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『下手くそな文章の本に限って、意外と注目集めたり、売れたりしちゃうのは何故?』

こんにちは。探偵作家土木警備員のオーサキ・コーです。前回は私の○費出版物が書店に平積み、面出しされ、新聞記事として取り上げられるまでの経緯を書いてみました。著書としての私の○費出版物の価値は一体どうなの?って前回の記事を読んでくださった方は思ったかも知れませんね。ちなみに私の○費出版物は、刊行からまだ三ヶ月しか経ていませんが、書店から徐々に消えつつあります。毎日在庫チェックをしているから分かります。売れているか、出版社へ返品されているかのどちらかでしょう。けれど私は売れていると確信しました。何故ならWebサイト『本が好き!』さんの書評で、めちゃめちゃ私の著書が、下手くそだ、良く解らないと酷評されているからです。ま、書籍は出回っているものだからこそ評論されるものですし。無視されず評価を頂けているだけ幸運です。で、評論で酷評されれば何故売れるって考えたのか?普通逆じゃない?そこを説明する前に、この書評サイトに関して説明させてください。『本が好き!』の書評は、献本された物に対して応募し、抽選を経て、当選した方が書いているようですね。この書評を書く方々は、百戦錬磨のプロのライター顔負けの書評家揃いです。投稿数を張り合っているのを見れば分かります。皆さん、沢山の難しい本の書評を書きあげています。で、この書評家たちのお勧めの本は、やはり書物としては素晴らしいのだと私は思います。けれど売れるか売れないかは、全く話は別なんですよ。

書評家に、星一つのレッテルを貼られても、小学生に面白い!と言わせた書物が勝ち!

って私は感づいていたからです。私は児童書を書いたつもりはありませんが、お子さんにもお年寄りにも読んで頂けたらと願い、書きました。友人の小学生の息子さんから感想を頂きました。面白く、読みやすいと素直な嬉しい一言を頂き、著者の私は感無量でした。他、普段本を読まない知人が読み切れた、面白かった!っと言ってくれました。

では、何故、大人のプロはだしの書評家に「クソみたいな本」と言われたのに、小学生や普段本を読まない人からは好感触を得られたのか?そして書店では面出し、平積みになり、新聞記事にされ、なおかつ売れる見込みまで芽生えたかをかいつまんで説明しましょう。

(1)本の売れ行きに、大人の常識なんて一切関係なし。『リアル鬼ごっこ』の著者 山田悠介さんが爆発的に売れた事例。

誰でも『リアル鬼ごっこ』というタイトルは聞いた事はあるでしょう。山田さんの凄さをここでちょっと羅列させて下さい。

本を読んだことがないのに、本を書いた。○費出版で。本のレビューは、ほとんど星一つか二つ。実際に文章が下手くそだったらしい(としておきます。実はまだ読んでないし、ネットの評判を見ただけなので)。それでも中高生の熱烈な支持を受けた。そして○費出版物をミリオンセラーにした。

もう事実の羅列だけで説明十分でしょう。山田さんの著書がある一定層に爆発的に受け入れられるという事実は、一体なんでなんでしょう。私は著者と読者の感受性の受容体が同じレベルであったのではと考えました。感性が近い人と仲良くなれるのと同じ理屈です。安直な考えかもしれませんが。感性のレベルで通じあえなければ人の言葉を伝えることは到底不可能ですよね。逆説的に言えば、

感受性のレベルで通じあえばよい。アプローチや手段の上手い下手は一切問われない。

のです。

この山田さんの事例を知ってから、

100人の常識に囚われた大人の評論家より、1人の固定観念のない小学生の読者が尊い。

と私は考えました。私は常識やルールに縛られるのが嫌いな、子供の感性の持ち主なのかもしれませんね。しかし理由は後述しますが、絶対に素人や子供の物差しを軽んじてはいけないのです。

話を『リアル鬼ごっこ』に戻します。

山田さんは、既存の文学性というものに一切迎合しません。私は「文字」を使っているのであれば、それは文学というカテゴリーで良いでしょ、と私は思います。中途半端なことを言うと『リアル鬼ごっこ』のファンや純文学が好きだ、という方に怒られそうですが。ちなみに私は若い頃は、坂口安吾、石川淳、太宰治、芥川龍之介などの日本の純文学作品を読み更けったタイプでした。けど今時は井坂幸太郎さんにハマったりもしましたし、面白い作品は面白いで良いと考えます。

読書にジャンル分けは無用!

