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玉の緒よ 絶なば絶えね

「玉の緒よ 絶なねば絶えね」みたいな短歌を時々思い出す。

この短歌は私の記憶が正しければ、「この命など終わるなら終わってしまえ、この恋心を世の中に秘めておくのは苦しく、難しすぎるから」みたいな、身分違いの禁断の恋をした人の歌だった気がする。

私はそこまでの熱情に駆られたことがないので後半は分からない。
だが、前半の「玉の緒よ 絶なねば絶えね」の言葉がすごく好きだ。
死にたくはないが、それは死の苦痛や死別を味わうのが怖い部分が大きく、ふと眠りにつくように終われるならば「玉の緒が絶えるなら絶えても」構わない。
だいぶ私とは意味合いが違うが、昔の人も同じ気持ちを感じた人がいて、しかもこんなに美しく言葉に残している。 
だからこそ、ずっと記憶に残っていて、この言葉が好きだ。

昔の私はこの短歌風に言えば「玉の緒よ 絶なねば絶えね とは言えど 生きてた証は 全消去して」と思っていた。
このnoteとかネット上のアカウントは私の心臓の停止と共に自動で削除されて欲しい。
銀行口座とか諸々も解約して、家具とか譲れるものは赤の他人に全部譲って、それでも余ったものは燃やして、自分自身も土葬で綺麗に全消去して息絶えるのが理想だった。

自分をこの世に一ミリも残したくないとかいうネガティブな意味ではなく、自分の体を含め、資源は循環できるものは循環してもらって、それ以外は残さない方が綺麗だし、何かかっこいいと思っていたからだ。
なお、ネットのアカウントについては、綺麗とかではなく、死後の身バレが恥ずかしいだけである。

ちなみに昔調べたが、日本で土葬は法律で禁止されているらしい。
そのため、土葬されるには外国に行く必要があるが、死に際に最低限の荷物を持って渡航し、国籍を取得して死にに行くのはなかなか大変だし、何より外国に迷惑だ。
「what’s purpose of your trip?」と空港の人に聞かれて、「for Business」でも「 for sightseeing」でもなくて「for death」って答える渡航者とか怖すぎる。
あと、海外での税金とか相続とか死後が面倒なことになりそう。
だから土葬は諦めている。
蛇足だが、鳥葬はちょっと嫌だ。
万が一、実はまだ生きてて意識はあるけど身体が動かない状態の場合、鳥に啄まれるのが嫌すぎるからだ。
話を戻して、日本での葬式は燃えて灰になる。
せっかくだから、どうせ燃やすなら、花じゃなくてご家庭の捨てにくい不用品をありったけ私の棺桶に詰めてほしい。
責任もって私が一緒に燃やすから。
そして、もし冥界があるなら大量の不用品と共に降り立って現地の人たちをびびらせたい。

上記のような考えに今でも半分くらいは同意する。
でも今は「生き恥はかきたくないけど、死に恥はどうでもいいか!だってもう死んでるし!」と思うようになった。
今の気持ちを短歌にするなら「玉の緒よ 絶えなば絶えね この今を 感じるだけで 満たされるから」という具合だ。
自分ではよりポジティブになった気がしている。

多分私は死ぬまで生きていく。
しんどいこの私を生きると決めたからこそ、「絶えなば絶えね」と前とは少し違う気持ちで思うのだ。
みんなにもどうか、できれば私より長く、どうかどうか生きていてほしい。

とはいえ、「玉の緒が絶えてもいい」と思うことがある死生観を口に出すことはさすがに憚られる。
死なないから、たまに「玉の緒よ絶えなば絶えね」と思うくらいは許してほしい。
それを公に言わないくらいの倫理観は持ち合わせている。
だから、この短歌は心のうちに秘めている。

みんなには「玉の緒よ 絶えなば絶えね 終わりある 玉の緒だから 君は尊し」という短歌を贈ります。
読んでくれてありがとうね。

おしまい。


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