまとって、平然と生活しているのだ。
声に電子のそれが混ざっていようとも、子供を守るため必死に子の名を叫ぶシミュラント。人間の孤児を引き取り育てるシミュラントの集団。未来のため自分が爆撃されようとも犠牲になることを選ぶシミュラント。
私は鳥肌が立った。
劇中では「まるで人間みたいだ」と泣き叫び攻撃を止めてしまう女性がいた。
彼らの見た目ではなく、彼らが必死に思いのまま叫ぶ声によってである。

今思えば。
確かに私はSTARWARSシリーズの「ローグ・ワン」「ハン・ソロ」「マンダロリアン」を鑑賞した時も同じ疑問を抱いたのだ。
ドロイドが”自ら”犠牲になることを選ぶ瞬間、なぜ同じ人間に対する思い以上に心が揺さぶられるのだろうかと。
その時、確かに彼らは生きていたのだと知ったからだ。
私はそう考える。人間性、などというとまた前回の記事の総集編になってしまいそうではあるが彼らはその人間性を持ち自らの意思で善いことをしたのだ。
突然自我が芽生え、世界征服を目論み出すAIよりも遥かに生き生きとしているではないか。

つまり本作では、服を着て子育てを行うというようなビジュアル的側面においてもAIは人間に溶け込んでいたが、それのみならず彼らの持つ感情や性格などの内面までもがあまりにも人間だった、人間に溶け込んでいたのである。
それをリアルに、緻密に、この作品は描いているのだ。

その為、私は初めてAIの”魂”について考えてしまったのである。

AIの魂の所在

私は、こんなことを考えたのは初めてである。

「とある魔術の禁書目録」というライトノベルがある。科学と魔術が交差し展開される鎌池和馬氏の大人気作品である。(私の一部といってもいい作品である)
そんな作品のスピンオフ「とある科学の超電磁砲」では、”ひとりの人間をバラバラにし半分に分け、足りない部分を機械で補いサイボーグにした場合その人間の魂はどこにいくのか?”という大変難解で興味がそそられるテーマが投げかけられる。
(この作品はいろんな人に楽しんでもらうべきもののため結果の明言は避ける。これで気になった方はぜひ”とあるシリーズ”に片足を突っ込んでいただきたい)

本作を視聴した時、私も上記と同様の疑問を抱いたのである。
彼らに魂はあるのか?と。それが浮かんだのは少女アルフィーとジョシュアが天国について話していたシーンからである。

天国は善い人間がいくところ。
善い人間ではないジョシュアはいけない。
そもそも人間ですらないアルフィーもそこにはいけない、と。

だがその後も頻繁に二人の間では”天国”というワードが出てくる。
そして最後にいくにつれ、二人にとって”天国”とは希望のような意味合いとなってくる。別れることになってしまっても”天国”で会える、と。
あの激しい戦時下での、希望の待ち合わせ場所になっていったのだ。あながち間違ってはいない。

そして対比となるように、AIに対しては”オフ”という表現が出てくる。
これは個人的にとても好みで、AI自身に対してもAIの味方となっている人間サイド(私たち視聴者含め)に対しても心が少し軽くなる救いの表現に思えたからだ。
途中アルフィーが人間を安らかに逝かせてあげた時、同じ表現を使っていたがとても面白かった。苦しまずに逝くこと=オフは人間にとっても救いとなるからだ。
(なお人間に対して”オフ”という表現が使われ、救いに感じるのはこのアルフィーのシーンのみ)

と、なぜそもそも”オフ”が救いに聞こえたのかというと電源には”オン”と”オフ”があり大抵の場合”オフ”にしても再び”オン”にすることができるからだ。
単純で申し訳ないが、それ以上でもそれ以下でもない。
ただAIが「破壊された」「潰した」などという表現をされるよりかは、死ぬとも違う”オフ”という表現が適切で柔らかいものに私には聞こえたのだ。
序盤に主人公が、一切上記のような意図なしで使用したのは分かっているがそれを踏まえて、その後主人公に訪れる心境と立ち位置の変化も含めそう感じたのである。

本作からは明らかに宗教的な意味合いを節々に感じるが、私はそれについてまだ語れるような身ではない為一旦スルーさせていただく。

そうなると、やはりAIの魂の所在というのは結論でいうとまだはっきりしないのだ。まだ、ともいうし人による、ともいうが。
この議題についてはやはりAI映画を見漁った者たちにより熱く議論できるものだと思うし、SF界や哲学的に考えても非常に魅力的で興味深いものだと私は思う。
この記事で語るのはもったいないので、これについてはまた新たなAI映画を鑑賞し意見がきっちり自分の中で固まった時などにとっておこう。

