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【読書メモ】生産とは『生きていること』#1

前回↓に引き続き、ティムインゴルドの著作『生きていること』の読書メモを綴っていきます。

人間がやることと-動物がやることは何が違うのか?をきっかけに「生産」を考えるようになったという。


人間にしか「生産」はできない??「生産」とは何か?

フリードリヒ・エンゲルスは
「人間はあらかじめ建てられた計画・目標に起因して動く」と記した。

つまり、目的志向性を持ち、常に自分が何をしているか、なぜやっているのかを考えている。

よって人間の行為は「生産」していることになる。

動物は自分がしていることを顧みることはない。環境内で環境を改変することを目的として労働することはない。よって「生産」をしていない。

マルクスの『資本論』でも同じ結論に辿り着いていたという。

巣を作るミツバチやクモと異なり、人間が「生産」するのは、労働の過程に先立って、頭の中で作り上げ、、観念的形象として存在していたものに過ぎない。

頭の中にある物(心象)を労働を通して作り上げる。(対象を)「生産」する。

「心象」はどこからやって来るのか?

マルクスによると、「消費」が「生産」の目的を規定するという。

つまり、「生産」されたものに対しては、「消費」がある。
よって、「生産」されたもの(消費の対象)が纏うべき形、果たすべき機能への期待を作り出す。よって消費が「生産」プロセスを駆動するのだ。「生産」と消費はどちらが先か?は鶏か卵が先かという問いと同じである。

「生産」の「プロセス」に注目すると、、

「心象」→「対象」に変換することが「生産」なのだろうか。
そもそも、、
「心象」→「対象」は指を鳴らせば一瞬でできる変換ではない。
労働(生産)のプロセスには時間がかかり、目的に向かう「意志」「注意力」という形で現れ、労働の全期間必要とされる。

そして変換されるのは素材だけではない。労働者自身も、行為と知覚の潜在的な可能性が発現する。つまり労働の前後では別人になる。

「生産」の本質とは、

目の前の目標の達成すべき心象を形にすることよりも、「生産」という行為が持つ、注意深い調整という質。「生産」とは展開しつつある、課題に対する敏感な調整とそれが作り手を発達させることではないか。結果よりもプロセスに目を向けると、「生産」という行為は生きることそのものである。

(周囲の世界に対する注意力を働かせながら行動し、自らも変化しながら、世界を前進させようとする営みが生きるということ?)

「生産」という行為が、生産者の人間と、周囲の世界の可能性を抽出して現前させ、前へと導き出す能力に焦点を当てる(pro-duce)
とき、
人間も動物も、心の中にあるものをデザインして、世界を改編しようとしていない。人間も動物も同じ「生産」という行為を行う生産者である。連続変化する世界で、何らかの形で参加しているにすぎない。世界の中で育ち、世界も誰かのもとで発展していく。

まとめると

「生産」という行為のプロセスに目を向けると、「生産」とは展開しつつある、課題に対する敏感な調整とそれが作り手を発達させる営みである。それが、生きるということである。そして人間も動物も「生産」という行為を行い、生きているのである。

例えば、、noteでの「発信」を考えた時に、頭の中にある「心象」を活字に「対象」として書き起こすことが「生産」ではない。これはプロセスに注目した「生産」ではない。プロセスに注目すると、書き起こす過程で悩むこと、思い出すこと、自分に問いかけること、周りの人に問いかけること、は全て目的に向かう意志を「注意力」によるものである。その注意力を原動力にしながら動き、筆者自らも発達し、世界を前進させる。これが、プロセスに着目した時の「生産」であり、生きているということなのかなと思いました。

インゴルドは「生産」の次に「歴史の意味」について考察を行った。

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