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05:身体としての言葉─混同される「理解」と「実感」


【連載バックナンバー】
01:コロナが呼び覚ます身体/prologue
02:勝手に動き出す身体─私の知らないわたしたち
03:知らない自分に出会う方法─非言語コミュニケーションの世界
04:センサーとしての身体─思い込みと現実を感じ分ける

今回は身体の延長としての「言葉」をとりあげます。言葉には「記号としての言葉」と「身体としての言葉」があり、前者は理解を後者は実感を与えてくれます。
「身体としての言葉」なら、言葉で相手の肩や心に触れることが出来るのです。


嘘っぽい言葉が嘘っぽい理由

誰かの言葉を聞いて「嘘っぽいな」と感じたり、「心がこもっていない」と感じたことはありますか。あるいは、自分自身が言葉を発しているときに、しらじらしさや居心地の悪さを感じたことはないでしょうか。

「語られた言葉の意味」と「そこから受け取る感覚」に落差があるとき、コミュニケーションは混乱しがちです。

多くの人が「記号としての言葉」と「身体としての言葉」を混同しています。意味や内容ばかりに縛られて記号としての言葉に頼り過ぎると、身体としての言葉を発したり聞き取ったりしにくくなります。

手ではなく言葉で相手の肩に触れる

竹内敏晴さん考案の「呼びかけのレッスン(話しかけのレッスン)」というのがあります。呼びかける側(1名)と呼びかけられる側(数名)でやります。

数メートル離れたところに、数名がこちらに背中を向けて立ったり座ったりしています。呼びかける側が彼らに向かって、「こんにちは!」や「ねぇねぇ!」などの言葉で呼びかけます。全員に向かって呼びかけてもいいし、だれか一人の人と決めて呼びかけてもOKです。
呼びかけられる側の人は、背後から向かってくる声に集中します。そして、「自分が呼ばれた!」と感じたら振り向きます。

振り向くときのポイントは、「あ、自分が呼ばれた!」という実感があるかどうか。そして、この「実感」のあるなしを感じ分けているのが、身体としてのわたしです。

どうすれば声を届けられる?

実際にやってみると、自然な声であっという間に全員を振り向かせてしまう人もいれば、全力の大声で呼んでいるのに誰からも振り向いてもらえず悔しがる人もいます。
レッスンの意図は、声の良し悪しの判断ではなく、いまの自分の声が相手にどう届くのか(届かないのか)を知るためのものです。

呼びかけが一段落すると、振り向いた人にも振り向かなかった人にも、どう聞こえ何を感じたのかを話してもらいます。

「やさしく肩のところにピタっていう感じで声が来て、思わず振り返ってしまった」
「声が頭の上を通り過ぎていって、もっと遠くにいる人を呼んでいる感じがした」
「すごく近くまで声が来たなって感じて振り向きそうになったけど、私じゃなくて斜め後ろにいる誰かを呼んでいる感じがした」
「なんだかバカにされてるような感じがして、振り向きたくなかった」

なんだか天才肌の演出家のコメントみたいですが、別に訓練された人々ではなく、一般の人の表現です。人は驚くほど鋭敏な感覚で聞き分ける耳(身体)を持っていることが分かります。また、それに改めて驚いてしまうということは、普段は聞き分けの能力を発揮していないということでもあるのです。

前回、身体が頼もしいセンサーであると書きましたが、この聞き分ける能力もその一部だと言えるでしょう。

記号としての言葉への依存

言葉は意味と紐付いており、言葉を通してひとまとまりの意味を他者に伝達することが出来ます。

「記号としての言葉」の広がりは、学術を発展させたり、社会を豊かにしたりしてきました。単純に「本」と言えば用途や形状をいちいち説明しなくても伝わります。「新しい」と言えばそれが出来て間がない、現れてすぐのものだと簡単に伝えられます。

それでは、同じように「ありがとう」と言われたら、「感謝の気持ち」がそのまま伝わるでしょうか。伝わってくることもあれば、ぜんぜん伝わってこないこともありますよね。時には「怒ってるのかな」なんて感じることも。
「すみません」や「大好き」も同じで、社会生活で使用される言葉からは、その本来の意味に値する思いが感じられないことがあります。

言葉には「記号としての言葉」と「身体としての言葉」があると書きました。「ありがとう」という言葉の記号としての意味は「感謝(されている)」です。これは「頭としての私」が理解し処理しています。
一方、「身体としてのわたし」は、この言葉を意味よりもむしろサウンドとして聞き分け、実感で受け止めます。意味に縛られずに「自分に言っている感じがしない」とか、「突き放された感じがする」とか、様々な印象を受け取ります。

「実感する」とはどういうことか

「腑に落ちる」という言葉があります。連載2回目で「目が行く」「足が向く」「腹が立つ」などの身体を主語にした表現を紹介しましたが、「腑に落ちる」もそのひとつです。

「腑に落ちる」という言葉には、頭で意味を理解するだけでなく、胸であれこれ思いを巡らせるのでもなく、身体のもっと深いところ、腹(腑=内蔵)で実感出来るというニュアンスがあります。

分かりやすい説明を受けたからとか、論理的整合性が高いからとか、そういう理由からではなく、その説明や整合性以上の納得感、あるいはそことはまた別の次元で「これは間違えなく確かだ」と明確に実感される──それなら、それは腑に落ちたのです

腑に落ちているかどうかは、必ず自分で分かるし、もし分からないのなら腑に落ちていないのです。

「確かさ」があなたを支えてくれる

「腑に落ちる」というのはひとつの例ですが、身体としてのわたしは「確かさ」をとらえることが出来るのです。

「確かさ」は、論理的思考や外部からの保障によって得られるものではなく、「感じ取る」ことでその存在を確認できます。思考や常識や社会通念にがんじがらめにされても、強い光で導いてくれます。

社会の風潮、親からの刷り込み、周囲からの肯定、経済的豊かさをもたらす諸活動などは、たとえ「身体としてのわたし」がそれらを実感も肯定もしていなくても、あたかもそれが「確かなこと」であるかのように錯覚させます。記号的意味の集積だけに強く囚われたり、日常的実践のルーティンに耽ったりすることで、そういう錯覚が生活のなかでずっと維持・継続されます。

もし家族や恋人や友だちがみんな「それは違うよ」と言っても、静かにたった一人で信じていられる──あなたにとって、そういう「確かなこと」は何ですか。それを尊重して、それに基づいて生きていますか。

どんなときでも自分を支えてくれる「確かさ」は、「考える」ことや「力を振り絞る」ことによってではなく、ありのままを「感じ取る」ことやそのために「力を抜く」ことによってもたらされるのです。(続く)


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