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◆読書日記.《フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ『ツァラトゥストラ』+副読本2冊――シリーズ"ニーチェ入門"9~12冊目》

<2021年5月2日>

 本日からいよいよ今年のニーチェ研究の本丸『ツァラトゥストラ』上下巻(光文社古典新訳文庫版)を読み始める。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』上下巻

 ただ、以前から言っているように、ニーチェの文章自体はさほど難しくない。その受け取り方が難しいのである。だから、読み終わっても意味が分からない場合が多い。

 何しろこの『ツァラトゥストラ』は様々な暗喩や寓意、象徴的な出来事、何かを暗示させるようなエピソード、詩、歌、スピーチ等々、様々なスタイルで読者に「謎」を投げかけるからである。

 そこには逆説的な言葉も多く、また不道徳とも思えるような言説が出てきたたりと、様々な部分で読者を混乱させるのである。

 こういった様々な形式を盛り込み、散文や韻文、詩、対話、独白、パロディなどのごった混ぜが『ツァラトゥストラ』という物語哲学のスタイルなのだが、これは哲学の伝統からは大きく外れるスタイルとは言うものの、全くのニーチェの独自のスタイルというわけでもないらしい。

 こういったスタイルは西洋では「メニッペア」あるいは「メニッポス的風刺」という文学スタイルがあるのだそうだ。
 メニッペアは古くは古代ギリシアのメノッポス(紀元前三世紀)に始まる伝統的な文学スタイルなのだが、正当な文芸と言うよりかはサブカルチャー的な「二流の文学」とされていたのだという。
 真面目とも冗談ともつかない荒唐無稽な話があるかと思えば話は前後で矛盾していたりもする。
『ツァラトゥストラ』と同じように散文や韻文、詩、対話、等がごた混ぜで「混合散文」とも呼ばれていたらしい。

『ツァラトゥストラ』という本は元々そういった、読者を煙に巻く特性を持っていたものなのである。

 この『ツァラトゥストラ』は、様々な風刺やパロディや悲劇喜劇をその中に混ぜ込んでいる。
 おそらくニーチェがパロディを用いて風刺したかったものの中心は何と言ってもキリスト教的伝統思想であり、キリスト教的な道徳であったのだろう。

 この『ツァラトゥストラ』が、多くの学者がニーチェの主著だとしているのは、永劫回帰や超人思想、キリスト教道徳批判等、ニーチェの主要概念のほとんどを網羅しているだけではなく、「メニッポス的風刺」という、西洋では傍流とされてきた文学スタイルをあえて採った挑発的な姿勢があまりに独自だったためなのだろう。

 因みに本書は以前、上下巻通して通読しているため、今回は正式には再読という事となる。
 が、当時は『図解雑学ニーチェ』というニーチェ解説本のみを読んで挑んだ事と、上のように「読者を煙に巻く」タイプのスタイルのために、筋は分かったが、細かい寓意の意味が取れない場合が多くて消化不良に終わったのだ。

 という事で、今回は何冊もの入門書・解説書を事前に読み、後で紹介する2冊の副読本を用意して準備万端なうえに読み始めたわけである。いざ、いざ!

◆◆◆

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』の「前口上」には、主人公のツァラトゥストラが、蛇を巻き付けて飛ぶ鷲の姿を見て「鷲も蛇も俺の動物だ」と言うシーンがある。

「太陽の元で一番プライドの高い動物と、太陽のもとで一番賢い動物だ」というのだそうである。

 これについて哲学研究者の村井則夫面白い指摘をしている。

 J・D・ミューリウス『黄金の解剖学』に「鷲と蛇を世界の二原理として示した図像」があるのだそうだ。
 これは錬金術的な思想で二元論なのである。鷲は猛禽類として「空」を表し、蛇は毒を持つ賢い動物(蛇はキリスト教でも人に知恵の実を与えた動物である)として「地」を表す、天地の両雄と考えられている。

