◆読書日記.《高田珠樹『ハイデガー 存在の歴史』――シリーズ"ハイデガー入門"3冊目》
※本稿は某SNSに2020年2月10日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
高田珠樹『ハイデガー 存在の歴史』読了。講談社から出ているあの『現代思想の冒険者たち』シリーズの一冊。
これは参考になった! 本書は「20世紀最大の哲学者」と呼ばれたドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの生涯を、主に少年時代から主著『存在と時間』を出版した30代半ばまでを焦点にして、その思想の変遷を追った「評伝としてのハイデガー入門」。
ハイデガーを擁護している部分は多めだしハイデガーの性格には踏み込んでいないのでそこら辺が漠然とした印象なのだが、それでも書き方は明快。
少年時代から順を追ってハイデガーの影響関係や思想の変遷を辿るので思想の解説も理解し易い。
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本書はハイデガーの評伝的な内容の強い解説本なのだが、その重点はハイデガーの少年時代から30代で主著『存在と時間』を執筆するまでの、ハイデガー思想が固まるまでの期間に置いているようである。
これだと前期ハイデガー思想への考察がメインになるかと思うのだが、後期ハイデガー思想も「転回」とは言えどその思想的構造は左程変わってないとも言うそうだ。
と考えればやはりハイデガーの思想形成期に何があったのか?というのを見るのもハイデガーの思想を考えるうえで重要になって来そうである。
で、ハイデガーはヴァティカン派教会の雑務や建物管理をしている「堂守り」の父の元に生まれたクリスチャンであり、神学校に通って聖職者になる事を期待されていたという。
当時のドイツは近代主義と反近代主義の間で揺れていたのだそうだ。
当時は西洋的な科学や数学や論理学などの学問が発達してきていて、その進歩的思想(近代主義)とそれに反発するカトリック保守主義(反近代主義)という対立関係があった。
聖職者は当時から20世紀後半に至るまで反近代主義を宣誓させられていたという
ハイデガーは神学校のギムナジウムに寄宿して勉学に励んでおり、学生時代から活発に様々な雑誌に論文を投稿していた秀才だったと言われている。
だが、その当時のハイデガーの論文には、かなりカトリックの立場で近代主義を批判するような政治的発言も行っていたのだという。
これはあくまでぼくの印象なのだが、ハイデガーは人生の節々で「自分の利に適う事であれば政治的発言もする」という選択をしていると感じる。
学生時代のハイデガーがさる記念式典での開会宣言を述べた際、ドイツのカトリック信者のあいだで生じているひとつの論争についても言及しているそうなのだが、それはカトリック系の二つの雑誌――近代主義よりの『高原』と反近代主義を打ち出した『聖杯』との間で起きていた論争で、この二誌をハイデガーは「きわめて客観的に」評した上で、最終的に『聖杯』の定期購読者になり『聖杯』同盟に入会するよう呼び掛けて演説を締め括り、拍手喝さいを受けたのだと言われている。
また後年、ハイデガーがフライブルク大学の総長の就任においてヒトラー礼讃の演説を行ったという事や、その前後の時期に政治的なアジテーションを事とする多くの活動や執筆も行っていたという事実もビクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』で暴かれている。
特にそのファリアスの『ハイデガーとナチズム』では、ハイデガーが反近代主義を土台とした保守的なナショナリストとしての強い傾向を持っていたという事を、かなり綿密に資料を追いながら指摘しているとも言っているのだという。
ハイデガーは元々、政治的な活動もいとわないという性格を持っていたというわけだ。
そう考えてみても、『存在と時間』の最終的な結論として、死の先駆的了解を行った現存在がともに共同する必要性を訴えた際の、「共同する現存在」が何故「共同体・民族」単位でなければならなかったのか?「民族」単位である必然性を説くだけの説得材料に乏しい所があるという指摘がなされているという部分がアヤシクなってくる。
ハイデガーは、おのれの政治信条を反映させるために、哲学思考を「歪めた」のではないか?……という疑いさえ浮かんできてしまう。
もし本当にそうであるならば、竹田青嗣氏も指摘している通り、それは政治による「哲学の敗北」ではないか? 読めば読むほど、ハイデガーの闇を感じてしまう
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さて、本書はそのように少年時代から順を追ってハイデガーの影響関係や思想の変遷を辿るスタイルで書かれているために、その思想の解説も非常に理解し易いようになっている。
何より、ずっと疑問だったハイデガーとナチスとの関係についてもハッキリと書いてくれていたのがありがたい。
確かに他の入門書でもハイデガーがナチスの宣伝文を書いたりナチスを称える演説を行ったりといった、ナチスに加担する活動を"積極的に"行っていたというのは間違いないだろうとは指摘されていた。
だが、ぼくが最も知りたかったことは、ハイデガーが「思想家として」おのれがナチスに積極的に加担していたことをどう総括していたのか?という事だった。
本書の著者はハッキリと書いている。「第二次大戦後、ハイデガー自身や彼と親しかった人物たちによって、彼のナチ加担に関わる事実の多くが隠蔽され、また当時の行動の意味を歪め矮小化する様々な試みがなされてきた(本文より引用)」――ハイデガーは、おのれがナチに加担した事実を思想家として反省も総括もすることなく「隠蔽」し「歪め矮小化」していたのだ!
