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新入社員が会社に来なくなった日

会議室に皆を集めた支店長が言った。

「今朝まだ来ていないA君、親御さんも連絡が取れないそうだ」

その日は11月最初の火曜日で、A君は月曜日に有給休暇を取っていた。

金曜日の就業後「お疲れ様でーす」と言って職場を出て行く後ろ姿が、私が見たA君の最後の姿だった。

A君はその年の4月に営業職として入社し、名古屋に配属された新入社員だった。

ハツラツとした感じではなかったが、落ち着いた印象だった。

実家が名古屋だそうで、A君は実家から通勤していた。

新入社員は半年間事務所で事務仕事(電話応対や見積、発注)をして、10月から営業に出るのが通例だった。

A君は、当時の課長が担当していた客先を持つことになった。

課長は転勤せず10月以降も居ることが分かっていたので、時間をかけてゆっくり引き継ぎすることになった。

そして11月。課長からの引き継ぎも一通り終えて、そろそろひとりで営業に出るタイミング。急に会社に来なくなった。

そんな素振りに感づいていた人は、誰もいなかったように思う。

それだけに、最初はみんな気が気じゃなかった。

勿論それは、A君が無事かどうかが分からないからだ。

全く連絡がつかなくなったので、嫌な可能性も頭をよぎった。

結論を言ってしまうと、A君は無事だったし、その後一度も会っていないし、声も聞いていない。

私だけではなく、支店長を含めた名古屋支店で働く全員に、金曜日の「おつかれさま」から一度も会わないまま、A君は会社を辞めた。

この案件は秘密裏に本社に引き取られ、人事部が対応したらしい。

A君は有給休暇で作った三連休で東京に行き、そのまま帰って来なくなったらしい。

それ以上のことは何も知らされていない。



書類や文房具も机に放置されたまま居なくなったので、私と先輩でその中の私物を段ボールに詰めてA君の実家に送った。

数日後、A君の実家からお菓子と手紙が届いた。

手紙にはA君の親から「すみません」という内容の言葉が書いてあった。

「辞めるならせめて普通に辞めてくれ」と思った。

「親に謝らせてまで成人がやることじゃない」と思った。


結局辞めた理由も分からずじまい。
営業に出るのが嫌になったのか。
居心地が悪かったのか。
それとも他のやむに止まれぬ事情なのか。

私がもっと後輩付き合いをよくしておけば、居なくなったりしなかったのか。そう考えたこともある。

でももう結局分からないし、分かったところでどうにもならない。


彼は会社をバックれたことを不意に思い出して、自己嫌悪に陥ったりするんだろうか。

私は思い出す度に、すこしイラっとする。

彼と、自分自身に。

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