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見える見られる【短編小説】

 僕の頭の上に、数字が浮かんでいる。273

 鏡の向こうの僕の顔は、いつもと同じで間抜けだ。

 頭の上に数字が浮かんでいることは、驚きの対象ではない。

 歯を磨き、弟を叩き起こしてリビングに入ると母が朝食を作っていた。

 ふと、母が包丁を置き、弟に向かって怪訝そうな顔をした。

「あら、今日体調悪い?」

「え?」

「ダルくない?熱測ってみて」

 弟はリビングの棚、その定位置から体温計を取り出して熱を測った。

「37度だー。ちょっと怠いかも」

「今日は学校休みな。後で先生に言っとくから」

「はーい」

 弟はそのまま踵を返して寝室に戻った。小さく「やったー」と聞こえた気がするが、見逃してやることにする。

 母はテキパキと朝食を並べ始めた。机の隅には今日の弁当箱が2つ。僕と弟の分だ。

「好きなおかずあったら智弘の分も詰めてっていいからね」

「ん」

 出された朝食を食べながら、ぼんやりとした頭でニュースを眺めていた。ニュースを読み上げる男性の頭上には、游ゴシック体の『278,462』が浮かんでいる。

 僕は、まだこの数字が何を表すのか知らない。僕が見えるようになったのはつい最近のことだ。急に数字が視界に現れたのだ。誰にも相談しづらくてスマホで調べてみると、どうやら第二次性徴期になると見えるようになるらしい。

 それも例外なく、人類全員に見えるそうだ。

 何が見えるのかは個人差があり、自分の数字が何を表すのかは自分で探すしかないらしい。

 両親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、街ですれ違うお姉さんも、みんな何かを表す数字が見える。だとすると、なんで皆それを隠しているのか。理由が分からなかった。


 中学生になってから5ヶ月が経った。少しずつ新しい生活にも慣れてきて、クラスメイトそれぞれの立ち位置も決まってきた。

 クラスの真ん中で大声で話せるやつ、誰とも話すきっかけがなくて未だにそわそわしているやつ、4人でいつも一緒にいる女子。

 僕は、正直まだ立ち位置がわからない。

 自分から用事があれば話しかけるし、興味があれば会話に参加したりもする。ただ、そうでなければ基本的に傍観しているし、友達をたくさん作ろうと急ぐ気持ちは余りない。いつかできると思っている。

 今日も授業中、1番後ろの席から教室を見回してみんなの数字を確認している。

 田中は昨日から3増えて14,366
 浜崎は13増えて23,755
 横田は昨日と同じ9,902

 あまりに個人差が大きいので見当がつかないが、とりあえずここ数日の数字をノートにメモしてみている。今のところサッパリだ。

 そして真壁は、112,390。このクラスで一人だけ異常なくらい数字が大きい。色素が落ちたのか茶色がかったオカッパ頭で、目が少し細長いクールな印象の女子だ。ほとんど喋っているところを見たことがない。

 僕が見えているのは一体なんの数字なのか。

 心拍数や視力、珍しいものだと生きている頭部の毛根の数など、本当に多種多様な「見える数字」があるらしい。しかし調べた中に該当は無いようだったし、今のところ分かっている確かなことは、僕が見える数字は1ずつ増え、減らないこと。

 Googleみたいに誰かが教えてくれたら楽なんだけどな。

 ぼんやりしかかったところで、先生(数字は130,442)の声が急にカットインした。

「朝日君、朝日君。答えわかりますか?」

「あ……あー」

 授業は何も聞いていなかったのでもちろん答えは分からないし、今何の答えを求められているのかも分からない。

 クラスメイトの「あーあ」みたいな視線を感じる。

「あ、分からないです」

「あら、しっかり授業聞いててくださいね。私の授業では良いですけど、他の先生だともっと厳しく怒られますよ」

 眼鏡をくいとあげた若い小太りの先生(130,442)の数字が、1増えた。


 放課後、帰宅部の僕は閑散とした廊下を歩いて玄関に向かっていた。

 初めはどこかの部活に入るつもりだったが、少し興味があった放送部もあまり楽しくなさそうだったので、両親に「入りたい部活がなかった」と正直に言った。

 お母さんは「せっかくだから何か入れば?」と言っていたけど、最終的には僕の希望を通してくれた。かといって、学校以外何も活動しないのも勿体ないので何か習い事でも、という話になった。

 正直億劫だったが、音楽には興味があったのでピアノを習うことにした。練習は面倒だけど、自分の身体で音を鳴らしている感覚は悪くなかった。

 今日はピアノレッスンがない日なので、朝読書で良いところまで進んだ小説を一気に読んでしまおう、と思っていた。

 玄関に着くと、ちょうど真壁が靴に手を掛けているところだった。真壁の数字は変わらず112,390だ。

 真壁の数字が多い原因が分かれば、自分が見える数字の意味が分かるかもしれない。そう思った時には、声を掛けていた。

「帰るの?」

 玄関にいるんだから、帰るに決まっている。

 真壁は少し驚いたようにこちらを一瞥し、周りを見回した。

「私に言ってる?」

「ああ、うん」

 自分の顔は見えないけど、顔全体が少し暖かくなったような気がする。

「えっと、名前は……」

「あ、朝日。真壁も帰宅部なの?」

「まあね。部活とか興味ないから……」

 外靴に履き替えている真壁の頭の上の数字が1増えた。

「朝日君。あんまり人の数字ばっかり見ない方がいいよ」

「えっあ、ごめん」

「まあいいや、じゃあ」

 真壁は立ち上がって、校舎の玄関を抜けていった。ピンと一本線の通った姿勢の良さだけど、どこかその背中は小さく見えた。

「ちょ、ちょっと待って」

 僕も急いで靴を履き替えて真壁を追いかけた。

 偶然家の方向が同じだったので、結局真壁と並んで下校することになった。今まで自分一人で下校することが当たり前だったので、やけに緊張してしまう。

 夏の暑さも相まって、掌にじんわり汗が滲む。

「朝日ん家、数字の話はしないの?」

「みんなするもんなの?」

「もちろん、話すのは親の義務だもの」

「え、なんで」

 不安が胸を掠めた。僕の両親は僕に教えなきゃいけないことを隠しているのだろうか。疑いたい訳ではないけれど、自分が教えられていない事柄が世間では当たり前の常識なんだとしたら少し嫌だな。