J・カメラリウス『象徴と寓意』

 画像のものはJ・カメラリウス『象徴と寓意』に出てくる対立しあう鷲と蛇が絡み合う図像。これはしばしば「勝利のない戦い」つまりは「共倒れ」等といった意味で使われる寓意画である。だが、村井則夫によればこれを「ニーチェはこのイメージを、逆に融和と総合の象徴へと転換している」と説明する。
 ニーチェの「前口上」に出てきたセリフは、これを意味していたようだ。

 因みに善悪二元論のゾロアスター教でも、鷲は善神アフラ・マズダを表すものだし、蛇は悪神アーリマンを表す動物だとされているのだそうである。

 村井則夫によれば、この他にも様々な神話や宗教で鷲を天空を象徴する「光」の動物とし、蛇を大地や冥界を象徴する「闇」の動物とするものが多いのだという。

 ここではたと気づいたのが、西洋の「ドラゴン」という架空の動物は、この鷲と蛇の二原理を和合したものではないのかという事である。
 つまり「蛇の胴体」に「猛禽類の爪と羽」を備えた、「天地両雄の和合した姿」というのが西洋的なドラゴンの本質だったのではないかと思うのである。

 蛇と鷲とを「俺の動物」としたニーチェのツァラトゥストラは何を表しているかと言えば、先にも述べた通り「総合と融和」というのもあるだろうが、「両義性」という意味も込められているのではないかと思う。

 ツァラトゥストラは「何者でもなく、また何者でもあるもの」であり、創造者であり破壊者でもあり、また聖者でありながら道化師でもある。
 ここでもまた、ぼくが今年読んだ山口昌男『道化の民俗学』で論じられてきたトリックスター的なキャラが出てきたわけである。そもそも、ディオニュソスからしてまさに「トリックスター」であった。

 荒俣宏は、人類学者の小松和彦に「何かを学んでいればそのうち全て繋がっていくものですよ」といったような事を諭したそうだが、まさに知とは様々な場所で繋がっているものだとつくづく実感する昨今である。

◆◆◆

 というわけで今回ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読むにあたって、副読本として次の2冊を『ツァラトゥストラ』と同時並行的に読んでいる。

 村井則夫『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』と湯田豊『ツァラトゥストラからのメッセージ』である。村井は中央大教授の哲学者、湯田はインド哲学が専門の哲学研究者である。

 湯田の『ツァラトゥストラからのメッセージ』のほうは、『ツァラトゥストラ』をある種の人間ドラマとして物語解釈的に語っていくというスタイルを取っている。
 という事で「哲学的なディスカッションを避け」て「読者に作者の息吹を伝えること」を本書のコンセプトとしているのだそうだ。

湯田豊『ツァラトゥストラからのメッセージ』

 で、今のところ『ツァラトゥストラからのメッセージ』については(『ツァラトゥストラ』の「序論」の解説までは読んでいる)若干「薄い」という感じがしないでもない。
『ツァラトゥストラ』のストーリー・ラインを分かり易く?み砕いて説明してはいるが、『ツァラトゥストラ』を読めば分かる部分のほうが多い。著者の解釈的なものは少なめである。
 しかも、『ツァラトゥストラ』本文からの引用が頻繁に出てくる。こういう所が、内容の「薄さ」を感じてしまうのである。

 それに対して村井の『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』は、真正面から哲学的な解釈や解説を試みていて、こちらのほうが読んでいて面白い。

村井則夫『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』

 先ほど紹介した「鷲と蛇」についても、村井則夫のほうの議論を足掛かりにして考えた事だった。

 まあしかし、この2冊の副読本は両者とも真逆のスタンスで『ツァラトゥストラ』を論じている所が、ぼくにとっては後々面白い影響を受けるのではないかとも目論んでいるわけである。


<2021年5月5日>

『ツァラトゥストラ』とその副読本『ツァラトゥストラからのメッセージ』『ニーチェ‐ツァラトゥストラの謎』の3冊、全て今のところ第一部まで読み終わった。

『ツァラトゥストラ』は全部で四部構成なので、やっと四分の一に来たって所か。

 以前にも呟いたが、ニーチェの『ツァラトゥストラ』はもう何年も前に一度通読している。が、複数の入門書/解説書を読んだ後だと全く印象が違っているのが興味深い。

 今回気付いたのは、『ツァラトゥストラ』は物語形式の思想書という体裁ではあるが、実質的にはアフォリズム集の変形でもあるという事。

 逆に言えば、これはアフォリズム集に物語風のストーリーとキャラクターを付け、時折寓話を挟むという、思想書としては非常に変則的な方法が採用されているので、こういった構造には前回は気が付かなかったようだ。
 ストーリーがあるからこそ、そこに書いてある説話には「順番」があるかのように勘違いしてしまうのである。