それがいつしか私のモットーになりました。どんな本でも、面白ければ貪るように読むだけです。『リアル鬼ごっこ』は時間があれば直ぐにでも読みたいですね。

で、次のトピックに繋げます。

(2)日本人あるある!ジャンル分けや様式にこだわるといつの間にか、手段を洗練するために生きている。手段が目的になっている。

少し、私が今書きこんでいる、noteを引き合いに出して説明してみましょう。例えばの話、継続してnoteを書きたい、とか毎日書く、とかを具体的数値目標に置き換え、努力する方が多いように感じます。私も筋トレするときなど、やはり回数などの数にこだわります。だから気持ちは分かります。より良い文章を書きたいから、ノルマを課すのですよね。けれども明らかに

より良いものを書きたいという目標が、いつの間にか単なる手段重視思考や数値達成目標に容易にすげかわる。

ように私は感じます。思いっきりピュアに。noteでこんな良い詩や小説を書きました!って記事の10倍以上の「noteをより良く書くための方法論」の記事でこのサイトは占められているのですから常々私はそう感じます。おかしな現象ですよね。だって本当は啓発的なものを押し付けるのではなく、個々のオリジナリティのある作品を発表し、鑑賞し、楽しむ事が目的なんですから。このnoteってサイトは。で、各言う私自身はどうでしょう。私は私の胸に手を当てて自問自答しました。  

方法論には、めっちゃ興味が有る。上手くなりたいし、ハートマークが一杯欲しい。けど、本当に書きたい本は私の本物のオリジナル。人に読まれる作品!

なんです。けどnoteハウツー物がこれだけ溢れていると自発的な気分でオリジナルな作品を投稿できる環境ではないかも知れませんね、今の所のnoteって。

(3)手段に縛られる人たちの意見はスルー。私は、私の物語を書いて行く。

話が最初の、書評を書くのが得意な書評家に戻ります。恐らく彼らのほとんどが、文法、語法、美しい日本語などの概念を根っこに文章を見ています。恐らく意識的にも、無意識的にも。例えばの話、絶対音感を持つ人が、中途半端なギターのチューニングを聞いて、不快感を覚えるとします。それに近い感覚を書評家の方々はお持ちかもしれませんね。しかし正しい音程に収まらない沢山の音が生活の中には溢れています。絶対音感のある人がその音にいちいち反応したりはしません。絶対音感のある人が違和感を感じるのはあくまでも音程を外すターゲットに対してのみです。けれど子供の感性で考えたら、それはどうでも良い事です。なぜなら絶対音感を持っている人の音楽のルールを知らないし、どうでも良いからです。

例えば人が食料を買う。日用品を買う。CDを買う。本を買う。っていうのは体や心の渇きを潤すためですよね。その行為自体には、マナーはあれどがんじがらめにされた大人のルールや常識はあまり介在しません。

ここで、何故下手くそに書かれた書籍が店頭に並べられ、新聞記事に載ったかという話に戻ります。

手段はどうだって良い。人の感性に訴えかけたいと願えば良い。で、表現するにせよ、味わうにせよ、良いものは良い。

下手くそである事は、良く言えば、がんじがらめの常識から逸脱できる事とも言えます。人に伝えたい、訴えたい、その気持ちだけで十分なんです。本来であれば。結果的に伝わるなら。私たちは「人」ですので、感性に訴えられたらきちんと受容する機能を持っています。だから人は心を動かし、感性に訴えかける本に手を伸ばすと私は考えます。そこに、形式的な上手い下手、良し悪しは全く関係ないではないでしょうか。ですから真に自らが心地よく、他人に受け入れられる表現活動をしたいなら、

絶対に手段に囚われては行けない

のです。手段に正解はないのですから、とにかく、トライ&エラーを繰り返し、経験を積み、

とにかくアウトプット有るのみ。

です。

下手くそに書かれた本を出して、良識ある大人の世界にはまっている人に酷評されるかもしれません。けれども私の著書のように、普段本を読まない人やたった1人の小学生の心には響くかもしれません。

究極の選択です。あなたは自分のオリジナリティや感性を捨てて上手な文章と上品な物語を手に入れますか。それとも下手くそと罵られても自分のオリジナルを書きたいと願いますか?

良かったら、○費出版物で、店頭平積み、新聞沙汰になった私の著書を参考にして下さい。

『わたし、探偵になっちゃいました』

https://www.amazon.co.jp/dp/4344930398/ref=cm

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