「例えば、“自分への信頼度”が数字で見える人が居るとして、周りの人は【信頼度を見られている】と分かっていても、普通に接することができると思う?」

「……できないの?」

「無理だよ。人間から嘘を取ったら、関係は破綻しちゃうの」

「なんか、すごいな」

「は?」

 少し威圧的な声だったので体をビクつかせてしまった。脇の辺りが少し熱くなった。

「いや、そんなこと考えたこと無かったから。大人なんだなと思って」

「……そんな良いことじゃないよ」

 そこから何となく話しづらくなって、2人でただ黙って歩いた。

 だけど、そんなに気にならない沈黙だった。


 それから、帰る時に遭遇した時は途中まで一緒に下校するようになった。寄り道したりすることもなく、ただ、何でもない話をしながら。

 僕(301)は、自分が見えている数字の正体が分かった。でも誰にも、両親にすら伝えていない。伝えてはいけない、と判断したから。

 制服の上にコートを着て、2人してマフラーに顔を埋めながら並んで歩いていた。昨日少し降った雪が溶けて、シャーベット状になっていた。排気ガスと混ざって浅黒くなっている。

「ねえ朝日、今日私何か違うところがあると思わない?」

 真壁(119,286)が不意にそう言って、歩きながら横に一回転した。

「ヘアピン」

「お、流石。どう、これ」

「それも良いと思うけど、僕はいつもの方が好きだな」

「はあ、今はこのピンを褒めて欲しかったんだけど」

「あ、そうなのか、ごめん」

 寒さのせいか、耳を真っ赤にした真壁(119,287)は僕から目を逸らした。

 真壁の頭の上の数字は毎日増え続けている。でも僕はその瞬間をあまり見ていない。いつ増えているんだろう。

 そして、真壁と居ることで一つ気付いたことがあった。

 僕はどうやら空気が読めないらしい。自分が思ったことが、脳から口の最短ルートで発射されるようだ。どおりで話しかけても友達になれない人が多いわけだ。

 でも真壁はこうして仲良くしてくれている。何でだろう。

「真壁はさ、何の数字が見えるの」

 つい口を突いて出てしまった。

「えっ」

 今なら訂正すれば間に合うと思ったが、そうしなかった。事実真壁が何を見ているのか気になっていたし、あわよくば教えてくれるのではないかと思った。

 2人の間で共有できる秘密が欲しかったのかも知れない。

「それはちょっと、教えられない。絶対……」

「あ、そう」

 決して機嫌を悪くしている訳ではない。ないはずなのに胸の内に雲が掛かったような、濁った水が体に入ったような嫌な感じがした。顔にも出てしまったかも知れない。

「あ、ちょっとまって、待って待って待って!」

 真壁が、僕、ではなく僕の頭上を見てあからさまに狼狽した。

 僕がギョッとすると、真壁(119,287)はさらに慌てた様子で「どうしよう」と何度も呟きながら立ち止まってしまった。

 僕も真壁の横で立ち止まって、彼女の顔を覗き込むと、彼女は顔を真っ赤にして泣いていた。普段理知的な真壁が泣くところなんて初めて見たし、もっと言えば女子と2人きりで泣かれることも初めてだった。

「どうしたの?」

 恐る恐る訊いてみるが、真壁は一向に喋り出さず、たまに鼻を啜るだけだ。

 こういう時どうすれば良いのか、全く経験がない僕は参っていた。何か飲み物とか買ってきた方が良いのか? 横に突っ立っているだけで良いのか?

 震えている真壁の肩に手を置こうとしたけど、何だか息苦しくなったのでやめた。

「……ないで」

「え?」

「嫌わないで……」

 涙を瞳いっぱいに溜めた真壁は視線を僕、ではなく僕の頭上の数字に向けた。

「どれくらい好かれているかが見えるの! 今、朝日がどれくらい私のことを好きなのか見えるの! ああ、待ってそんなに減らないで……おねがい……」

 真壁(119,287)は溶けかけの雪の上に膝を突いて小さくなり、嗚咽を漏らし始めた。

 静かな帰り道に、真壁の嗚咽が小さく聞こえる。僕は何もせずに立ち尽くす。そんな時間が少しばかり流れた。

「ごめん。僕が変なこと訊いたせいだ。ビックリしただけで嫌いになんてなってない。本当に」

 今度はしっかりと真壁の肩に手を置いて、真壁の横に僕も屈んだ。

 周りに誰も知り合いがいないことを確認するために、首を左右に振った。

 開店時間前の薄暗い焼肉屋の窓。僕と真壁の姿がそこに映っていることに気付いた。

 僕の頭の上の数字が、下校前から1増えている。


 どうやら僕(302)は、真壁に初めて嘘をついたらしい。

無理は言いませんし、そう簡単に得られるとも思っていませんが、サポートしていただけたらそのお金で買ったことのない飲み物を買います。