 しかし、多くのニーチェのアフォリズム集には順番が、あるようでない。

 ニーチェの重要概念である超人思想とか永劫回帰、力への意志といった幾つかの考え方が、幾つものテーマに当てはめて言及され、一つのテーマに言及したら、次は全く別のテーマに別の概念を当てはめて演説を始める。ランダムに話題を変える。

 そもそもニーチェがアフォリズム集という形式を好んで採用しているのは、西洋哲学の長い伝統である「論理の地道な積み重ねによる思想の一大建築」を作るような形式の"重い"スタイルを嫌ったからでもあった。

 テーマは変則的に、ニーチェ的概念は幾つも分散してそのテーマに当てはめて考えられる。

 例えば、第一部の14項目目「友人について」では微温的な友情観への不信感を提示して一般道徳的な価値観に疑問を呈したかと思えば、次の15項目目「千と一つの目標について」では重要概念「力への意志」が解説され、16項目「隣人愛について」ではキリスト教の「隣人愛」の考え方を批判する、という順番である。

 この順番では14項目のテーマを読んでからでないと15項目目のテーマについては理解できないとか、話がつながらないとかという事はない。

 だが、どれか一項目を抜き出して読んでみても意味が分かるかと言えば、それ単体では分からないようなものもある。

 つまり、『ツァラトゥストラ』のアフォリズムは、飛び石的に繋がっていたり、以前解説した項目の意味が後の項目に緩く響いてきたり、やはりプロローグや前半ストーリーを踏まえてないと意味が捉えにくいものもある。
 かと思えば、やはりそれ単独で抜き出して意味が通るアフォリズムもある。

 このようにニーチェが試みていた事と言うのは、今まで書かれてきた西洋哲学の伝統的な書き方――アリストテレスが『詩学』で重視した「ミュトス(筋)の完結性」「構成の一貫性」――というものを打ち崩し、一つの作品に多様な視点、多角的な方法論を導入して複数のテーマを多面的に述べる事であった。

 こういったニーチェが試みた方法論といったものを理解していないと、まずこの本の「読み方」からして分からないだろう。
 前後の筋で言及しているテーマがころころと替わり、以前と言っている事が違っているようにも見え、ネガティブな事や不道徳な事をどうどうと推奨してはばからないようにさえ見えてしまうのだ。

 以前ぼくが読んだ時も、そういった点が気になってどう解釈すればいいか皆目わからず、読み終わっても全く理解した気になれなかったのを覚えている。
 だからこそ、今回の再読は準備万端の上でのリベンジなのだ。

◆◆◆

 先述した様に、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は物語形式の思想書という体裁ではあるが、実質的にその本質はニーチェお得意の「アフォリズム集」と同等のものであった。

 本書では「ツァラトゥストラがこういう風に演説した」という体裁でセリフ調で書かれているだけで、アフォリズムの中身は変わらない。

 つまり、本書の内容に「一貫したテーマ」というものはなく、「全体を通しての結論」といったものもない。
 バラバラにされたテーマや概念がランダムに、あたかもモザイク様に配置され、全体的に見渡してみれば何となく共通したテーマ郡が見えてくる……といったようなものなので「総括」できる体のものではない。

