「DESIGN AND PEOPLE | Issue No. 1 デザインは主語じゃない」 を読む
「DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1 デザインは主語じゃない」が発刊した。私は著者のうちの一人だが、出版されて初めてそのすべてを知ることとなった。混沌の読後感が消える前に、ここに所感を残しておきたい。
分離した領域を並べ、つなぐ
本作は、近年定義の幅が広がる「デザイン」を、多様な当事者たちの視点から多面的に描写していく試みといえる。
出版・広告や工業製品に背景にもつ造形のデザイン。UX/UIなど体験のデザイン。経営戦略や組織ビジョンを主導するデザイン。分離しがちなこれらのフィールドを渾然と並べ、本質を探ろうとするスタンスも特徴的だ。
加えて、「デザイナー」と呼称しない様々なスペシャリストの語りから、デザインの輪郭を探り、浮かび上がらせようともしている。
本作では、デザインを描写する上で、コントラストをなす考えがいくつか登場する。それらが衝突もしくは融和する中で「デザインとはなにか」にせまっている。
以下、その対比となる考えを紹介していこう。
生き延びる価値と生きる価値
本作を背骨として支える、デザインの責任範囲への言及である。
デザインに携わる者は、基本的には経済活動からは逃れられない。日本に約20万人いると言われているデザイナーが、経済価値を積み重ねるからこそ生まれる「ふつうのくらし」も存在する(職業デザイナーだけがデザインするわけではないので、その数はもっと膨大だ)。
一方で、デザインは、多くの人間を無意識に動かし、価値観を形づくる作用を持っている。であるがゆえに、未来の文化に影響力を持つ自覚をもち、人間がすこやかに生きる社会を構想する責任を持つことになる。
佐賀氏と対話したコンテクストデザイナーの渡邉康太郎氏は、現代歌人の穂村弘氏を引用したうえで、次のようにも語っている。
生きる価値観=社会・文化形成活動としてのデザインは、それぞれの考え方の違いから、経済活動の中で合意を取るのが難しいという。
どんなデザイナーであっても、周囲と共犯関係を持ちながら「合意しづらい」文化形成に向けて、強い推進力を発揮することは大変なことだ。
画一的な合理性判断とぶつかる「合意しづらい」課題に対し、ロジックを磨き一歩でも踏ん張る。思い描くそれぞれの「よいくらし」を対話する。それを数十万人の「デザインする人」が実行すれば、静かだが大きな運動を作り出すことができる。
個の意志と集団の意志
優れたデザインには意志がある。
ところが、近年のデザインの対象は一人のつくり手では語れないほどに、複雑で大規模なものも増えている。つまりは集団の意志をどう生み出し、動かしていくかもデザインの重要な論点になっている。それは建築も同様という。
建築家の光嶋裕介氏と、サービスデザイナーの赤羽太郎氏の対話では、集団の共創の中での意志のもちようについて議論が交わされている。
集団のデザイン行為は、動機の表出、合意形成、意思決定というような「意志」に関わる要素を多くの他者と共有する。その際に、建築家やデザイナーは自身が持つ意志を表明しながらも、他者への想像力をもち、それを大切にしながらプロジェクトを進めていく。
その際にデザイナーは「集団の意志」に対しどう振る舞うのか。
デザインを、他者を覆い尽くす思考空間としてみるのではなく、他者の意志を引き出す「言語」として解釈すべきだという重要な提言だ。集団の言語の中のひとつとしてのデザインだ。
共創と表現
また一般に、サービスデザイナーなど共創を軸にした役割では、ときおり「自分の意志を持ちづらい」という逆の現象も起こる。
光嶋氏は自身のアーティスト活動について次のように語っている。
自分がどのような社会を構想しデザインするのか。自分の中でカタチにし更新し続ける作業だ。
それを「表現」と呼ぶこともあるが、個人的には必ずしも他者にひらかなければならないとは思わない。絵でもテキストでも映像でも、もしくは日記でも。自身の構想をカタチにし、自分のデザインの骨格をつくり維持していくことが有効であろう。
