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そのことが何より、この町にとってより良い環境になるのだから。

今朝も戸隠さまに参ったあと町をあるく。変わらないこと。今も現役で夜な夜な歌声が聞こえてくるスナックの面影や朝なのに既にいい匂いのする食堂。変わったものもある。少しずつ減る昔ながらの家、建物。昔駅の周りは駄菓子やパン屋さんがあったりゲームソフト屋さんがあったりして楽しかったなと感じながら「いつかまたそんな町にできるんじゃないか?」と最近はふと思えてしまうのは俺の周りの環境がそうさせるんだろう。

話は少し変わり、MGNETに大型新人が入る。なんだか毎回新しい仲間が加わる度に言ってる気がするこのフレーズも今年ばかりは誰がどう見ても認めざるを得ない大型の新人だろう。(写真はご自身のFBから拝借しました)

冗談はさて置き(笑)
MGNETには、そして社会には大きく景況を及ぼすと信じてやまない新人のことを少し”話さなくては”いけない。それは将来に向け多くの方々から期待と願望を背負った若手の元市役所職員だったからだ。きっと彼の存在で救われた、助けられた、何より励まされ前へ進めた人は多かったはず。もちろん俺もそのひとりとしてしっかりと想いを書こう。

佐野大輔さんとの出会いはしっかりと覚えていないけど、確実に意識したのは燕市若者会議の前後だったと記憶している。ひときわ横に大型だった。ひとことで言うと「丸っぽい人。」が第一印象。しかしその印象はその後すぐに変わった。めちゃくちゃ俊敏に動いていてイチ参加者でもありながら周りの職員さんの数倍動いていたんじゃないかなと思う。その時「踊れる○○」という言葉が頭をよぎったのは結構覚えている。(踊れるか否かは定かではないがたぶん踊れない笑)

好印象行政マンから仲間になっていく

言葉を交わしたのか、交わさなかったのか、はたまた接触したのか、していないのか。そこは全然覚えていない。その後、フルート奏者の本宮さんのふるさとコンサートでボランティアスタッフをやっていたり市の活動の中で出会うことが多かった。素直で行動派で意欲的で、見た目以上に目立っていたと思う。まあほんと、深く知らずとも気持ちの良い人だ。

それから数年して一緒に活動をするきっかけになったのは、佐野さんが立ち上げた「東京つばめいと」事業で立ち上げのディレクションを任されたこと。どうして俺にこの仕事を頼もうと思ったのか、もちろん説明は受けたと思うけどあんまり覚えてないので、また機会があれば聞こうと思う。(ここまででお分かりの通り、だいぶ覚えてられないキャラです)

そして時を同じくして、燕中等教育学校の生徒さんたちから相談を受けプロジェクトに参画していたことが、のちの中高生プロジェクト「つばめいく」へと発展を遂げる。

事業としては、中高生を対象として町のクリエイターと学び「若者からみた町の見え方は違う」ということを可視化し、次の世代へ繋いでいくことがこの事業の根幹。これらの取り組みに一貫しているのは地域に教育を通して事業化していることだった。もともと佐野さんは中学校で教員をしていたこともあったり、文科省へ出向していたこともあったりと、とにかく教育畑の人だった。そして俺も専門学校の非常勤、学校評議員、学校評価委員、大学連携、文科省事業実行員、そして大学設立準備委員など彼とはまた違った形で教育に携わることが多かった。

そんなことからきっと何か通じ合い、お互いが「一緒に何かしたい!」と思えたんだろう。この何をするかじゃなく誰とするかが本当に肝。そう言った意味ではここまでの話でもずっと一人のクリエイターの存在が不可欠で、この方なくして俺と佐野さんの出会いは違ったものになっていた。グラフィックデザイナーのツムジグラフィカ高橋トオルさんだ。高橋さんとの出会いも若者会議だった気がする。そしてたびたびお仕事でもご一緒する機会もあったり、MGNETでも社内講話をお願いするほど信頼するクリエイターで、デザインとしての表現に問わず、ご自身のお仕事のスタンスや用いられるお言葉、表現に至るマインドまで尊重、共感してやまない素晴らしい先輩だ。

