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◆読書日記.《『美術手帖』2017年12月号 特集・これからの美術がわかるキーワード100》
※本稿は某SNSに2019年9月2日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
雑誌『美術手帖』の2017年12月号「特集・これからの美術がわかるキーワード100」読み終わりました!
この号の特集は2010年代のアートの傾向・動向をキーワードに沿って事典形式で解説していく「保存版!2010年代の美術事典」との事。
最近読んでいた現代美術系の書籍の総仕上げとして通読してみた。
これまで紹介してきた通り、戦後~80年代までの美術を追った『現代美術の流れ』、戦後~90年代までを紹介した『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』、2013年までのプライマリ・マーケットの状況を紹介した『サザビーズで朝食を』と読んで来て、ぼくの中で本書は戦後の西洋現代美術を理解する総仕上げといった位置づけ。
ぼくが大学で現代アートに触れていたのは2001年までの事で、その時点でもう「現代アートはけっこう退屈だ」と思っていたのだが、こうして改めて戦後からの現代アートの流れをおさらいし、2010年代の最新状況を概観してみて感じる事は、現代アートの状況はますますぼく好みでない状況になってきているという事。
かなり前にも芸術という枠組みはもう既に古びたものになってしまっているのではないかという趣旨のコラムを上げたことがあるが、現在もまだそういう認識はあまり変わっていない。「古びた」というか、どことなく「元気がない」という印象を受けるのである。
エンタテイメントとか商業とか工芸とか、そういう人の手で作られた物品が溢れ返っているこの消費社会的世の中にあって、あえて「芸術」という権威性の高い分野を残す意味があるのか?単なる権威主義では?と疑問に思ってしまうのである。
例えば現代アートにはパフォーマンスというジャンルがあるが、これを「アート」の一ジャンルに入れる意味は何なのか?「パフォーマンス」という新たなジャンルにしてはダメなのか。
例えばポスト・オキュパイについても、わざわざ「アート」だと断る必要はないのではないのか。
本書でも言及されているが、今では「現代アートのゾンビ的な延命」という言い方も出てきているらしい。まさしくアートは随分と前に死んでいて、ゾンビ化してるのではないか。
そして、近ごろの美術思想の流れも、ぼく的にはあまり興味がないトピックが並んでいる。
その中でも最大の項目としてメイヤスーの思弁的存在論が紹介されているが、メイヤスーにしても何だかそれを今、芸術という枠組みでやる意味はあるんだろうか疑問に思ってしまうのである。
日本では現代アートの社会に対する影響力というのはさほど大きいものではなく、依然として「休日の娯楽」のようなものでしかない。
高度に芸術的な大衆娯楽作品がエンタテイメント市場に出現する一方、アートが一般大衆にも分かり易く親しみ易いアミューズメント化する。じゃあ結局「芸術」って何のためにあるの?それは今後も必要なものなの?という根本的な、大きな疑問が浮上する。
西洋では強い影響力を持つ美術運動や美術様式がなくなって(依然として重要な「文脈」というものは存在するものの)方向性は拡散する傾向にある。それは社会運動と溶け合い、政治活動と溶け合い、思弁活動と溶け合い、テクノロジーと溶け合い、それぞれのジャンルに薄く浸透していっているようにも見える。
どこか、以前は強力に存在していた「アート」という大きな物語の核がポッカリとなくなってしまったかのような、元気のなさを感じてしまうのである。
◆◆◆
……あと、重要な事を忘れていた。
つい最近起きた「表現の不自由」展の検閲問題だが、日本の美術作品に対する検閲問題はもう既に本書の出版時期の時点で問題になっていた事で、カオス*ラウンジの黒瀬洋平も「『ポスト真実』の時代は、現代美術を『政治化』する」と書いているように日本の美術界はまんまと政治化している。
そして、「表現の不自由」展のように現代アートが政治について疑問を呈するのも、政治的な発言をするのも、近ごろの美術界の世界的なトレンドであって、何も「表現の不自由」展の芸術監督を担当した津田大介の勝手な思想的判断でも何でもない。
あいちトリエンナーレのテーマに「表現の不自由」が選ばれたのは最近の流れとしては実に「普通」な事でしかない。
逆に言うと、あいちトリエンナーレが権力からの検閲を受けたという事実は、世界の美術家からすれば無視できないトピックになってしまったのではないかとさえ思う。
あいちトリエンナーレを潰そうと画策した有象無象のやからは、その行いによって逆に日本の汚点を世界中に知らしめたかもしれない事を理解すべきだろう。
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