ともかく私は映画のおかげでAIというものが大好きになってしまった為、今後未来で万が一AIの宗教の様なものができようものなら意気揚々と入ってしまいそうな勢いである。
(とはいうが今現実にあるAI生成の絵などは大嫌いである。趣味だとしても絵を描いている身だからかは分からない。多分AI生成自体というよりそれを使っている人間が嫌いなのだ。やはり人間は滅んでしまえ!)

CGがあっても心に残る映画

今私たちはCGが当たり前の世界に生きている。
あまりにも凄いので映像を見ても本当に現実のものなのか疑ってしまうほどである。世界中の人間を「これは本当にあった出来事だ」と言って容易く騙せてしまうほど今のCGは凄まじい進化を遂げているのだ。

こんなに凄いCGというものがありながらなぜ観賞後も心に残らないのか?私が自分自身の心に尋ねたいくらいである。
確かにCGを全開にして製作された映画は凄い。迫力があって夢があって想像力が膨らむ。
でも今の私は、観賞後にもその興奮の余韻は続いていないのである。
観ている最中のみの興奮。
観終わるとすぐに過ぎ去ってしまうような。

なんという贅沢だろう。
だがこれも致し方ないとどうか思って欲しい。
映画史にある演出の革命の時とは大きく見ると、
丹念に作り込まれた模型→VFX→CG という感じである。
(私調べである上にかなり大雑把に分けている)

そして今は大CG時代。
悪く言えばCG飽和時代といってもいいだろう。
勝負の土台がCGではなく俳優の演技力や脚本がどれだけ作り込まれているか、音楽やカメラワークなどなど、ある意味どんどん映画製作の難易度が上がってきているのである。
ここでいう難易度とは物理的なものではなく、観客に満足してもらえる映画を製作するという点での難易度である。
一映画好きにすぎない私が言うのもおかしいが、製作に携わっている方々がこの記事を見ないことを祈ろう。

もちろんこの意見はとても人によるだろうし、私にも例外はある。ありまくる。
その例外について話すと完全に脱線しそうなのでやめておく。
が、本作はその例外とも違っていた。

CGを駆使する時代が終わり、さらに先へと進む時がきたというべきか。

今やCGが使われているのは当たり前。それを前提にどう観客の心に響かせるか。本作は、CGの使い方が洗練されていたとでもいえばいいのか。
CGがなければできない話でありながら、CGの効果に頼りきりになっていない。どころか、そんなものはどうでもいいとばかりに訴えかけてくる登場人物の情景描写。考えさせられる。圧倒される。
SFファンタジーの様でありながら、話は的確に現代の社会問題を捉えている。

そして魅力的な小道具や衣装やフォントの数々である。
どこか昔のクラシックなSF映画を思わせる様な装置やボタンのデザイン。戦艦や室内の造形。衣装の色合い。
日本語が散りばめられたネオン街や行間に出てくる章のフォントデザインなども、古典SFの金字塔の一つである「ブレードランナー」を思わせるではないか。
(単に私が今クラシックSFにハマっているからだといえばそれもそうかもしれないが)

とにかく、CG映画でも心に残る、感動の余韻が続く新たな時代がもうすぐ来るのだ。
そういう意味でもこの映画自体が希望となる、素晴らしい作品だった。
(CG台頭当初も素晴らしい作品があった!主に未知との遭遇や宇宙戦争だ!などというスピルバーグ強火派の方々の意見はスルーさせていただく。なぜならあの時代の作品は今や伝説であるし素晴らしいクラシック映画という分野であるからそもそも枠に入っていないのだ。”現代のCG映画”の話を私はしているのだ。何よりスピルバーグ強火派とは私のことである)

最後に

STARWARSオタクである私は今作の原案製作脚本監督を務めたギャレス・エドワーズを尊敬せざるを得ない。STARWARSを観て監督を志した彼は今や「ローグ・ワン」という素晴らしいSW作品をルーカスフィルムにて作りあげたのだから。
やけにロボットに涙を誘われると思っていたらこういうことだったのだ。

今作の視聴を経て、私の中の”足を向けて寝られないお気に入り監督リスト”にギャレス・エドワーズの名がはっきりと刻まれたのであった。








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