考えと態度
本作では「態度」もキーワードになる。
両者が使う「態度」の状況は全く違うものだが、「内容」として可視化されないものへの眼差しという点では共通している。(ちなみに、私は昔にブックデザインをしていたこともあり、長田氏の一連の言葉にはハッとさせられた)
「態度」について、サービスデザイン的解釈でいえば、ビジョン構築、組織文化のデザイン、チームビルディングなどのワードが思い浮かぶ。いかに他者の創造性的態度を引き出すか、という話だ。
が、ここまで読み進めると、社会文化への責任、意志、構想と表現など、デザイナー自身がその自己点検をし、周囲に良い意味での波及効果を生むことへの戒めとも読み取ることができる。
有形の精度と無形の精度
本作にはデザインの精度、造形の精度に関する記述も登場する。デザインの成果のためには十分な精度で具現化し、心を動かすものにする必要がある、という趣旨だ。
一方で、デジタルの文脈から、プロデューサー/プロジェクトマネージャー加川大志郎氏からは、下記のような指摘がある。
デザインの解釈が広がる中で、デザイナー自身がどの部分の「精度」に責任を持つか、自信を持つかも多様になるだろう。
細部への有効な執着が、全体の完成度を飛躍的に押し上げるという現象はおそらく普遍性がある。タイポグラフィなのか、ライティングなのか、UIとデータベースの設計なのか、ビジネスオペレーションの設計なのか、自分の技術のどの「精度」が、飛躍的貢献に繋げられるか、自問をしたい。
デザイナーと非デザイナー
ここまで「デザイン」や「デザイナー」について書いてきた。
しかし、デザイン/デザイナーについて語れば語るほど、自覚なしにデザイン/デザイナーでないものへのエクスクルーシブな態度が発生することもある。(とくに語り手がデザイナーの場合は)
田川氏との対談の場では、張り詰めた空気が流れたのを覚えている。
また、田川氏との対談ではないところにて、デザインの範囲が拡張する事実を、「デザインの形骸化」「デザインという言葉を便利にビジネス利用している」と表現する場面もある。受け止めるべき指摘と思う。
デジタル化など技術・産業的要請からデザイン領域が拡張し、私も含めた当事者たちは「デザインが何であるか」を、実務や研究を通して描こうとする。
その言語化に努める中で疎外が起こってしまったり、膨張し変化する市場要求へ対応する中で「意志の欠落」など、本来的なデザイン価値の薄まりが発生する。
デザインが必要な背景は待ったなしだ。量的な意味でデザインに関係する人は増えていくし、増やしていく必要がある。
その際には、デザインを社会に役立てる意識が先行するあまりに、当事者たちの語りに疎外があってはならないし、デザインを骨抜きにしてもいけない。デザインを「幻滅期」に追いやってはいけない。
明快であることと答えを出さないこと
デザインは俯瞰すると「よくわからない」。
デザインに携わる人それぞれに定義がある。
企業のデザイン導入においてはその環境や目的に合わせて「デザインとは何か」を定め、組織の納得や共感をつくり出す必要もある。
デザインの当事者たちは「デザインとは何か」を探求している。ここで、共通の正解を出してしまえば、そのプロセスは予定調和なオペレーションになり、市場競争優位も多様な社会文化も生み出せないものになる。
本作の編集長である吉田知哉氏は「世界に対して自己を打ち立てる」と述べる(P244)。デザインは、社会や市場の問題解決や価値創造の言語であると同時に、自己と世界を相対し問いつづける姿勢や態度でもある。
「DESIGN AND PEOPLE|Issue No. 1 デザインは主語じゃない」の私なりの所感をつづってみた。本作を読まれた方はわかると思うが、ここでの記述は全体の概要をなしていない。私の課題意識を含めて、ごくごく一部を切り取っているにすぎない。
本作は生身の群像劇である。結論はなく、宙に浮いている。
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