さすがにこの態度はぼくの想像外だった。せめて心の中で後悔くらいはしていてほしかった。
本書の記述によれば、ハイデガーは若い頃から国粋主義、民族主義、国家主義に共感するような素養や思想を持っていた。
ユダヤ人排斥運動については、積極的に加担するとまではいかなかったが、ほぼ「黙認」していたという。
ナチスについては、自ら大学自体のナチス協力体制を推進していこうとさえしていた。
ハイデガーがそういう思想傾向にあったというのは百歩譲って仕方がないとするとしても、それならばおのれの思想を貫いて、ナチスに加担したことについてウヤムヤにすることなく、それについて自分自身の思想とどのような関わりがあったのか、戦後も正々堂々と思想的総括をすべきだったのではないか。
思想家として、自分の思想が非難に値する行為だったとしたら、それを公にして非難を浴びるべきだ。それがナチに加担した思想的報いというものであろう。
自分が一時期声高に主張していた政治的宣言を、取り下げる事も否定して反省する事もなく、誤魔化して自分の思想家としての存在を延命させようという姿勢は、何より思想家として卑怯だ。
もちろん、女性関係にだらしないとか批判に対して激昂して罵倒したり、という性格に問題のある思想家はたくさんいる。
だが、ハイデガーの問題は「性格面」などではなく「思想家としての姿勢」なのだと思うのだ。
この一事を以てしても、ハイデガーは十分に思想家として重大な欠点を抱えていると言えるだろう。
だが、あくまでそういったハイデガーの批判的側面を前提として踏まえた上で、彼の20世紀に残した思想家としての影響関係やその思想のエッセンスを抽出する作業は続けてみよう。
彼の思想の源流は何だったのか?
ハイデガーは若い頃から晩年に至るまで、その本質は「古典主義」的な思想家だったのではないかと思う。
彼がギムナジウムで真っ先に影響を受けたのはカソリック保守思想と反近代主義だし、彼が最初に構想していた単著は『アリストテレスの現象学的解釈』だったし、そのアリストテレス思想や古代ギリシャ哲学については「ピュシス」や「アレーテイア」等のキーワードとして後期ハイデガー思想でも重要概念となっている。
そもそもの主著『存在と時間』は前半のみしか出版されていないが、当初の構想によれば、後半は前半で構築した「存在の時間性」を「テンポラリテート」と呼び、このテンポラリテートを手引きとして西洋思想における「存在」の扱いをカントからデカルト、そしてアリストテレスに至るまで遡行する「哲学史」だった。
つまり、『存在と時間』は最終的に「存在」の本質がアリストテレス思想にまで遡行する、ハイデガーの古典主義的考え方を反映させるものとして構想されていた。
このような「古典主義」の考え方は後期ハイデガー思想でも「反文明論」「反技術論」「反ヨーロッパ論」等として一貫して流れていたものだった。
最終的にナチスと決裂するのもその部分だった。
ハイデガー思想では現存在としての個々の人間が、同時に共存在として共同する存在でもあるとされた。
現存在はおのれの歴史性を背負い、その歴史性を共に将来的な可能性として共同体と共有して継続させていく、そのために「国家」や「民族」を重視する考え方が出て来る。
同じ歴史を共有する「民族」は重要な共存在だという考えはナチスの姿勢とマッチしたが、ハイデガーの古典主義的な考えが、ナチスの近代国家としての近代的発展と工業化の推進という部分とバッティングした。
ハイデガーは自分の思想を踏まえたナチ運動を大学で展開しようとするが、その古典主義的な素養が、ナチスの担当官との反発を呼び、最終的にフライブルク大学の総長職の辞任に追い込まれる事となる。
だが、それでもハイデガーは教授として授業は続けたそうだし、ドイツ敗戦までナチスの党籍は捨てることがなかったと言われている。ちなみにハイデガーのナチス党員番号は3125894番だったそうだ。
ハイデガーの愛人だったハンナ・アレントは、ハイデガーがナチス党員として積極的に活動していたことをどう見ていたのだろうか?
