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私たちは如何に弱いままでまともで居られるか



私たちはとても弱い生き物

私たちは、個体としてはそれほど強くない。いや、生き物としてはかなり脆弱な部類に入る。

私たちは裸でないにしても、ひとりで山の中に放り出されたとして、一日として生きていくことが難しい。

これは遭難することによってけがや低体温症のリスクにさらされるからだけではない。

山で遭難した人は、胃潰瘍になっている場合が多いという。

場合によっては重度の胃潰瘍になり、大量吐血することによって死亡してしまうケースもある。

これは、普段は見ないようにしている自分の生き物としての弱さに直面してしまい、不安と恐怖で強烈なストレスを抱えてしまうことによって生じる。

これに比べてサルやイノシシやシカは、平気で裸で生きて繁殖までしている。

山の中でないにしても、出かけた先で親とはぐれ、迷子になった際にただ不安で泣くしかない子供の姿は、私たちの本来の姿でもある。

人は極めて繊細で臆病で、自分の弱さをそっと胸の奥にしまい込んで普段は見ないようにしている、なんとも弱い生き物である。

じゃあ、あなたはカウンセラーさんなんだから強くなれる秘訣をお願いしますといわれそうだが、私たちはいまさら野生動物のような強靭さを身に着けるなんてことをしようという勇気も根性も覚悟もないのだから、私は、むしろ強くないほうがいいとさえ思っている。

私たちの弱さとは

山の中に放り出されて、心細さから胃潰瘍になってしまうほど、私たちはひとりでは生きていけない。

このひとりでは生きていけないというのは、逆に言えば、ひとりで生きていけるようには作られていない、誰かを自分を確認するために必要とするように出来ていると解釈したほうがしっくりする。

外出する際、鏡で自分の姿を確認するように、心理的には誰かしらに自分の内面を映し出し、直接自分の姿をみなくてもいいようにワンクッション入れて相手の中に自分の内面を視ている。

多少毒のある言い方をすると、私たちは、相手の良い所をさも自分のもののように受け入れ、自分の悪いところはさも相手の短所であるかのようにして、うまいこと自分を受け入れられるようにアレンジしながら悪戦苦闘して生きている。

もし、常に自分の内面を直視し、自分の心理的なありのままの姿を受け入れ、反省したり、改めたりすることが出来る人がいたとしたら、これは相当に強靭な精神力を持った人である。

精神分析を創始したフロイトは、晩年強烈な痛みを伴う口腔がんを患いながらも、死の直前まで痛み止めを使わなかったという。

大方の我々は、こんな強さを持っているわけでもなく、人と自分とがなんとなく境目も希薄な状態になって、「私はこの人とつながっている」といって相手の手柄をさも自分のものであるようにしつつも、互いが互いに依存関係を築いている。

人は自分ひとりではいられない。

そして、このように弱い。

なので、自然の中で生きていくことを選択できず、人にとって生き得る自然、つまり社会を作ってこれを第二の自然として生きていくことを選んだ。

しかし、反面、人はこのような弱さを武器にしてここまでたどり着いたともいえる。

精神的な通り魔

さて、自己啓発と称して「他人と自分を比較してはいけない」というのは、自分と比較対象の相手との優劣をつけないことを目的としている、いわゆる「しつけ」あったり「教育」である。