 これは考えてみれば読むほうからすれば非常に危うい事ではないかとも思える。

 ぼくが前回読んだ時はまさしくそうだったのだが、自分の理解できない所は記憶に留まらずにスルーしてしまい、自分の心に響いた部分のみの印象が心に残ってしまう。

「浅く読んだ読者」の読後感というのは、人によって全く変わるのではないだろうか。

 ただでさえ『ツァラトゥストラ』は、寓意や象徴的な記述など、解釈によっては内容が大きくブレてしまう内容の本だ。

 例えば、さらっと読んだだけでは、ニーチェの推奨する「戦争」を、国家間の武装闘争の事と思ってしまう読者も多かろう。

 ぼくも初読時は「没落」というネガティブな事を何故推奨するか分からなかった。今ならこの意味も容易に理解できる。
 確かに、この当時の人間は「没落」が始まっていたし、ニーチェはそれを逆に歓迎しようと考えていたのだと思う。

 キリスト教にとって人間とは「神の似姿」であり、地球上の生命の頂点に位置する存在であった。
 だが、そういう人間中心主義はダーウィンの進化論によって破壊された。
 人間は神から選ばれた特別な生き物ではなくて、サルから進化した他の動物と権利上同等の「動物」だと分かった。
 生物の中心地から人間は追放された。

 また、コペルニクスの地動説によって、地上は特権的な場所ではなく、膨大な宇宙の中の無数にある星の中のほんの小さな惑星でしかないという事が分かってしまった。
 この大地は、世界の中心なんかではなく、宇宙の片隅にあるちっぽけな星でしかなかった。
 大地は「世界の中心」という地位を奪われた。

――19世紀ヨーロッパというのはそういう時代で、科学的な知識によって、それまでの伝統的なキリスト教的世界観や価値観、道徳、常識などの権威が失墜してしまったのである。

 これを「没落」と言わずして何と言えようか。

――そして、究極の没落が「神は死んだ!」である。

 ドイツ観念論はフォイエルバッハに至って「人間は神から作られたものではない。神こそ、人間から作られたものなのだ」として、神さえも世界の中心から追放されてしまったのだ。

 このように『ツァラトゥストラ』は、ニーチェの批判の鉾先がどこに向いているのか、そして、ニーチェの思考傾向はどのようなものだったのか、という事を踏まえないで読むと全く意味が取れない。
 この本は、100年以上も経った現代の、しかも東洋人である我々に向けては、作られていないのである。


<2021年5月11日>

『ツァラトゥストラ』と副読本『ツァラトゥストラからのメッセージ』『ニーチェ‐ツァラトゥストラの謎』の3冊、第二部のところまで読み終わった。
『ツァラトゥストラ』は全部で四部構成なので、これで半分まで読み進めた事になる。

 今日は時間もないので、記憶が拡散していってしまわないようメモ程度に、二部についてつらつらと書いておこうと思う。

 第一部はほとんどの部分がツァラトゥストラの演説で占められていたが、二部となるとそれ以外にも様々な比喩や寓話、歌なんかも入ってきて物語は様々な語られ方がされる。

 語られ方が多様である上にテーマもそのモチーフも多様ときているので、相変わらず物語は一貫性がなく、アフォリズムと同じく多様に解釈できる多様な話が、一貫性もなくランダムに配置される。

 つまりはストーリー仕立てなのに「筋」がないのだ。読者は一節ごとに変わる話題にあちこちと連れ回される。

 一つのテーマについて構築的に論理を積み上げていく「重い」論文傾向を回避し、意味の固着、内容の停滞を嫌ったニーチェは一か所に留まりたくないのだろう。

「悪魔の前じゃ、俺は神の代弁者だ。悪魔というのは、重さの霊だ。軽やかな君たちの、神々しいダンスに、どうして俺が敵意を持つ?」(『ツァラトゥストラ』本文「ダンスの歌」より)

 こういう「一貫性」を回避する手法を積み重ね、本書の主人公ツァラトゥストラが弟子にまで「さっさと俺から離れろ!俺に抵抗しろ!いや、もっといいのは、ツァラトゥストラのことを恥ずかしいと思え!もしかしたらお前たちは欺かれたかもしれないのだ(『ツァラトゥストラ』本文「贈与の徳について」より)」とさえ言うほどの徹底したラディカルな相対主義、懐疑主義はどこに行きつくのか?
 同一性の喪失、足場がなくなる。
 それまでの「積み重ね」を破壊し、絶え間ない自己超克、自己変革を繰り返すと、それは自分に返ってくるというわけである。

