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◆読書日記.《古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』――シリーズ"ハイデガー入門"8冊目》

※本稿は某SNSに2020年9月4日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』読了。

古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』

 広島大学大学院教授であり哲学者の著者によるハイデガーの思想の解説本。
 これの内容は「入門書」とは若干違っているようだ。あくまで著者によるハイデガー思想の独自解釈・独自展開を志向するものらしい。

◆◆◆

 ハイデガーの言い回しは非常にややこしくて持って回ったような言い方をしていて、ハッキリと物事を言わない。
 それは時として「山師ではないか?」と批判されるほど、どこか謎めかした雰囲気で仄めかしたり暗示させたりするので、茫洋として意味がつかみ取りにくいのである。

 何故そのような語り口を選んでいるのか? 本書の前半では、その謎に答える内容となっている。

 ハイデガーの語りの「謎」について著者は、ハイデガー自身が「形式的指標」が自分の語り方の方法であると説明している点に注目している。

 「形式的指標」というのは、わざとナチュラルなロジック論法を崩し、直接語らず、ズラす事によって、型にはまった思考方法の変様を迫るような語り口なのだそうだ。

 我々は普通、物事を理解しようとするとき、自分の今まで学んできた考え方や概念、常識や先入見に当てはめて理解しようとする。
 それを「形式的指標」は拒否するのである。

 これまで我々が通常選んで使っている馴染んだ考え方や言葉を使うのならば、思考もそれまでの考え方をベースにそれを接ぎ木していくという方法に陥り易くなる。
 ハイデガーはそれを拒むのである。

 ハイデガー思想の根本は「伝統的西洋思想の転覆」のために、これまでの思想・哲学を覆して行って、アリストテレスの時点まで読者の考えを遡行させる事にある。
 だからハイデガーは読者の持っている「西洋の伝統的な」先入見を読者自らが回避する事を要求するのである。

 それまでの西洋の伝統的な思考方法から逃れ出て、読者自らが頭の中で考えて解くよう思考変様を促すために、ハイデガーは「形式的指標」という言説方法を選ぶ。

 新たな概念を単語の段階から吟味し、逆説的な言説を駆使し、読者の脳を常に刺激しながら、読者自らが答えを出すための「道」を整える。

 だから、語り口が直接的に「答え」を示唆するものにならず、茫洋としたイメージの語りとなり、難解で持って回ったような言い方になる。
 それがハイデガー的な「形式的指標」というものの語り方なのだという。

 ハイデガーの自筆遺文には「道。著作ではない」と書かれているのだそうだ。
 ハイデガーの著作や講義は、自分の考えを視聴者に押し付けるものではなく、ハイデガーが設置した「ある地点」へ至る「道」を示しているのである。

 ハイデガーがやっている事は、読者が自分の力で答えに至るための道を整備しているのだと。

 著者は次のような比喩で説明する。

 水泳とはああだこうだと、泳ぐ前に教えたところでなんになる。海はこんな場所だと、口をきわめて言葉にしてなんになるのだ。
 そんなことより、海がどういうところか、水泳がどんなことか、最低うかがい知ることができるインデックス(指標)をあたえ、泳ぎ方を教えればおしまい。あとは直接、海に飛び込んで泳ぎなさい。そして、じかに海を味わったらいい。(本文より引用)。

 説明は最低限にし、それで「海に入れ」という。

 だから、示唆的であって直接考えを開示せず、仄めかしのような婉曲的な表現になっている、という事なのだろう。それが「形式的指標」という言説の方法というわけだ。

 著者がハイデガーの「形式的指標」という考え方を冒頭に念入りに説明したのは、ハイデガーの「結論」を著者が代わって言う事にはあまり意味がない、とそれを理解してもらうための説明だったのだろう。

 そう言えば先日読んだ細川亮一『ハイデガー入門』も、ハイデガーの『存在と時間』は、他人の「要約」を見て理解した気分にならず、とにかく自分の目で直接読んでみて自分で考える事を推奨していた。
 ハイデガー思想は「知る」ものではなく「考える」ものなのだ。
 そのために本書も、ハイデガー思想の「要約」をそのまま記載するという形式にはなっていない。

 例えば細川亮一『ハイデガー入門』が「ハイデガー『存在と時間』を読むために誤読や誤解しやすい単語や概念を説明する事で、読者自らが『存在と時間』を直接読む事ができるようにするための道の整備をする」というコンセプトで書かれていたのに対し、本書はハイデガー思想に則って、著者自らがハイデガー思想を踏まえて著者なりの具体的な独自解釈を例示する事によって自分なりの「存在理解」を提示する、というコンセプトになっている。
 その結論としてハイデガーの思想は「存在神秘の哲学」だと主張しているのである。