この根底には「強くありなさい」という教えがある。

では、この「他人」とはどういう人なのだろうか。

実は、よく知らない赤の他人である。

もう少しいうと、よく知らないのにもかかわらず、通り魔のようにやみくもな比較をしているというのが実際には近いかもしれない。

例えば、たまたま街ですれ違ったとても笑顔が素敵な人がいるとしよう。

笑顔で人当りもよさそうで、誰からも好かれ、何の不安も悩み事もないように見えるし、いつもニコニコしているに違いない…。

「何の不安も悩み事もないように見える」。

この一点をもって悩みも闇も深い自分はなんて不幸なのだろうと、ますます落ち込んでしまうだろう。

しかし、笑顔が素敵な人というのは、笑顔でいるという生存戦略をとっているだけかもしれない。

人と争いたくない・戦いたくない・嫉妬されることを回避したい等々、面倒なことに巻き込まれたくないという気持ちもあるかもしれない。

さらに言えば、そのようなことに巻き込まれた過去があり、どこか怒りの感情を抑え込んでいたりする人もいる。

このような自分を知られたくないために、いつもニコニコしているという可能性もある。

要は「ディフェンス」が高いのかもしれない。

本当に分からないことだらけで、そもそも心理的距離が遠い。

ところで、「比較」するというのであれば、対象となる人の比較可能な情報を抽出しなければならないし、比較可能な範囲内で比較しなければならない。

このようなことをいつもニコニコしているディフェンスの高い人がそうそう簡単に教えてくれるわけもないし、満足できる結果が得られるはずもない。

したがって、「何の不安も悩み事もないように見える」というのは単なる妄想に近いのだし、自らの闇を自他ともにぶつけてしまうこともあり得るから、通り魔のように危険なことなのでやらない方がいいというのは、納得できる理由である。

だとしたら、良く知っている相手であれば、比較可能な情報をすでに得ているのだから、比較可能ということになりはしないだろうか。

実はこれ、かなり有効だったりする。

心理学的に比較をして良い相手とは、何かしらの共感が成立している相手ということになる。

「よく知らない赤の他人」と「良く知っている相手」の違いとは、「共感が成立している」かどうかの違いである。

なぜならば、共感とはわれわれが他人から心理学的な資料を収集する一様式だからである。

安心安全に喧嘩を学ぶ。

共感とは相手のことを自分の価値観を脇において相手のありのままを互いに共有することである。

これはカウンセリングのトレーニングをみっちり受けないとなかなか出来ることではない。

では、共感が容易に成立するのは、どのような関係であろうか。

1. 生活環境・境遇・地域・価値観が同じ。
2. 年齢・性別が同じ。
3. 頻繁に接触している。

これを「双子対象」という。

もともと双子のような兄弟をイメージしており、様々な共通項を共有している状態であれば、違いはささやかなものになるので、互いの違いを理解するのは容易になる。

このような人間関係の典型が幼馴染であったり、学校の同級生である。

互いによく知っている者同士であれば、比較することは逆に有効になる。

例えば、世の中は喧嘩をしてはいけないとか、人の足を引っ張ってはいけないなどのマナーがあり、私たちが社会で生きていくためには、このような基本的な倫理観を学んでいなければならない。

これを「よく知らない赤の他人」とやってしまうのは、互いに対する共通の理解がないので、必然的に誤解が生じ、大変危険なことになる。

心理的距離が遠いからである。

しかし、互いに許容できる関係であれば、傍から見たら喧嘩のように見えても、本人同士はじゃれ合っているようなものになる。

ライオンは兄弟同士でじゃれ合うことで狩りの練習をするという。

競争が求められる状況では、互いに良きライバルとなり、足を引っ張り合ったり、嫉妬したりすることもあるが、これがモチベーションにもなる。

心理的距離が近いからである。

「あこがれ」から生じる共感

相手のことをよく知っているということは、心理的な距離が近いということだが、時間や空間を超えて共感が生じることもある。

典型例として、歴史上の偉人や有名人、アイドルなどに対する共感である。

このように書くと、坂本龍馬や二宮金次郎のような歴史上の偉人や有名人は「尊敬する人」として理解出来るとしても、アイドルまで含めるのはどうかと思われるかもしれない。

しかし、リアルな同時代性、生活のスタイルやリアルタイムでの発言、息遣いなどが伝わり、影響を受ける程度を考えると、とても大きなものがある。

還暦の私がすぐ思い浮かべるのは、矢沢永吉は少しヤンチャな人たちに物凄い影響力があった。

もう少し時代的に身近な例でいえば、太い眉毛を書いている女芸人のイモトアヤコさんは、歌手の安室奈美恵さんから強い影響を受けている。

もっとも、安室真美恵さんとイモトアヤコさんは容姿や外見としては大きく異なっており、そのまま真似しても似つかないものになっただろうことはご本人も重々承知であり、では自分なりに少しでも安室ちゃんに近づく手段として、女芸人という道を歩むことになる。