彼女はユダヤ人として一端ゲシュタポに捕まった事があり、釈放されたのちアメリカに亡命している。
戦後、再びハイデガーの面倒をみるようになるそうだが、その思いや如何。
ハイデガーの恩師だったフッサールもユダヤ系ドイツ人だった。ユダヤ人迫害政策が進んでいく中でフッサールは息を引き取った。
そのフッサールの助手として長年フッサールの仕事を手伝っていたエーディット・シュタインは修道院に引き込んでいたところをゲシュタポによって連行され、アウシュヴィッツで殺害された。
ハイデガーの弟子でありユダヤ人でもあったヘルベルト・マルクーゼもレーヴィットも、それぞれバラバラに逃げるようにアメリカに亡命していった。
ハイデガーの友人だったヤスパースは、妻がユダヤ人の血を引いていたため、離婚するかハイデルベルク大学の教授職を退職するかの二択を迫られ、結局は大学を追われた。
ハイデガーにはこのように、多くのユダヤ系の友人知人らがいた。
不幸に見舞われた友人を気遣う手紙を書いてはいるが、相変わらずハイデガーはその友人らにもナチスの素晴らしさを説明していたのだという。改めて、所詮ハイデガーとはそういう人間だったのだ。
さて、最後にもう一つハイデガーの思想家としての特徴をまとめておこう。
ハイデガーは出版を前提にした著作と言うのがほとんどないという。
あえて言うなら主著の『存在と時間』だが、この本もハイデガーがフライブルク大学の教授職を得るさい哲学者としての実績を求められたために、関係者にせっつかれて書かれたものだ。
つまり、『存在と時間』はそういった職場の仕事としての必要性から「書くことを求められた」という面があるそうで、そう考えれば『存在と時間』の記述にしばしば排外的な独善さや論の性急さといったものが見られるという点についても、そういった状況から生まれた著作だからではないかとも考えられるのだ。
ハイデガーは友人のヤスパースへの手紙に「私たちはソクラテス的に哲学したいものです」と書いたことがあったのだという。
言うまでもなく、ここで言う所の「ソクラテス」と言うのは「本を書かない哲学者」を意味している。つまりハイデガーはデリダ的に言えば「パロール主義者」だったのだろう。
古代ギリシャのソクラテスが顕著なように、西洋思想の源流では「エクリチュール(書き言葉)」よりも「パロール(発声)」のほうが重要視された。
エクリチュールというのは、対話の対象となる相手以外の人間にも回覧され、発話者に直接意図を正されることなく受け取り手が勝手に解釈する、と思われていたのだ。
ハイデガーが「古典主義者」であるという素養を考えてみても、そういった古代ギリシャ的な「ソクラテス主義=発話を重視するスタンス」というのも、ハイデガーの特徴のひとつと分かる。
実際、ハイデガーの著書は『存在と時間』以外のものは講義録や雑誌掲載の論文、対話篇、覚書などを集めた短編集がメインなのだ。
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