◆◆◆

 著者は、ハイデガーが敷設した「道」を自分が実際に歩いて見せる事によって、読者にも「ハイデガーの道の歩き方」を示しているのである。
 本書は、そんな「ハイデガー思想案内」と思えばいいだろう。それが、ぼくが「入門書」とは若干違う、と言ったわけである。
 著者なりの独自解釈が入るので「これがハイデガー思想だ」とは言い切れない内容になっているのだ。

 だからだろう、AMAZONレビューなどでは、ハイデガーを勉強している学生などからの評価はけっこう辛めだ(笑)。

 という事で本書で著者はハイデガー思想に寄り添いながらも、必ずしもハイデガーが言っていない事や必ずしも考えていなかっただろう事も含んだ著者なりの「ハイデガー的な存在への問い」を自ら問うている内容になる。
 だから、ハイデガー初心者がいきなり本書から読み始めると若干の誤解を受ける事になるかもしれない。
 だが大枠は外していないのでではないかと思われるので、これはこれで面白い存在論となっている。

 本書での最も重要なスタンスは「存在神秘」という概念だろう。

 やはりハイデガーの「存在への問い」の発端となった「驚きのパトス(プラトン)」とは「なぜ"無"があるのではなく、むしろ或るモノが"存在"するのか」であったと言って良いだろう。

 著者的には、ハイデガーは特に『存在と時間』の当初の構想として、この「存在者が存在する」という単純な事実が、いかに驚くべき事なのかというハイデガーと同じ発見まで読者を導きたかったのではなかろうかと、考えて論を進めるのである。

 なぜ存在者(モノ)は存在しているのか? その根拠は?――根拠はない。

 目の前に落ちている石は、なぜ「ある」のか。
 この地面はどうして「存在」しているのか。
 自分はなぜ今まさにこの世界の中に生きて考えて、生活をしているというのか。

 「存在すること」に、必然的な根拠などはないのである。

 世界が「無」でなく「有」である事の、この根拠は?――あるとしても、その究極の根拠を遡っても、カント的なアンチノミーに陥ってその根拠など証明することはできない。

 つまり、存在に根拠はない。無根拠で、なぜかいつの間にやら世界の中に放り出されている。

 無くなること、破壊される事、無に帰する事は、熱力学の第二法則、エントロピーを考えても自然な事だ。
 だからこそ「存在していること」「存在すること」そのものが「驚くべきもの」として我々に迫ってくる。

 そういった「存在する事のあり得なさ」を称して、著者は「存在神秘」という表現を使っているのである。

 自分は存在している。そして、世界も何の疑問もなく存在している。
 目の前にある石も、あたりまえに存在している。その事に全く何も疑問も持たずに我々は生活をしている。

 著者的には、その「あたりまえ」の読者の感覚に揺さぶりをかけ、ハイデガー的な「存在への問い」の道へと導いているのである。

◆◆◆

 惜しいのは、ハイデガーの代表作ともいえる『存在と時間』が三分の一の時点で未完に終わり、「現存在(人間)の存在」に関する考察までで中断してしまった事にある。

 「現存在」の存在に目を向ける方法の一つとして、ハイデガーはテンポラリテート(時間性)を導入した。歴史や死を踏まえた現存在の存在把握。

 「存在する」という事は、単純に物体を分子に分解して理解して終わったり、哲学的意味付けをして満足するという事だけには収まらない、驚くべき事実である。

 現存在も、それは同じである。存在へ視線を向けるための前段階のために、『存在と時間』でハイデガーは「現存在」に目を向けた。

 それが、WWⅠによって人間の尊厳を滅茶苦茶に破壊されたアプレゲール青年らによって「実存の根拠づけ」と映った。

 そういった「誤解」が、不幸にもハイデガーが誤解される原因にもなったし、逆にハイデガーが20世紀初頭という時代に大きな影響を与える原因にもなった。

 ハイデガーが読者に目を向けさせたかったのは「実存」ではなく、その先にある「存在」であった。
 そこに導き入れるためにハイデガーは『存在と時間』という大きな「道」を作ったはずだったのだ。

 だが、残念ながらWWⅠ後のアプレゲール青年らは、ハイデガーの道の上でわき道に逸れて行ってしまったようだ。

 その脇道から大きな流れを作っていったのは明らかに戦後のサルトルの無神論的実存主義的な思想だっただろう。ヤスパースの神学的実存主義もハイデガーの影響下にあったと思われる。

 ハイデガーは更に「ナチ加担」という大きな失敗を犯す事で沈黙の度合いを深めたようだ。

本書は、ハイデガー思想を著者なりのやり方で歩みなおす事によって、そんな「誤解されたハイデガー思想への道」を再び「存在の神秘」へと修正する試みである。

 という事で結構な独自解釈であったりいささか文学めいた表現がされていたり、という難点も見えるものの、ハイデガー思想を案内して分かり易く解説してくれる本として、「入門」の次ステップ的な立ち位置と考えれば、本書もわりとユニークなスタンスの本だったのではないかとも思えるのである。


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