 なるほどこれは内面ドラマだ、と思わせるのはこういった相対主義・懐疑主義的な視線を徹底させていけば、当然自分さえも懐疑的な視線を向け、自分の思想の価値も相対化しなければならなくなる。

 こういった「矛盾」らしき筋からもわかる通り、ニーチェの思想はただ単に「"全て"の価値の転覆」を目しているわけではないのである。
 そこには非常に明確な方向性があり、対象があり、目標までがあるわけである。相対化や懐疑主義も、そのための戦略にすぎない。ニーチェは「そこ」に向かって自己超克を繰り返すというわけである。

 そのロールモデルが「超人」というわけだ。

 よく本書のテーマの一つであろうと言われている節が、本書の冒頭部分に配置されている一節「三様の変化について」だが、それが有名な「精神はラクダになり、ラクダはライオンになり、最後にライオンは子供になる」という三体の状態である。

 今まで読んできた限りで言えば、これはどうやら第一部が「ラクダ」にあたり、第二部が「ライオン」だったのではないかと思うのだ。

 第一部のツァラトゥストラは、自らの殻を破って下山し、人間のために説法を行い、集う弟子に様々な教えを与える。人間と共にあり、自信満々にその思想を開陳し、「超人」への道を示す。

 だが、彼は第一部のラストで自信満々に弟子らに対して、自分の教えを忘れるように、自分を忘れ、自らの思想をつかめば自分は再び君たちの元に戻ってくると言い、弟子たちの元を離れるのである。
 弟子や人間たちを思って下山し、彼らの思いを背負いこむツァラトゥストラの精神は「ラクダ」と思っていいだろう。

 そして、第二部、ツァラトゥストラは冒頭、鏡を見ると「俺じゃなかった。悪魔がしかめっ面をして、嘲笑っていた(『ツァラトゥストラ』本文「鏡を持った子供」より)」という夢を見て「俺の敵は力を持つようになり、俺の教えの姿がゆがめられてしまった(『ツァラトゥストラ』同節より)」と危機感を抱く。
 これによってツァラトゥストラは「敵」の元に向かって再び、下山するのである。

 下山したツァラトゥストラは様々な敵対者や世の欺瞞を批判する。
 タランチュラに噛まれ、「火の犬」と対話し、聖職者を「敵」と呼んで批判する。

 第二部は「精神の砂漠の中で主人になろうとする」ライオンの様態に変化するわけである。
 そして、第二部のラストで彼は「最も静かな時間」から次のように諭される。

「子供になって、恥を忘れることね。青年のプライドがまだ残っているわね。あなた、青年になったのが遅かったのよ。でも、子供になろうと思うなら、自分の青年時代も克服する事ね」(『ツァラトゥストラ』本文「最も静かな時間」より)

 これは明らかに、「ライオン」の精神から「子供」の精神への変容を求められているという前振りと思って良いだろう。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』という本は、一節一節が全くバラバラな順番、全くバラバラなテーマを持った、一見「一貫性のない」形式に見える作品である。
 だが、その方向性というのは、一定方向を向いているのではないかと思うのだ。
「筋」に一貫性がないからといって、ニーチェの思想までもがそうだとは限らない。

 彼は、さまざまな比喩や寓意、そして様々な語り口をもってして様々な角度から語る。
 だが、その内容については「超人思想」であり「キリスト教道徳批判」であり「永劫回帰」であり「力への意思」であるという事は変わりない。

 これら「一貫したテーマ」をバラバラに配置し、様々な語り口でもってして、様々な角度から検証する事によって、これらの思想を推進し、刷新し、研磨し、ブラッシュアップさせていっていた――それが『ツァラトゥストラ』という作品だったのではないだろうか。

