【読書メモ】線『生きていること』#4
インゴルドは、生のプロセスとしての進化(と生産)という見方を「創造性と持続」という考えと結びつけようとした。
ホワイトヘッド:世界は完了したものではなく、絶えずそれ自体を超えていくものである。創造性はそんな運動である。
ベルクリン:生を発展という創造の運動に時間の本質がある。何かが生きているところには、どこかで時間が記入される帳簿が開かれている。
生は進行し続け、その中で向かう先の地点は無限に乗り越えられていく
(受験や興味あることもそう。あの山登ろう!登った後には次はこれしよう!
とつながっていく。若者の早期リタイア思考(FIRE)はなんだろう、、、)
地平の向こうに新たな目的が立ち現れ続ける。この地平は越えられない。生の目的に到達することはできない。
インゴルドは生を線として捉えようとしていたのである。
そんな時、精神分析家のフェリックス・ガタリの著作に出会う。
「個人、集団の別を問わず、我々人間を作り成すのは複数の線である。いやむしろ線の塊というべきだろう」。そこには線が存在し、生命の線、エクリチュールの線、線に変化を生み出す線、運/不運の線などがある。ドゥルーズとガタリはこれらの線を「逃走線」と呼んだ。
両岸に気を取られて川を見失っていた。
(川→生きているということ、物事は全て絶えず生成変化している。川の流れがなければ、両岸もその間の関係性も始まらないが、、両岸のことばかり目の止まるということ?)
これまでの「生産」「歴史」「住まうこと」を振り返ると、
<生産>
両岸を結ぶ橋:
流れている川:
<歴史>
両岸を結ぶ橋
流れている川
<住まうこと>
両岸を結ぶ橋:
流れている川:
川を見る視点を取り戻すためにどうするか?
心象→対象の横断的関係から、「素材」と「感受性」の縦断的な軌道へ目を向けなければならない。
存在するものは全て時の流れに放たれて、生成変化の軌道を持つ、私たちの課題は、世界の内部に格納された内容物を鑑定するのではなく、そこで進行しつつあることを辿ることである。一群の生成変化の線の軌跡をその向かう先へ辿っていくことが人類学を生き返らせる。
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