◆読書日記.《ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』》
※本稿は某SNSに2020年11月7日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』(小田嶋雄志/訳・白水社)読了。
……という訳で今回はいつもとは思いっきり傾向の違ったものが読みたくなったので、普段まず読まない戯曲に手を出して見た。とは言え三島由紀夫も安部公房も戯曲を書いているので、全く読まないという訳ではなかった。
しかし、自分としてはいかなる「名作・傑作」と言われているものであろうと、興味のないものを義務感のみで読む気はないので、無論の事シェイクスピアだろうとゲーテだろうと読む事はなかったのである。
そんなわけで中学~高校時代もいわゆる名作文学やら純文学やらといった優等生が読んでいそうなものを軒並み回避して、夢野久作だとか横溝正史だとかいったオドロオドロしいものばかり読み耽っていたものだった。
しかし、最近になって本作のようなベタベタな名作文学も読むようにはなってきた。
そういう名作なんかは「文学作品」としての価値以外にも「ネタ」として他の文章に流用することも出来る。
「ネタ」というのは例えば『オセロー』くらいのメジャーであれば、罵倒する際にも「お前がいかにイアゴー的なクソ野郎なのか詳細に分析してやる」などと罵倒すればいちいちイアゴーが何なのか説明しなくとも分かってもらえる(※再録時注:たぶん山口雅也のキッドピストルズシリーズに出てくるネタである)。
また、シェイクスピアくらいのメジャー・タイトルともなれば西洋古典絵画等でも題材になっている事がしばしばある。
シェイクスピアは黒沢映画の原案にもなっているので、そういった作品を見る契機となる場合もある。丁度そろそろ『蜘蛛巣城』や『乱』なんかを見ようかと思っていたところでもあったし。
閑話休題。
という事で本作は西暦1600年辺りに書かれた文豪の戯曲。
1600年あたりと言えば日本で言えば江戸時代の寛永年間である。この頃の西洋の戯曲と言ったら、日本で言えば歌舞伎の台本みたいなものか。
という事は現代的な感覚で作品の良し悪しをああだこうだ言ってもあまり意味はないかもしれない。
物語は11世紀スコットランド王マクベスを題にとったフィクションである。
いちおう粗筋を説明すると、戦場で著しい成果を上げて自陣に戻るスコットランド軍の将軍、マクベスとバンクォーは、荒野にて三人の魔女に出会う。
魔女らはマクベスにコーダーの領主になる事、将来スコットランドの国王になる事などを暗示して消え去る。
マクベスはその後、本当にコーダーの領主に任ぜられることになり、魔女たちの言葉を意識し始める。
マクベスの野心を察したマクベス夫人は、夫を挑発して現スコットランド王ダンカンを暗殺するよう勧める。
果たして、マクベスはダンカン王の暗殺を成功させた後、その罪をダンカンの息子たちに擦り付けて自らは国王の座に就く。
だが、マクベスやその夫人は、それから疑心暗鬼や罪の意識に苛まれ、国内外の復讐者の存在に悩まされ始めるのだった。……というお話。
という事で本作は中世スコットランドの史実を基にしてアレンジを加えた物語で、スコットランドの将軍であったマクベスが奸計を働いてダンカン王を暗殺し、自ら王位についた後、彼が亡くなるまでの半生を描いた物語という事ができるだろう。
そういった物語の大筋は史実に基づいているが、その上でフィクション的なアレンジが施されている。
その著しい特徴は何と言っても魔女の予言がきっかけで運命を変えていってしまう登場人物の動機付けであったり、マクベスの罪の意識を「幻影」や「亡霊」が煽り立てたりという、幻想小説的な道具立てであろう。特に本作の幻想的な味付けはぼく的にも好みのたぐいだ。
マクベスは魔女の予言がきっかけとなって夫人に自分の大胆な野心を告げる事となる。
また、彼の部下バンクォー暗殺の動機となったのも魔女の予言にあった。
その後マクダフの城を奇襲し暴君へと陥っていく様々なきっかけに「魔女」が関わっている。
つまり、マクベスの動機面には魔女が深く関わっているのだ。
ラスト、マクベスを慢心させてマクダフとの一騎打ちにまで追いやっていくのも、マクベスが魔女たちの言葉を信じていたからだった。
つまり、本作の「マクベスの動機面/心理面」には史実ではなくフィクション面での仕掛けが大きく関わっているというわけだ。
本作に出て来る「幻想小説的な仕掛け」のほとんどは、マクベスのみに関わってくる。
マクベス以外にそういったものに関わるのは、第一幕でマクベスと一緒に魔女の予言を聞いたバンクォーのみ。
その後に出て来る亡霊やダンカン暗殺前の幻や洞窟の中で魔女たちに見せられる幻影等は全てマクベスのみに関わる。
つまり、穿った見方をすれば、本作に出て来てマクベスをそそのかす「幻想小説的な仕掛け」は、荒野で出会った魔女の予言をきっかけに巻き起こる「マクベスの精神の暗黒面の表現」という見方もできるだろう。
要はセリフ劇である戯曲の仕掛けとして、内面ドラマの分かり易い具象化としての「魔女」だったのでは、という風にも思えるのである。
本作は、マクベスが徐々に暴君へと陥っていく心理的なプロセスを、魔女の予言や剣の幻影、暗殺した者の亡霊、魔女の見せる幻影といった幻想小説的な道具に象徴させてつくらせた「暴君に頽落していくマクベス心理の象徴劇」だったのかもしれない。
しかし、本書を読んでいて若干残念に思えたのは、翻訳の柔らかさである。
この白泉社版の『マクベス』では、翻訳の仕方がかなり柔らかく「平易さ/分かり易さ」を重視しているようで、確かに読み易さは抜群なのだが、いかんせん文学的な雰囲気に欠ける部分が見られるのだ。
原著は韻を踏んだ詩調のセリフ回しであったようなのだが、以前紹介した菅谷規矩雄『詩的リズム 音数律に関するノート』にもあったように日本の言語は音韻論的に言えば「等時的拍音形式」なので、そういった韻音の雰囲気を出すにはラップのような脚韻にするか75調にするなどの方法があるのだが、本書の場合だと75調で表現したらしい。
しかも、なるべく平易な表現を選んでいるので、どうにも歌謡曲のような軽くて柔らかい読後感になってしまっている。
これは確かに学生でも読めそうな手軽さだが、品格に乏しいのは惜しい所だ。
本作は上述したように17世紀に成立した作品なので、例えば擬古文調のほうが雰囲気がでるのでは?とも思う。
文学の翻訳の難しい所は、外国語知識のみならず少なからず文学表現的な素養も必要となる所だろう。
昔シェイクスピアは坪内逍遥なんかも翻訳していたようだが、翻訳小説はそういった翻訳表現の違いといったものも楽しむ事ができそうにも思える。
同じ作品でも、翻訳者によって作品の雰囲気はけっこう変わるものである。一粒で二度美味しい。やはり、こういった名作文学を読むと言う事は、コスパがいい読書なのかもしれない。
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