誰かに憧れて影響を受けるということは、そのままの姿を踏襲するように真似ることではない。

これは矢沢永吉から多大な影響を受けたすべての人が、ロッカーになったのではなく、誤解を気にせずに言えば「自分なりの矢沢永吉」像を実現していった。

もし、矢沢永吉がいなかったら、私たちの世代は、つまらないものになっていただろうし、もし、安室奈美恵さんがいなかったら、私たちはイモトアヤコを知ることはなかっただろう。

ここで改めて、先の共感が生じやすい3つの条件をみてみよう。

1. 生活環境・境遇・地域・価値観が同じ。
2. 年齢・性別が同じ。
3. 頻繁に接触している。

1. あこがれの対象においては、過去の一時期、特に思春期において「生活環境・境遇・地域・価値観が同じ」であるということが重要。

2. 性別が同じであり、年齢的に上の方がよい。

3. そして、直接間接に関わらず、またメディア等を通じて頻繁に接触することが出来、この対象の情報を知ることが出来ることが大切となる。

このあこがれの存在の意義とは、自分の現状の生きづらさは将来的にいかに克服できるかという、方向性を具体的に見せてくれること。

これを解の存在証明という。

「解の存在証明」というと厳めしいが、今現在苦しんでいる自分の抱えている課題は、乗り越えることが出来るかどうか、出来ないとしたら理由を知りたいし、乗り越えられるとしたら、具体的にどうすればいいかを知りたいはず。

矢沢永吉の例を見てみよう。

母親は永吉が3歳の時、夫と息子を捨てて蒸発。広島で被爆した父親とは小学校2年生の時に死別。このため幼少期は親戚中をたらい回しにされ、その後は父方の祖母に育てられ、極貧の少年時代を過ごした。この頃、近所の裕福な家の子供に「お前の家は貧乏でケーキなんか買えないだろう」とケーキの一部を顔に投げつけられるなどのいじめを体験した。このような経験が積み重なり「BIGになる」との思いが芽生えたと語っている。矢沢は「晴れた日に海を見ていると広島を思い出すよ。やたら天気よくてね。広島ってヤクザとか原爆とか色々言われるけど、ボクにとっては一地方都市ね。悲しいことも楽しいこともあるけど、全部含めてね、淋しかーったって記憶しかないね。広島にいた子供の頃って、一人だったなって記憶しかない。かき氷が食いたかったけど、食えなくて、水だけジャブジャブ飲んでた。そんなことしか覚えてないよ」などと述べている。当時のモータリゼーションもあって、将来は板金工になって金を稼いでやろうと考えていたが、中学時代、ラジオから流れるビートルズを聴いてロックに目覚め、さらにザ・ベンチャーズの広島公演に行ったことで感化され、スターになることを夢見るようになる。東京で歌手になる夢を周りに語ったが、日本にロックという文化が根付いていなかった60年代に於いて、ましてや広島の片田舎では「お前、頭、大丈夫か?」という反応しか得られなかった。

wikipedia 矢沢永吉

まともな家庭ではない、極貧、いじめ、淋しい、地方。そして、誰も理解してくれない。

日本国内で最も成功したロックスターにあこがれたファンは、のちに矢沢少年の境遇、そして彼の代名詞である「BIGになる」との思いに共感し、自分の現状の課題を克服するために、彼の生き方や有り方、言動やファッションまで模倣しつくしたという。

では、なぜ彼のファンは彼を模倣したのか。

「生活環境・境遇・地域・価値観」が完全に同じではないにせよ、深く共感した彼らは、この共感のチカラを使って彼のことを徹底的に調べ、歌を聴き、彼から放たれるメッセージをむさぼるように吸収したはずである。そしてさまざまな生きづらさを抱えている現状から如何に抜け出して、如何に成功を勝ち取れるか、勝ち取った人がいるとしたら、どうやって抜け出したのかを矢沢永吉というあこがれの存在への深い共感をさらに深めるため、模倣することを通じて、必死に模索したからだろう。