 そして、バラバラに見えるそのストーリーは、実は裏側で「三様の変化について」に従って、着々と成長を続けていっている。

 そういう「内面ドラマ」という筋によって、ニーチェの持っている思想そのものも成長させていっている。『ツァラトゥストラ』とは、そういう作品なのではないかと思うのだ。

 さて、これから後半戦になるので、ここまでのぼくの見方がどれだけ当を得ているか確認しながら今後も読み進めていきたいと思う。


<2021年5月25日>

 副読本のほうはまだ読了していないのだが、先に光文社古典新訳文庫版ニーチェ『ツァラトゥストラ』上下巻、読了。

 うむ、ぼくがなぜ前回この本を「全く理解しきれていない」と感じたか、その理由が分かっただけでもありがたい。
 そして、ニーチェの思考傾向を理解した後に読む『ツァラトゥストラ』はなかなか面白かった。

 ニーチェ『ツァラトゥストラ』は一言で言えば、ゾロアスター教の開祖(であり同時にニーチェの分身)であるツァラトゥストラの説教集といった体裁を取っている。
 だが、実際は前から説明してきている通り、歌あり詩吟あり自己対話ありアフォリズムあり……というあらゆるスタイルを混合した「メニッペア」あるいは「メニッポス的風刺」という古風な西洋の俗流文学のスタイルを踏襲しているのである。

 だから、本書に哲学論文や学術論文のような「最終的な結論」はないし、結末がどうなったからこの本の最大のテーマがどうなのか、といったような通常の文芸批評も通じない。

 また、本書は先日も言ったように様々なパロディ(主には聖書など)からできているために、元ネタが分からないと何を風刺しているのかもわからない。

 おまけに本書では物事をあまりストレートには言わず、「静かな時間」に語らせたり、「生」に騙らせたり、あるいは「鷲と蛇」に語らせたり……という所まで行くと、一体何の比喩なのか、何の象徴なのかがわからなければ、全くニーチェの言わんとしている所の意味が通らないのである。

 しかし、特にニーチェの後期思想というのは、同じテーマや同じ思想について、あらゆる違った角度から、違ったスタイルから、違った切り口から、語り尽くすという方法を取る場合が多いので、そういったニーチェの「思想傾向」さえ踏まえてしまえば、本書はそれほど「難解」と呼べるほどのものではないようなのだ。

 だが、そのニーチェの思想傾向というのはニーチェの複数の著作を読むか、もしくはニーチェの解説本を複数読まなければなかなか分かるものではないだろう。
 事実、ぼくも過去、樋口克己『図解雑学・ニーチェ』一冊のみを事前に読んでから『ツァラトゥストラ』に挑んで、みごとに撃沈してしまっている。

『ツァラトゥストラ』もニーチェの数ある著作のコンテキストと全く関係のないものではないという事だった。
 ニーチェはあらゆる既存のキリスト教の伝統的思想、キリスト教道徳を批判し、転覆するためにしばしばキリスト教的なシンボルを揶揄するようなアフォリズムを作るのである。

 例えば本書の場合だと第四部の「最後の晩餐」という節は、名前の通り聖書の最後の晩餐のシーンのパロディで出来ているし、同じく第四部の「ロバの祭り」ではロバを「神様」として祈りを捧げ、ロバがヒヒーンと応じると言うコメディタッチのドタバタ喜劇を演じている。
 ここはまだ分かりやすいほうだ。

 その他にも、ニーチェのルサンチマン批判の内容が分かっていなければ「同情」や「隣人愛」を批判する意図が分からないだろうし、ニーチェの超人思想の内実がわからなければ戦いや不平等を推奨する意図も分からなかっただろう。

 つまり、ニーチェはある程度、言っている事は一貫しているのである。

 そういった思想の一貫性を保ったまま、ニーチェは本書でシンボリックな表現を意図的にエスカレートさせていっているのだと『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』の村井紀夫は説明している。

 象徴が象徴を生み、もはやオートマティスム的に肥大していく象徴表現。だからこそ後半に行くにつれてシンボリズムは難解さを増す。

 それだけ読者を煙に巻いていくかのように重厚にシンボリズムを暴走させていったからこそ、本書は様々な解釈を生みうるし、ニーチェ自身が本書の「基本構想」だと言っている永劫回帰の思想そのものさえも、受け取り手によって様々な解釈を生んでしまうと言う事となっているのであろう。