「つばめいく」はこの3名ではじまった。俺の中ではもっとも尊い取り組みになった。結果的には残念ながら東京つばめいとから3年、つばいめくに派生して2年の今年度で事業は完了してしまったけど参加してくれていた中高生から「はじまったばかりなのになぜ???」という率直な意思を受け取り、つばめいくは終わらないことにした。

行政としての立場はどうあれ

ここで勘の良い方はお気づきかもしれないが、ここが一つ俺の中で佐野さんと仕事したい理由が隠れている。それは大人の事情で若者の情熱を終わらせないこと。どうしても行政事業は単年度の取り組みが基本となり、毎年毎年続けられるとは限らない。しかもそのジャッジはあろうことか「本質的なもの」ではなく「現象的なもの」で決まる。つまり、本当に町にとって価値のあることかどうか肯定的で建設的な物見いではなく、町の人たちからできるだけ文句が上がってこないであろう平均的で消極的な物見いによるものとなる。簡単に言うと”これから”より”いままで”が大切らしい。しかしこれらは行政職員さんたちの問題ではなく、日本が正しくまちづくりするための物事の見定めと結果の定義によるものなのでここに文句を言うつもりはない(もはや散々言ってる感じだけど笑)。現にMGNETは委託や指定を受け事業展開をしているのでこうした形では往往にして互いの必要性と関係性を解り合っている。と思っている。持ちつ持たれつがもっと良くなると良いなと願いを込め、これからも宜しくお願いします!!!

とはいえ、せっかく若者がまちに興味を持ち動き出したにも関わらず、ジャッジメンツが「意味わかんね」といったから終わりでーすとは行かない。町が理解できなくても、彼らを理解しようする大人は多くいることを知っているので、彼らの意思を受け、高橋さん佐野さんと、立ち上げ当初と変わらず、つばめいくは再スタートを切ることにした。

大型新人の心中(俺目線)

ここからは憶測に過ぎないが、彼はこの秩序の中にある混沌と戦ってきたのではないかと思った。矛盾といったほうがいいかもしれない。何のためにやっているのか?誰のためになっているのか?

結果彼は、現職から離れることを考え始めていた。
そして彼を知る誰もが「それはダメだ」と感じただろう。それは「中途半場にするな」や「簡単に諦めるな」というものではなく単純に「居なくなるなんて嫌だよ」ということじゃないかと思う。それくらい親しまれていた。愛されていた。少なくとも俺はとても大切な仲間だと思っていた。だからその相談をされたとき「いやダメですよw」と普通に返した気がする。それでも彼の意思は固かった。そりゃそうだ。とても意思の強い、奥深い愛を持つ人だから”違う”と感じたら違うんだろうと、すぐ自分を認(したた)めた。

それからどうにか立ち上がったり、また悩まれたりと繰り返す日々があり見た目の元気さとは裏腹にすり減っているものもあったんだろうと見て取れた。

いつだったのか、いつからだったのか。本当に色々話して、色々見て、色々感じた。俺と同じように彼への一入の想いがある人が多いと思うので、あえて経緯を書くことはしないが、佐野はMGNETを意識し始めてくれていた。そしてもちろん俺は、町を大切にし続け、町に愛され続けた元市役所職員を受け入れない理由は、あるわけなかった。

俺と町の明日を作りませんか?

これからも悩んだっていい。迷ったっていい。失敗したっていい。間違ったっていい。立ち止まったっていい。でも町にいてほしい。そして大人の事情じゃなく、若者の目を見て胸を張れる仕事を一緒にしませんか?とこんなカッコいい感じて佐野自身には言えてないかもだけど「MGNETで働かせてほしい」という彼の決意と同じくらい、俺は同じ気持ちだった。だからこそここではっきりしたいのは、俺は彼を受け入れた以上、今まで以上に彼の可能性を広げ、価値を引き上げることを、彼を愛してやまない方々には約束します。

俺は佐野大輔にとって、より良い環境をつくる。
そのことが何より、この町にとってより良い環境になるのだから。
「きっとまた楽しい町が帰ってくる」

と信じている。
4月1日より前に書くことで噓っぽくないだろうという浅はかなタイミングでお届けました。。。次こそ働き方とメディアの話しなくては笑

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