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振りかざさない「正義」

今日は考えたことをつらつら書こうと思う。

SNSが普及した現代。誰もが世界に向けて発信できるようになり便利になった一方で、弊害もあると思っている。いわゆる「主語が大きい批判」だ。

「みんなこんなのはあり得ないと思ってる。当たり前でしょ?」という雰囲気の刺激的なツイートが増えているように思う。今日は、こういった「振りかざされる正義」について考えてみる。思うままに書くができるだけ見易くなるように努力する。

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①単純化の魅力

私は、「人は定義を無意識に求めている」と思っている。

社会でのルールはしっかり定義があって然るべしと思うが、人の心や倫理観などはその範疇ではない。誰もそれを数値化出来ないし、全員に完璧に当てはまる定義はないと言っても良いかもしれない。

なぜ人は「定義」を求めるのか。多分「定義がない状態」が怖いからなんじゃないかと思っている。

「あの人を振り向かせるにはどうしたらいいのか」
「就活で絶対に失敗しない方法」
「人見知りを直す方法」
「嫉妬心をなくすにはどうすればいいか」
のような生活をハックする「方法論」がウケるのは、本能的に私たちがそれを定義したがっているからだと思う。

自分たちの心の動きを全て単純化して理解したい、という動きは哲学にも通じるのかもしれない。私は哲学に疎いので良くわからないが。

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②「正義」への過剰な信頼

人の価値観を単純化する行為は、魅力的であると同時に非常に危うい。

自分が手に入れた「定義」を盲信し、それを全員にとっての「正義」にしている人を良く見かける。

不登校の子供が「学校に行く必要なんてない!」という動画を配信しているのが賛否を呼んでいることを例にとっても、「自分は学校に行く必要なんてないと思った→みんなも行く必要ない!」になっているんだと思う。

そしてそれに対して「進んで不登校になるのはおかしい。親は何を考えているんだ」という言葉をSNSなどで公然と投げつける人は、自分の正義に夢中なんだと思う。

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③あなたはそう思うんですね

私は、全員の正義が単一である必要は全くないと思っている。

自分と異なる考えの人には「あなたはそう思うんですね」と思うだけにしている。私は正義で武装したくない。かといって意志なし人間になりたい訳ではない。

他人を批判せずとも自分の定義は主張できるはずで、それは「正義」で武器を作らず、道を作るようなイメージだ。

「あなたはそう思うんですね、でも、私はそうは思わない」という立場を取っていたい。

どこへでも発信できてどこからでも受信できる時代だからこそ、その中で、あくまで自分の考えを探すのは大事だと思う。

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④最後に

色々と書いたが、これが今の私の考えだ。

「単純化するな」と言うと、「それこそ定義の強要だろ」となるのであくまでも私の考えだ。

あ、あと、「〜する方法」などのライフハックを批判するつもりはない。私も結構読むし。研究に基づいていたり、多くの研究者に支持されているものは「そういうライフハックがある」という知識として仕入れているつもりだ。


色々と考えながら文章を書いたので頭が熱くなってきた。



あー。

全知全能になってみたいなー。

それでは。

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