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父とのキロク

2022年7月31日に父を看取りました。
83歳でした。
最後の入院となった同年5月8日からのことを備忘録としてなるべく時系列に書いていこうと思います。

主な病歴
心室頻拍(埋込み式除細動器あり)
2度の脳梗塞
肺気腫

最後の診断は老衰
もとになった病気は心室頻拍と肺気腫

入院前の様子
2度目の脳梗塞の後遺症で右手に不自由がありましたので文字を書くことは難しい状態でしたが、介護箸を使えば食事は自分でできていました。
歩行はゆっくりですぐ休みたがるくらいに体力も低下していましたが、トイレは自立していました。
デイサービスと訪問看護と訪問リハビリの介護サービスを受けていました。

2021年の秋頃からもともとあった咳や痰が増えて辛さが出てきたため、不整脈外来でお世話になっている先生から総合病院の呼吸器内科を紹介していただき受診することになりました。
それまでの数年間は不整脈のコントロールが父の治療の柱で通院の補助と薬の管理が私の役目でしたが、そこからは呼吸器内科での治療とサポートがメインとなりました。
肺気腫がベースにあり、炎症所見もみられたため(コロナは否定)咳と痰のコントロールをしつつ、検査をしつつ外来フォローをしていただくことになりました。

よくなったり悪くなったり慢性的な経過をとりながら数カ月が経った5月6日の外来(予約)では検査入院を勧められましたが、高齢なので入院は回避したいという希望を伝え、外来でのフォローを続けていただくことになりました。

その翌日の5月7日の夕方、40℃の高熱で動けなくなり救急外来を受診する事態となりました。
これまでの外来での経過もふまえ、なんとか入院は回避しましょうと言う方針で処置をしていただき、一度は歩いて帰宅したものの、翌5月8日に再び高熱で動けなくなり救急外来でまたまたお世話になることに…。

5月8日の昼間は落ち着いていて、元気に焼肉弁当を平らげたくらいだったのですが、救急外来では酸素飽和度もさがっていて酸素投与が必要となり「今日はもう帰せないから入院です」と言うことで入院になってしまいました。

私から今日はうちに帰れないから少しの間泊まりだよ、必ず迎えにくるから頑張ってね、と伝えて病棟に送り出したとき、父は「もう帰りたい」と小さく私に向かって言いました。
そのときの表情は忘れられません。

なんらかの感染を起こしている肺炎の状態(コロナは否定)で入院治療が始まりました。
抗生剤投与ですぐに熱はさがったものの、入院からほどなくして食事がすすまなくなり、徐々に内服もできなくなってしまいました。
5月24日には経鼻胃管を挿入したい旨の相談が主治医からありました。
そのときは体力を回復させて早く退院の方向に持っていきたいと考えていたので、こちらも承諾しました。
点滴や経鼻胃管の自己抜去を防ぐために抑制も承諾していました。
感染防止のためここまで面会も一切できませんでした。
父にとっては孤独で辛い時期だったと思います。
この頃の父はどんな気持ちだっただろうかと思うと今でも切ないです。

一方私たちは、父が家に帰るための我慢の時期だと己に言い聞かせながら実家の片付けを進めていました。
せっせと片付けて、介護ベッドや介護用品を置けるようにリビングにスペースを作り、父を家に迎える準備をしていました。

そうこうしていた5月25日頃、父は再び発熱して治療することになってしまいました。
誤嚥性肺炎という見立てでした。
その後も体力の回復はままならず、痰の量が多くて吸引も頻回に行われていましたので、状態から考えて主治医や医療相談員と相談した結果、在宅介護は一旦見送ってリハビリ病院への転院を目指すことになりました。

治療が落ち着くまでしばらくかかりましたが、6月16日にリハビリ病院に転院することができました。

転院のために約6週間ぶりに父を迎えに行って再会したとき、私たちはとてもショックを受けました。
覚悟はしていたものの、痩せ細って険しい表情をした父を見たときはやはりショックでした。
車椅子ではなくストレッチャーで出てきた様子にもショックを受けてしまいました。
入院により意欲も体力も低下し、父はすっかり廃用症候群の状態になっていました。
単語を発するのが精一杯で長く話すことは難しくなっていました。

そこから、まだ諦めずに在宅介護を目指す方針でしたが、またすぐに誤嚥性肺炎を起こしてしまいました。
転院先の主治医と家族の間で何度も今後のことについての話し合いが持たれました。
話し合いを重ねて、積極的治療はしない、本人の嫌がることはできるだけしない、という方針でみていただくことになりました。
そんな中でもリハビリは日々入ってくださっていました。
経鼻胃管は転院後すぐに抜去となりました。
自己抜去してしまったあと、嫌がっているのでやめましょうと言う判断になりました。
それに伴い経口薬も全て中止となりました。
嚥下ができなくなっていたので言語聴覚士によるリハビリも入ってくれていましたが、食事を再開できる希望はもうありませんでした。
お楽しみ程度に何か食べさせてあげると言うことも、食べさせれば確実に肺炎を起こすことが目に見えているため、やめておこうと言うことになりました。

