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◆読書日記.《ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論 他十篇』》

※本稿は某SNSに2019年9月5日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論 他十篇』読了。

ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論 他十篇』

 ユダヤ系ドイツ人・ベンヤミンは文芸批評や芸術批評、社会批評、思想/哲学、翻訳など幅広い分野で執筆活動をした知識人として有名。

 彼の代表作と言えばやはり「複製技術時代の芸術」と、本書の一編「暴力批判論」だろう。

 岩波文庫のこのベンヤミン短編集では、1巻~2巻を通じて様々なベンヤミンの論文を紹介する事で、広範なベンヤミン思想を概観できるようにしようという試みで編まれたシリーズ。

 第1巻である本書ではベンヤミンの作品の中でも「暴力批判論」を中心に1933年までの諸文章を収めている。

◆◆◆

「暴力批判論」は初めて読んだのだが、初めから翻訳が固すぎて取っつきにくいし、何を言おうとしているのかがなかなか飲み込めなくて、さほど分量が多くないのに読むのに時間がかかってしまった。

 言っている内容は若干時代を感じさせる古さはあるし、正直頷けない部分も多かったのだが、方法論はなかなか面白いと思う。

 どうやらベンヤミンの特徴的な考え方のひとつには、物事の根源までさかのぼって考えるというのがあるようだ。
 根源までさかのぼって、元々の意味を突き止めようというわけだ。
 こういう方法論がベンヤミン思想を未だに読み継がれる、古びにくいものにしているのではないかと思った。

 中でも特に「法措定的暴力」という造語はちょっと面白いと思った。

「暴力」というのはある意味分かり易く「己の権力を行使する」事なのかもしれない。
 法律が無い所で行われる「暴力」は「俺が法律だ」という当人の意志を行使し、それを他人にも強制できる。つまり「権力」だ。その権力は他人にルールを強制できる。

 無法状態にあっては、暴力を行使できる人間や集団が「暴力」によって「ルール」を措定し、行使する事が出来る。つまり、それが「法措定的暴力」だ。

 そして、成立させたその己の権力やルールを保ち続けたい人間や集団が、暴力を使ってそれを維持しようとする。それが「法維持的暴力」となる。

 例えば、不良少年がイジメられっ子に対して「毎日一回、俺が指示した店で万引きしてこいよ」と迫るとすれば、そこに不良の暴力による脅しによって「法措定的暴力」が発生する。
 イジメられっ子がそれを拒否しようものならシメて言う事を聞かそうとする「法維持的暴力」が行われる。

 ……というのが個人的な暴力のお話で、これが集団レベル、国家レベルになるとベンヤミンの「暴力批判論」に発展するわけだ。

 ベンヤミンはこの論文で権力を握っている国家だけが暴力を独占する事ができると主張するのだ。つまり「法措定的暴力」と「法維持的暴力」を公的に持っているのが国家だということだ。

 国家は暴力を独占しているのだと言う事。
 国家だけが自ら暴力を振るうのを許可しているのは、国家が代表して正義の裁きをしようとしているからではなく、自分以外の存在に暴力という「権威」を与えたくないからだという国家の深層意識を、本論では国家成立のロジックまで遡って説明しようと試みているのだ。

 ベンヤミンはこういった国家の独占する「法措定的暴力」と「法維持的暴力」を、正義の正当な維持や秩序の維持といった理由ではなく、ヘゲモニーとしての国家の権力宣言、ベンヤミンの言葉を借りると「神々のたんなる宣言である」ということで「神話的暴力」と名付ける。

 国家の暴力は、支配的/支配神話的暴力なのだ。

 これは恐らく、西洋史的に言って元々権力の暴力というのは、王侯貴族が独占していた事を想定して付けている名称なのだろう。

 それに対して国家的暴力と対置する革命的暴力としての「運命的な暴力」――自らの信じる正当な正義を行使するために国家に対して行われる暴力を指して、ベンヤミンは「神的暴力」と名付けた。

 つまり、ベンヤミンが本論で言いたいことは「国家の独占する暴力」というのは、出自をさかのぼっていけば正義でも秩序維持でも何でもなく、自らを守り権威付けする「神話的暴力」から出ているものだ、という「国家の暴力装置批判」という意味合いがあったのだろう。

 ベンヤミンは本論で国家暴力の廃絶を訴えるが、暴力そのものを否定していないというのが奇妙な点でもある。

 彼は何と「生命ノトウトサ」を「ドグマ」だと言い切るのだ。
 つまり彼は「正義」と「人命」を天秤にかければ「正義」のほうが尊いと考えるわけで「生命ノトウトサ」については「虚偽で下劣だ」とさえ言うのだ。
 そういう「一般的暴力論」のケースになってくると、どうもぼくはこの人との感覚とは違うんだよなあと思わざるを得ない。

 だが、「国家が暴力を独占している」というのは同意できるし、それは「正義」や「倫理」を根拠に成立しているわけではなく、あくまで国家を支える支配権力を根拠にしているという点では納得できる。

 ベンヤミンの生きていた時代は20世紀初頭という、西洋では二度の世界大戦を経験しなければならない辛い時代だった。
 しかも彼はユダヤ人として晩年、ナチという国家的暴力に追われ、最終的に逃亡中に自殺している。
 彼の暴力観には、まだ「国家的暴力に対抗する革命的暴力」に希望が持てた時代の影響があるのではないかと思うのだ。


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