 因みに、本書はニーチェが自ら自分の最も重要な著作と称しているものの、本書もニーチェの多くの著作と同じくほとんど反応らしきものが返ってこなかったという。

 そのため、ニーチェは再び、本書で提示した様々なテーマについて、今度はお得意のアフォリズム集として『善悪の彼岸』を執筆し、それでも読者の誤解を生み易いと考えたのか、今度は更にストレートな論文として『道徳の系譜』を執筆する事となる。
 ニーチェの最良の解説書はニーチェ自身の著作だ、と良く言われるのはこういった所でもある。

 さて『ツァラトゥストラ』については、まだ二冊の副読本を読んでから総合的なレビューを書こうとは思うが、ぼくの本年の「ニーチェ研究」はまだそれだけで終わりそうになく、やはり上述した『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』までは読まなければならないようだと理解した。

<2021年5月27日>

 今年の読書課題の"ニーチェ入門"12~13冊目となる『ツァラトゥストラ』の副読本、湯田豊『ツァラトゥストラからのメッセージ』と村井則夫『ニーチェ‐ツァラトゥストラの謎』の2冊読了。

 湯田豊のほうは本書の軽い要約、村井則夫のほうは本書に含まれる様々な寓意の謎解きといった内容であった。

 という事で当然、村井則夫『ニーチェ‐ツァラトゥストラの謎』のほうが参考になる内容である。

 以前から呟いていたが、湯田のほうの内容はほとんど『ツァラトゥストラ』本編を読めばわかる内容であり、わざわざ改めて読まなくても良い内容だった。
 湯田はインド哲学が専門であり『ブッダvsニーチェ』という著書もある。
 だからこそ、東洋思想とニーチェ思想との比較検討というテーマを抱えているのではないかという淡い期待を抱いていたのだが、こちらは予想以上に薄い内容でしかなかった。

 ニーチェの「生成」の考え方はインド思想の「無常」の考え方に似ているという点について「考察」とまでいかない軽い言及をしているが、これについては日本では仏教思想のほうが有名なので、誰でも連想する凡庸な発想でしかない。
 むしろ、ニーチェの「生成」の考え方は仏教的な「諸行無常」の思想というよりかは「古代ギリシア主義者」であるニーチェの思想傾向を考えればヘラクレイトスの「万物流転の法則」が発想元である事は明白だと思うのだ。

 様々な解説書で指摘されている通り、確かにニーチェはブッダの教えを知っていて、それについてしばしば言及している。
 だからその部分をちゃんと追及してくれているのかと思えばそうでもなく、「ニーチェのあの思想とインド哲学のあの思想は似ていますよ」といったヌルい指摘にとどまっている所が退屈であった。
 考察も論証もなし。エッセイ・レベルの解説が延々と続けられては、何の参考にもならない。

 という事で湯田豊『ツァラトゥストラからのメッセージ』は無内容。最後まで読んで心から「時間を無駄にした」と感じた。以上で、湯田豊氏のほうの副読本についての言及は終了したいと思う。

◆◆◆

 という事で参考になったのは村井則夫氏の『ニーチェ‐ツァラトゥストラの謎』のほうであった。
 こちらのスタイルは、例えば『存在と時間』に対するマイケル・ゲルヴェン教授の『ハイデッガー『存在と時間』註解』だったり、『純粋理性批判』に対する竹田青嗣教授の『完全読解カント『純粋理性批判』』だったりのような、一節一節の内容をじっくりと要約して解説していくタイプのものではなく、四部構成の『ツァラトゥストラ』を一部ずつ、大づかみで解説していくというスタンスをとっていたが、湯田氏の解説など比べるとこちらのほうが断然情報量が多くて参考になる。

 そもそも『ツァラトゥストラ』はそうそう精読できるものでもない。

 何しろ、ほとんどが寓意や象徴表現によって間接的にものごとを論じていくスタイルが『ツァラトゥストラ』という思想書なのである。

 そもそもが、西洋の伝統的な哲学の語り方である「AはBである」といったような明快な命題形式を否定するためにアフォリズム形式を多用しているニーチェなのである。

 また、『ツァラトゥストラ』は先日も呟いたように、寓意に寓意を重ね、比喩に比喩を重ねる、非常に錯綜したスタイルをとっている。
 これは修辞学的に言えば「多段転義(メタレプシス)」というのだそうだ。ニーチェも「形象と比喩が、私の意思にかかわらず、有無を言わさず生じてくる(『この人を見よ』より)」と『ツァラトゥストラ』の執筆時、自分に起こった比喩の増殖作用を説明しているほどである。