点滴は家族の希望もあって続けていただきました。
父には「点滴だけやってもらおうね、ごはん食べられないから少し我慢して点滴だけやってもらおうね」と説得するような形になっていました。
父は布団にくるまって「うん、わかった」と返事をしてくれました。
最低限の補液だけでしたが、自己抜去を繰り返すので、本数を減らし、精神的に落ち着いている昼間のみの投与とだんだんなっていきました。
こちらの病院では抑制はしない方針だったので、父の尊厳を守ることと補液をすることを両立できるよう工夫してくれました。

この頃に点滴も中止していたら、もっと早く逝っていたかもしれませんが、1日500mLの補液のみとなってからも父はうまくバランスをとって生き延びました。

7月に入ってしばらくすると、精神的にも落ち着いてきて思考がクリアになり、会話が成り立つような時期が少しありました。
孫や弟に面会すると、寝たままですが笑顔で手を握ったり冗談交じりに短い会話ができるくらいの落ち着いた時期が2週間くらい続きました。
父が私の娘の名前を呼んで「こっちにおいで」とそばに呼び寄せたときの光景や、姉の息子の様子を「○○は?」と聞いてきたときのことをよく覚えています。

この頃に私たちは入院期限の60日がきたら家に連れて帰り看取る覚悟を決めて主治医にも伝えていました。
父が思ったより生き延びていたため、主治医から入院期間を有効に使うために(期間を延ばすために)一時退院をしてみてはどうかとの提案がありましたが、母が病院に戻すことがわかっていて家に帰すのはかえって酷だからできないと言うので、母の考えを尊重したいと主治医には伝えました。
それらの話し合いをするうちに父が期間を生き延びたら家で看取る覚悟を私たちは決めたのでした。
主治医もそれでいいと思いますと言ってくれました。

話し合いはいつも苦しく辛いものでしたが、病院側は父の気持ちを最大限くんで私たちにいつも提案をしてくれましたし、私たち家族が決断したことも決断できなかったことも尊重して寄り添ってくれました。
このことに私たち家族はとても感謝しています。
この病院に来られてよかったねと、面会を終えて帰るときに何度となく言い合っていました。

父には入院期限がきたら家に帰れるように先生にお願いしたよ、8月になったらね、と私から説明していました。
父は「それでお願い」と言いました。
そのときの父は少しホッとしたような表情に見えました。

7月18日、また誤嚥性肺炎を起こして発熱し、呼吸状態と意識の状態が徐々に悪化していきました。
7月20日、面会の終わりにまた明日来るからね、よく休んでね、と声をかけると父ははっきり「ありがとう」と言いました。
この後、言葉がだんだん聞き取りにくくなり、徐々に発語もなくなり、声かけに対してはうなづいたり目を開けるだけのようになっていきました。
それでもまだこのときは手を握り返してくれることがありました。

7月25日からは苦痛を和らげるために鎮静剤の投与が始まりました。
主治医からはあと2、3日になるか、1週間になるかはご本人次第ではっきりわかりません、付き添いをしませんか?と言う説明と提案がありました。
父とのお別れの日が近づいていました。

最後の数日間は主に私が泊まり込みで付き添いをしました。
最低限の補液と酸素投与は続けていましたが、亡くなる2日前には点滴も中止になりました。
痰の吸引は時々していただいていました。
鎮静をかけていましたが、そのときだけは顔を歪めていました。
亡くなる前日には吸引をしても反応しなくなりました。
私はそろそろだなと感じました。

付き添いを始めて5日目の夜明け前、7月31日の午前3時31分に父は息を引き取りました。
最後の晩は母と姉も呼び戻し3人でそばにいて、呼吸数がだんだんだんだん少なくなっていってやがて止まるまで、ずっとずっと見守っていました。
午前3時20分頃、呼吸数がガクッと減ったあとカッと目を見開いて2回ほど息を吸い込んだあと静かに呼吸が止まりました。
それから頸動脈の拍動が静かに止まりました。
その後当直医が最後の診察に来てくれて死亡確認となりました。
私たち家族は全てをそばで見届けました。

付き添いを始めてから父にはずっとここにいるからね、ずっとみてるから大丈夫だよ、安心していいよ、と声をかけ続けていました。
治療中は抑制や経管栄養など辛い処置を許可してごめんね、承諾したの私だけど許してね、と謝ってみたり、母と仲良くするしちゃんとみるから安心してね、と伝えてみたり、たくさん話しかけました。
父から返事はありませんし、手を握り返してくれることももうありませんでしたが、聞こえているかもしれないしいいやと言う気持ちでやたらと話しかけていました。

振り返ってみると、リハビリ病院に転院してからの数週間は、私たち家族が父を失うと言うことを受け入れるための準備期間であったように感じます。
最後の入院は父にとって辛いことも多かったと思いますが、転院してからは人数や時間の制限はあったものの毎日家族と会うこともできて、つかの間、穏やかな時間を持つこともできて、考えようによってはギリギリまで自宅で過ごすことができたという解釈もできるかなと言う最後だったので、在宅介護まで持っていくことは私たち家族にはできませんでしたが、いい最後だったと思います!という風にまとめて終わりたいと思います!

最後の誕生日、4月15日撮影。
8のローソクは来年も使えるねと話していましたが叶いませんでした。
それはちょっと残念かな。

お世話になった病院スタッフの皆さま、本当にありがとうございました。
父にかわって心から感謝申し上げます。

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何枚か撮ってこれが一番いい顔でした

2022年8月13日 おさかお


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