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06:自分らしさは身体が教えてくれる─即興の場で解放される身体

【連載バックナンバー】
01:コロナが呼び覚ます身体/prologue
02:勝手に動き出す身体─私の知らないわたしたち
03:知らない自分に出会う方法─非言語コミュニケーションの世界
04:センサーとしての身体─思い込みと現実を感じ分ける
05:身体としての言葉─混同される「理解」と「実感」

「自分らしさ」とは何でしょうか。あなたにとって「あなたらしさ」とは何ですか。どうすれば、それが「借りものの姿」なのか「ありのままの姿」なのかを、区別することが出来るのでしょうか。

みんな他人を演じてばかりいる

そもそも「らしさ」とは何でしょうか。

学校の先生らしさ、母親らしさ、子どもらしさ、社会人らしさ、アイドルらしさ──それらしいふるまいとは、類型的で見慣れたふるまいのことを指します。そのため、既存の型にうまくはまった姿をしています。
既存の型である以上、そこには「他人を演じている」あるいは「社会的な役割を演じている」という部分があります。

それでは、改めて「自分らしさ」とは何でしょうか。当然「他人を演じる」ことでは自分らしさは発揮されません。演じることをやめればいいのでしょうか。それとも「自分自身を演じる」必要があるのでしょうか。

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「即興劇」で引き出される自分らしさ

この問いに対する、とてもユニークなアプローチとして「即興劇」があります。即興劇とは、文字通り即興でやる劇のことです。人々が見つめる舞台に出て行って、すべて即興で動きます。

「劇」である以上、普通は台本がありますよね。配役があり、役者はそれを演じます。
でもそれが「即興」であるためには、台本や配役はもとより、「こんな感じでやろう」とか「最後はこんなオチにしよう」というような事前準備も出来ません。準備を重ねて即興風にアレンジは出来ても、その本質は即興ではなく作為です。

それでは、他人を演じることが出来ない舞台で演じられる役は誰でしょうか。それは、他人以外の誰かで唯一残った人物=自分自身を指しています。即興の舞台で結果的に演じられるのは、何の準備もしていないまっさらの自分自身なのです。

この連載を始めからお読みいただいている方はもうお分かりでしょう。このような即興には「身体としてのわたし」が深くかかわっています。「頭としての私」を留保して、「身体としてのわたし」が自由に動けるようにしつらえられた装置が、即興劇です。

即興モードに入るには?

あなたなら、一切の筋書きがないまま人々が見つめる舞台に出ていって、一体何をしますか。

「わたしだったらこんな感じかな…」と想像してしまった時点で、事前準備が始まってしまうので、即興ではなくなってしまいます。
即興の舞台で自分が何をするのか、それはその瞬間まで誰にも分からないのです。

事前準備をしないため、「頭としての私」は静観モードに入ります。「即興劇をやる」ということ自体は、「頭としての私」が自由意志を行使して決定しています。でも、その中身、実際にどう動くのかは「身体としてのわたし」にお任せします。

解放される身体

第3話で「自分の身体を感じ取る一番の近道は、全身の力を抜くこと」だと書きました。余分な力を抜くことは、感じ取るだけでなく自由に動くためにも有効です。

力を入れて身構えた方が動けそうに思うかもしれませんが、いま休んで(弛緩して)いる筋肉が、次の瞬間に動作可能な筋肉です。力を入れて(緊張して)いると、それらの筋肉は動けません。つまり、不自由だということです。

そのため、即興劇の準備は余分な力を抜くことです。とはいえ歩いて舞台に出て行きますから、直立や歩行に必要な筋肉は「最適な緊張状態」にあります。そして、集中がぐっと高まった瞬間、舞台に出ていきます。

次に自分が何をするのか自分でも分からない

出て行った次の瞬間、あなたの身体がどう動くのか、それは僕にもあなたにも分かりません。座り込んでしまうのか、穴を掘るような動きが出て来るのか、だれもいない砂浜にいるように感じて足が砂に沈んでいくのか、まったく分かりません。

そこにあるのは「いま・ここ」の連続性だけです。

「いま・ここ」で身体がそう動きたがったら、まずそれに任せます。その時点で、先のことはまったく分かりません。任せて動いた次の瞬間、そこでまた「いま・ここ」に集中し、身体が動きたいように任せます。感情が湧き上がってくることもあるし、声が出てくることもあります。一人ひとり違います。
このとき、作為が見て取れると観客はたちまち白けるし、即興が起こっていると不思議な魅力で人を惹きつけます。

ちょっとエキセントリックですが、意識して既存の「らしさ」を演じるのではなく、それを停止し解き放されたときに出て来る動きなど、予測出来るはずもありません。
ただひとつ間違えないのは、それはあなた自身だということです。奇妙であろうと意外であろうと何だろうと、そこには「もう一人の自分がいます。

身体のやりたがることを肯定する

さて、ここであなたが決めるべきことがあります。そこで出会った「もう一人の自分」を、どう扱うかです。

即興劇のような特別な空間で、「身体としてのわたし」を主体にすれば、普段は発揮されていない自分と出会うことが出来ます。その上で、そこで出会った自分を実生活においても尊重して生きるのか、それとも無視・抑圧して生きるのか。私たちは、それを自由に決めることが出来ます。自由意志を行使するのは「頭としての私」です。

僕自身は、「身体のやりたがっていることを肯定する」ことによって、それまでの日常のつじつまが合わなくなり、それが大きな変化につながりました。単に変化しただけでなく、「自分の人生を生きている実感」を得ることが出来ましたそれが次第に薄れ、コロナによって呼び覚まされた話は、この連載のプロローグで書きました)。
それまでの生活で「身体としてのわたし」を抑圧していればいるほど、尊重に転じたときの落差は大きくなります。人間関係も変化しますし、仕事や暮らし方だって変わります。変わらない方が嘘ですから。

変化が起これば、また新たな葛藤に直面するでしょう。課題や悩みも出て来るでしょう。
でも、他人を演じるのではなく、ありのままの自分を尊重して社会生活を営もうとした際に直面する課題こそ、僕自身が本当に直面し取り組むべきことなのではないかと思うのです。(続く)

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