 ニーチェの思想に関わるあらゆるイメージが自己増殖を始め、個人の意識をはみ出してシンボリズムを深化させていく。――これが『ツァラトゥストラ』という思想的奇書が一義的な意味から逃れてしまう理由の一つでもある。

 だが、これだけ奔放なスタイルで書かれた思想書となると、当然の疑問としてその主張に意味はあるのだろうか?という所は気になるだろう。

 しかし、ニーチェは自分の批判の矛先であるキリスト教道徳や受動的ニヒリズム、ペシミズムへの批判といった自らのスタンスに立脚したアンカーをちゃんと下ろしている。
 そのうえで永劫回帰や超人思想と言った独自の思想についても作り上げているのである。

 ニーチェは、それを西洋哲学の伝統的なスタイルで「ストレート」に言及するのを拒否したのである。
 ニーチェは何より多角的な視点から自らの思想を語る事を志向していたのであって、読者をけむに巻くのが本意ではなかった。
 だから「構築的」なスタイルを取らなかったのである。

 ニーチェの意図は、上に何度も述べた通り「伝統的な西洋思想」を転覆させる事にあった。
 様々な語り方で、今まで西洋人らが「常識」だと思っていた事をくつがえし、西洋人たちの考え方を変えさせようと考えた。

 だから「説得」ではなく「気づかせる」スタイルが採られた。

 パロディ、風刺、ドタバタ喜劇……『ツァラトゥストラ』の中で何度も試みられるこうしたコメディ的な方法というのは、「既存の権威的な価値を脱臼させる」……まさに西洋の「喜劇(=お笑い)」が担ってきた仕事であった。

 ニーチェは、宮廷道化師が王のパロディを演じる事で王の権威を相対化したように、聖書のパロディというスタイルを取る事で、キリスト教的な権威を相対化しようとしたのである。

『ツァラトゥストラ』には、まさに「道化師」が現れるシーンが何度も出てくる。
「道化師」というのは山口昌男『道化師の民俗学』でも、民俗学的には笑いによって権威を転覆させる役割を追っていると説明されている。

『ツァラトゥストラ』は、こういった錯綜した語りを持っている上に、複数のテーマをランダムに取り上げて言及するため、「構築的な語り」を通常の語りだと考えてきた西洋人にとっては読みにくかったに違いない。

 読みにくかっただろうし、そのような「笑い」を重要な要素とした書物に、真面目で重要なテーマが伏在しているとは思わなかったかもしれない。
『ツァラトゥストラ』の当初の売れ行きが芳しくなかったというのもうなずける話だ。

 理解されなかったと感じたニーチェは、この『ツァラトゥストラ』の内容を後年さらにアフォリズム集として展開し、さらには通常の論文形式でも展開して説明しようと試みる事となる。

 生前「自分の思想が受け入れられるのは20世紀になってからだろう」と言った事を言っていたニーチェは、その20世紀に入る直前の1900年に他界した。

 そんなニーチェのの思想は「西洋近代の超克」を志向する20世紀の西洋思想に大きな影響を与えた。

 ニーチェと同じく「古代ギリシア主義者」であったハイデガーはニーチェの思想をしばしば講義のテーマにして言及していたし、ポスト構造主義の代表的な思想家たち――フーコー、デリダ、ドゥルーズらもニーチェに影響を受け、しばしばその著書に名前が挙がっている。
 三島憲一によればローティや三島由紀夫などもニーチェについて言及しているのだという。
 そう言えば日本でも、戦前からいち早くニーチェの思想が研究されていた。

 ニーチェの思想は「伝統的な西洋思想の超克」という20世紀西洋思想の重要なテーマを完全に先取りしていたからこそ、その後の思想家がこぞってニーチェに言及しているのである。


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