これを理想化転移という。

落ち着くことができたり自分の進むべき方向性を見出すことができるような他人を手に入れたいという欲求。そのような完全でもあり、理想的な親となってくれるような他人を自己対象とする。

「私は完全ではないが、あなたは完全である。そして私はあなたの一部分である」という自己愛を満たすためのものとして現れる。

wikipedia 自己心理学

彼のファンは、周囲から共感されにくい境遇の人が多いという。
彼の広島時代の境遇に共感するということは、彼のような貧困やいじめという地獄を味わったことがあると想像することは難しくない。
社会からはじき出され、自らの人生を恨んできたことだろう。
このような彼らが、矢沢永吉という共通の旗印の下、互いに共感を深め、同じファンとして強い絆を保っている。
あこがれは、深い共感を生む。

私たちの人間関係に自ら作り上げる健全な依存を

私たちは弱い。個体として途方もなく弱い生き物であるが、驚くべき共感力と想像力を獲得して、ここまで繁栄したともいえる。

逆に言えば、私たちは個体数を増やすという生存戦略を取らなければならなかったのだし、このために驚くべき共感力と想像力によって補完しているともいえる。

このような戦略において、私たちは如何に弱いままでまともで居られるかと言えば、如何に誰かに適切に依存できるかにかかっている。

しかし、「他人と自分を比較してはいけない」という強さを前提としたお題目が無批判に世の中に流布してしまっているため、私たちの日常生活の生理が侵食されてしまっているのではないかという懸念がある。

たしかに「自分は自分」、「他人と自分を比較してはいけない」というのは切れ味の良いアイディアで、通り魔のように「他人と自分を比較」することは大変危険だが、だからと言って全く他人との比較を禁止されてしまったとしたら、私たちは心理的に一歩も身動きが出来なくなってしまう。

なぜならば、このアイディア自体、ギリシャ以来の欧米の伝統の中で鍛え上げられたものであって、欧米の文化文明の基盤となっているものだからだ。

しかし、何かこのアイディアが役に立つからと言って私たちの本来の在り方を侵食してしまってはいないだろうか。

ハーバーマスは、私たちの日常生活が道具的理性によって支配され、侵略されていると主張しました。言い換えれば、現代では対話的理性によるコミュニケーションが疎かになり、社会の人間的な側面が損なわれているということになります。

生活世界の植民地化

ハーバーマスの考え方を私たちなりに解釈すると、「他人と自分を比較してはいけない」という外側から与えられた便利な道具的な教訓は、自らの手によって獲得されるべきものであり、私たち自身の対話的理性によって獲得されなければならない、と読み取れるように思える。

ここでいう社会とは、私たちが日常の対話によって築き上げたものであり、私たちが暮らしているものそのものである。

では、このような私たち自身を語った心理学とはどんなものだろうか。

甘えとは、周りの人に好かれて依存できるようにしたいという、日本人特有の感情だと定義する。この行動を親に要求する子供にたとえる。また、親子関係は人間関係の理想な形で、他の人間関係においても、親子関係のような親密さを求めるべきだという。

甘えの構造

このような考え方によると、私たちは、家庭における親子関係を社会に延長していくことで人間関係に養育の責任と義務を有し、親密で安定した関係を築くことが出来るということになる。

私たちは人間関係に困難が生じると、これを放棄し、自由になることを考えて行動するのだが、これは人間関係に何かしらの強制力働くためである。

この強制力は啓蒙によってなされるのではなく、私たちが作り上げてきた社会からの要請であり、作り上げ続けてきたという歴史性によるものである。

カウンセリングがそうであるように、私たちは私たち自身の力をもっと信頼してもよいのだ。

改めてこのようなことは考え直してもよいかもしれない。

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